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哲学的志向のフットボーラー、西村卓朗を巡る物語「最終回 引退」

2015.08.03

「引退という言葉は人が生きている限りありえない」(富野 由悠季/アニメーション監督)

文●川本梅花

〔登場人物〕
僕…西村卓朗(コンサドーレ札幌 前所属)

1.引退を覚悟した瞬間

 冬は、僕の好きな季節だ。世界が原色を失い、落ち着いたモノトーンを繕う人々で街が埋まっていく。12月の中旬になると、日に日に気温が下がり、昼間でも吐く息が白く弾む。冬の引き締まった空気が頬を突き刺す。
 トライアウトを受けてからすぐに体を動かした。都内の私立大学の隣にある大きな公園で何度かランニングをする。ランニングのスピードを上げようと意識的に足の筋肉に力を入れる。重く気だるい感覚が全身を覆う。スピードが上がらない。今まで味わったことのない脱力感が僕の精神を蝕んでいく。
「なぜだ!」
 と、心の中で叫んだ。
 スピードを出そうと、今度は体全体に力を入れて筋肉に息を吹き込むようにもう一度走り出そうとチャレンジする。しかし、いっこうに加速する気配は訪れなかった。走るのを止めてしばらく歩き出す。そして近くにあったベンチに座り込む。
「ああ、これでいよいよか」
 と、思った瞬間に涙があふれてきた。
「もう走れないかもな」
 気持ちが沈んでしまいそうになる。絶望的な悲しみに胸がふさがれていく。  
 怪我をして満足にプレーできなかったとき。契約満了になってチームが見つからなかったとき。そんなとき僕はいつも、「ちくしょう」と内心で悔しさと対峙してきた。でも、怪我とか所属チームが「ある・ない」とは関係なく、また悔しいという感情もなく、ただ体を動かそうと思っても動かないという現実がショックだった。
 引退という言葉が僕の頭から離れなくなる。それから数日、引退という言葉とずっと隣り合わせで過ごした。
 12月20日。トライアウトから1週間後の冬の季節に、僕は、引退を覚悟した。

2.自分のスタイルとは相反する姿勢

 12月13日に行なわれたトライアウトが終わってすぐに、僕は、次の移籍先を探すために関係者に連絡をする。カターレ富山や水戸ホーリーホックからはいい返事がもらえなかった。昨年まで所属していたコンサドーレ札幌のフロントから「FC岐阜が興味をもっている」との連絡をもらう。また、トライアウトのときに挨拶した佐川印刷SCのフロントの方から、僕のプレーに対して「悪くはないと思うよ。あれだけできれば。経験がある選手を補強しようと考えているから戦力補強の会議にかける」と伝えられる。来季の移籍先として、この2チームからの連絡を待つことになった。

 来季のチームを探すのに「2月の初頭まで待とう」というイメージはもてていた。ただし、もし日本でチームが決まらなかった場合、「その後にどうするの?」という問いには明確な答えはなかった。「もう1度海外のトライアウトにチャレンジするのか?」と言われたなら、正直に言ってそこまでモチベーションを持続する自信はない。なんとか「国内で決めてやる」という気持ちが優先していた。たぶん、そうした気持ちの持ち方が今までとは大きく違う部分だった。2年間、アメリカでプレーできた。興味がある東南アジアと欧州に1度チャレンジした。僕には、「やるだけやってダメならば」というところまで自分を追い込まなければ納得はしないという信念があった。逆に言えば、「ここまでやってダメならば仕方がない」と割り切れる考えももてていた。
 だからトライアウトが終わって最初のうちは、日本でトライアウトを受けて、どこからも直接話がなかったら、昨年のように練習生でキャンプに参加させてもらって見てもらおうと思った。ただ、今までと決定的に違ったのは、「2月の初頭までオファーを待つ」という姿勢、つまり「サッカーを続けて行こう」ということに期限を決めたことだった。
 これまでチャレンジしてきて、「これがラストだな」と感じたことは一度もなかった。札幌のグアムキャンプに練習生で参加して契約を勝ち取ったとき、「サッカーの神様からもらった最後のチャンスだ」と思った。「ここでもう1度活躍できればサッカー選手として生き返れるかもしれない」と覚悟して臨んだ1年間だった。「やれることは全部やろう」と決心して挑んだ。でもそれはけっして「これで最後の1年だ」という気持ちではなかった。だからそれがいま、札幌での1年がラストジーズンだったのかもしれないと、ふと、頭をよぎる。もしかしたら、僕にはもう余力が残っていないのかもしれない、と心のどこかで感じはじめていたのだろう。

 知人やサッカー関係者の方が、「来季はどうするの?」と言ってくる。僕はためらうことなく、「現役を続けます」と答える。そして定まり文句のようにこんな風に付け加えた。
「チームがあったらサッカーを続けます」
 何気なく言葉にしていた言い回しだった。本当に、ついでの形で言い添えていたフレーズである。しかし、時間が少しずつ経過していくにしたがって、「チームがあったらサッカーを続けます」というフレーズに、僕は違和感を覚えていった。「チームがあったら続けます」という考えは、今までの自分のスタンスではないな、と感じはじめる。いままでの僕は、「チームを探してでもサッカーを続けます」というスタイルだった。もし、日本にチームがなければ、海外に行ってでもサッカーを続けるというスタンスだ。サッカーはどこでやってもサッカーだから、サッカーができるという環境があるだけで僕は嬉しかった。最低限、プロフェッショナルとしてサッカーで生活ができれば、日本でなくてもいいと思っていた。それなのにいまは「チームがあれば……」という考えになってしまっていた。一瞬、「自分のスタイルではなくても、意地を張って続けてみようか」と、頭を駆け巡ったが、自分のスタイルと相反するものは続けられないという思いが強まっていった。

