2015.06.23

哲学的志向のフットボーラー、西村卓朗を巡る物語「第九回 新天地」

「可能性の限界を知る唯一の方法は、 限界を越えて不可能に挑むことだ」(アーサー・C・クラーク)

文●川本梅花

〔登場人物〕
ぼく…西村卓朗(USL1部リーグ ポートランド・ティンバーズ所属)
ケント…林ケント(ロサンゼル在住の知人)
鈴木…鈴木隆行(USL1部リーグ ポートランド・ティンバーズ所属)

1.冬の寒さが残るハリスバーグ

 北にはブルーリッジ山地が連なり、西にはサスケハナ川が流れる大都市。ペンシルベニア州ハリスバーグは、冬の終わりだったけれども、見るからに寒々しい場所。一度も訪れたことがない異国の街から、ぼくにとってのサッカーライフが再出発する。

 ぼくは、12月になってすぐに、大宮アルディージャから契約満了を告げられる。年が明けて1月の中頃まで、Jリーグのクラブからの誘いを待っていた。しかし、獲得に名乗りを上げるところは現れなかった。そこで、アメリカのハリスバーグのサッカークラブでプレーしていた友人を頼って、2月の初頭にアメリカに出発する決心をした。

 渡米して5日後に、ハリスバーグ・シティ・アイランダーズというUSL(ゆユナイテッド・サッカーリーグ。メジャーリーグサッカー=MLSの実質的な下部リーグの位置づけ)のサッカークラブからトライアウトの知らせを受ける。コンディションはまずまずだったので、早速トライアウトに参加した。その内容は、ボール回しからはじまって、ポゼッションの練習をやり、次に半面コートを使ってのシュートゲームだった。それは、ぼくの好きな練習なので、「ここで目立ってやろう」と思ってグラウンドに出て行った。

 シュートゲームの最中に後ろからタックルをされるが、かまわず崩れた体勢のままシュートを打ちにいく。すると蹴り出した右脚が空振り気味になって、右の膝を痛めてしまう。それでも、「これはトライアウトだ」と自分に言い聞かせてプレーを続けた。ところが、痛めた右の膝をかばって左脚でトラップしたとき、今度は左の膝をひねってしまった。なんとか最後まで、メニューをこなしたけれども、アメリカに来て早々、両膝を負傷してしまう。
 
 ミニゲームが終わってベンチに下がるときに、「また怪我か」とぼくは呟いた。

 大宮アルディージャに在籍していた最後の1年間は、怪我との戦いだったと言える。半年近く、別メニューで調整する日が続いた。それでも、アメリカに来る前には、コンディションが上向きになっていたように感じていた。「さあ、やるぞ」と心に決めて来たのに、渡米して最初のトライアウトで両膝を痛めるとは、「ぼくは、なんて運がないんだ」と考え込んでしまう。

 マイナスのオーラがぼくを包み込みそうになる。しかし、そうしたぼくの不安を徐々に消してくれたのは、ここアメリカでの人々との出会いだった。

 ぼくは、何かをやろうとするときに、自分がやった分だけ結果としてそれが必ず自分に返ってくると思っていた。たとえば、自分が練習した分だけ、サッカーが上手くなって試合に出られるようになるとか。だから、自分に起こる出来事は必然で、それには何か意味があるのだと考える。

 ただ、ここ1年で、出来事は必然かもしれないが、人生には、逆らえないものもあると、感じるようになった。自分が主体的になって実現したいと、どんなに強く求めても、実現しなかったこともある。それには、結果が出るまでもう少し時間がかかったのかもしれない。「この瞬間に結果が欲しい」と願って努力を積み上げる。それでも結果が出なかったとき、「なんでできないんだろう」と思い込んでしまう。ぼくは、そうしたマイナスのオーラの中にいた。

 最初のトライアウトが終わって宿泊先のホテルに帰った。怪我の具合はたいてい翌日には分かる。両膝が、悲鳴をあげるような気がした。予感は的中し、それから3日間は、動くことができずに、部屋でじっとしていなければならなかった。