3.子どもの頃の僕といまの僕が変らないもの

 移籍先の話がまだ目の前にあったのに、日々時間を重ねるたびに「僕はやれるんだ」「僕はプレーを続けたい」「僕はまだできる」という気持ちがしぼんでいく。
 何か大事なことを決めるときに一番の要因はなんだろうか、と自問する。「引退」するという決断をあと押すものは、自分の中のどんな部分なのだろうか、と。人が何かを決断する場合、時間の流れの中で起こった「点」を認識した瞬間に、「そうしよう」と決断をうながすのではないか、と思う。僕の場合、時間の流れの中での「点」とは、公園でランニングをしていて、体が動かなかったあの瞬間だった。僕は、サッカープレーヤーという未来描くのではなく、これから起ろうとする別の未来を生きる僕の姿に期待する自分がそこにはいた。「続けたい」という気持ちが、その瞬間に自分から外れてしまっていたのだ。一瞬でも外れたら、もう戻ることができないほどにプロの世界は厳しい。トレーニングを続けても、体が動かなかった。「サッカーを続けていきたい」という気持ちが引っ張れなくなる。怪我をしているわけでもない。走れるのに、走れなくなっていく。

 妻に僕の気持ちを告白しなければならないときがきた。
「ほぼ気持ちが固まった。引退しようと思っている」
 妻は、僕の気持ちを察していたようだった。
「体が動くとか動かないとかいうあなたの手応えに関しては当事者ではないからわからない。ただ、サッカーを続けていくことに関しては、応援したい気持ちがある。だから、最後の答えは自分で決めてね。まだ時間があるんだから、年末くらいまでゆっくり考えたら」
「んん」
 と、僕は相槌を打つ。
 妻に話してからもずっと考え続けたが、答えは変らなかった。僕は、最初に自分が出した答えが、考えて考え抜いた結果、最初の答えとは違う別な答えが出たとしても、本当にそう思った答えなら覆してもいい、と思っている。引退すると決めても、最後の最後に「やっぱり引退したくない」と魂が叫んだなら、それが正直な気持ちなんだ、と信じられるからだ。僕は、公園でランニングをして体が動かなかったあの瞬間に、すでに気づいていた。僕は、これまで協力してくれた多くの人のことを考えた。妻の父と母。僕の両親。移籍先を探してくれている関係者。お世話になったそれぞれのクラブの関係者。ずっと応援してくれたファンの方。僕の考えていることを、周りの人に告げなければならない。引退する、と決めたことを。
 引退を告白するにあたり、僕が一番辛かったのは、現役でいまもプレーしている選手たちに伝えることである。それはお互いにとって、とても悲しいことだった。札幌を契約満了になったとき、チームメイトに「いやー、チームから契約満了を告げられたけど、次も頑張るよ」と話して札幌を離れた。実は、「引退しようかどうしようか」と自分の気持ちに最後までブレーキをかけたのは、一緒にプレーしていた選手たちのことが頭にあったからだった。
 引退を告げたとき、選手たちのほとんどは、「ああ、そうか。いままでどんな形でもプレーを続けてきた卓朗が辞めるのか……」という反応だった。ある選手からは、「一番しがみついてでもやるだろと思っていた卓朗が引退したのにはびっくりした。これからのことを応援したいと思っている」というメールが送られてきた。
 僕が、最後まで引退を告げられなかった人がいる。それは、中山雅史さんだった。本来なら最初に伝えないといけない人だ。札幌をあとにするときに、「まだ僕も現役を続けていきますから、頑張りましょう」と話した。引退の決断を直接話せなかったので、手紙で引退までの思いを綴った。あそこまで体を酷使し、復活の意欲をもった人に、「先に引退します」と告げるのが苦しかった。

 引退は、心のどこかで「すっきりしないものが残る」と思っていた。サッカープレーヤーを経験した者として、現役選手に優る存在はない、と信じているからだ。だから、引退を決断したときには、きっと後ろ髪を惹かれるような思いが込み上げるだろうと思っていた。でも結果として、僕が考えていたほど、サッカーから引き裂かれるような思いはあまりなかった。自分でも不思議なくらい前を向けた。

 僕は、お世話になった人に引退を告げた数日後、子どもの頃に、最初にサッカーボールを蹴った公園に出かけた。僕がボールを蹴っていた場所が、そこにまだあった。ドリブルしながらゴールマウスに向かっていく。1人をかわしてドリブルを加速させた。子ども頃の情景が浮かんでくる。もう1人がブロックにくる。様子をうかがいながら、フェイントで振り切る。プロになってからの数々の場面が映像となって横切る。ゴールマウスが目の前に迫ってくる。右足を大きく振り抜くと、ボールはゴールネットを揺らした。
 深呼吸をして、うしろを振り返ると、青空が一面に広がっている。
「サッカーが好きだ」という点で言えば、子どもの頃の僕といまの僕は、なにも変っていない。僕はプレーヤーとしては引退する。けれども、サッカーがこの世界にある限り、サッカー人としての僕の人生はこれからも続いていく。

おわり

「第二十回 明日へ」
「第十九回 ラストチャンス」
「第十八回 自己」
「第十七回 紙一重」
「第十六回 奇跡」
「第十五回 チャレンジャー」
「第十四回 誕生」
「第十三回 シンプル」
「第十ニ回 新チーム」
「第十一回 契約更新」
「第十回 荒野」
「第九回 新天地」
「第八回 旅立ち」
「第七回 結婚」
「第六回 同級生」
「第五回 同期」
「第四回 家族」
「第三回 涙」
「第ニ回 ライバル」
「第一回 手紙」

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