 USLの契約は、クラブがプレシーズンの間に選手との契約を切れるようになっている。したがって、契約が効力を発揮するのは、シーズンがはじまってからになる。クラブの監督には、「動きは悪くなかったよ」と告げられて、毎週月曜日の夜にトライアウトを行なうので、次も参加しないかと打診された。しかし、〈本当に、ここにいていいのか〉と不安が押し寄せて来た。今のぼくに必要なのは、《怪我を直すこと》と《ボールを蹴る機会を持つこと》にある。冬の寒さが残るこの季節のポートランドでは、ピッチに霜が張っていて、両膝をもっと痛めてしまう可能性がある。少しでも暖かい場所に行って、コンディションを整えないと、《サッカーを続ける》という目標は遠のいてしまう。

 そこでぼくは、大学の友人に連絡して、ロサンゼルスに住む林ケントに会いに行くことにした。ケントは、日本人の母親を持つ日系2世で、滝川第二高等学校サッカー部に所属していたことがあり、今はロサンゼルスの大学院に通っていた。

2.ロサンゼルスで見つけたもの

 「泊まるところがないんだけど」
 と、空港に迎えに来てくれた初対面のケントにいきなり切り出す。
「俺の家にくればいいじゃん」
「え、いいの?」
 ぼくは、少しびっくりして聞き返した。
「5人のルームメイトとシェアして住んでいるんだ。だから、ぼくの部屋で一緒に生活することになるけど、それでもよければ」

 突然のお願いに、嫌な顔をせずに受け入れてくれた彼の提案に、断わる理由などなかった。その日からぼくは、2週間近く、ダブルベッドでケントと寝起きをともにすることになる。

 ロサンゼルスに来て、まずやらなければいけないことは、両膝のケアだった。ケントの家から歩いて15分のところに、ロサンゼルス・ギャラクシーのスタジアムがある。そこには、いろいろなトレーニング施設が混在していて、『アスリーツ・パフォーマンス』というフィジカルケア専門のジムがあった。ぼくは、日本にいたときから、ドイツ代表のトレーニングなどを担当して、アメリカを本拠地にするこの組織には興味を持っていた。

『アスリーツ・パフォーマンス』に話を聞きに行ってみると、偶然にも、日本人でギャラクシーの専属トレーナーがいた。その彼に、「ランニングはできるけど、ボールを蹴ることができない」と自分の脚の具合を話す。彼は、「ギャラクシーの選手を見たあとならば」という条件でケアをしてくれることになった。患部の周りをどんどんと削るようにマッサージをしていく、「アクティブ・リリース・テクニック」というやり方を受けて、彼が、ものすごく腕のいいトレーナーだとすぐに理解できた。

 さらに、そこには、インターンの日本人がもう1人勤めていた。その彼の紹介で、メキシコ代表の専属トレーナーのマテウスと知り合う。2週間ほど、マンツーマンで、彼らから脚のケアとコンディションの調整を手伝ってもらった。週4回、朝8時30分から10時まで、午前中は身体をみてもらう。その結果、痛めて使えなくなっていた両膝は、驚くほど回復していった。脚が動くようになると、今度は週3回、地元のアマチュアチームの練習に参加させてもらったり、ケントから日本人のサッカーコミュニティを紹介されて、30歳以上の人がプレーするサッカーサークルで試合に出してもらったりした。またある日は、公園で子どもたちとボールを蹴ることもあった。

 日本にいた頃やハリスバーグでの怪我で、ボールに触れない時間を過ごした日々が嘘のように、ぼくは、プレーする喜びを味わうことができた。

 だから、加入できるチームはまだ見つかってなかったけれども、〈ここには何かがある〉と直感した。

 MLSが開幕してから、1ヶ月遅れてUSLがスタートする。したがって、USLの1部リーグのトライアウトがはじまる3月には、何とかコンディションを上げることができた。その頃、ロザンゼルス経由で、ポートランドに向かう鈴木隆行と会うことになる。メキシコ料理屋で待ち合わせをして、鈴木に、アメリカのクラブの事情を聞かされる。そのときは、トライアウトを受けることさえ、「厳しいかもしれないな」という鈴木の意見だった。

 2日後に、鈴木から連絡が入る。
「卓朗、明日からこっちに来られるか?」
 鈴木は、受話器の向こうでそう聞いて来た。
「はい、行けますけど」
 と、ぼくは即答する。
「監督と直接話をしたんだ。お前が今、日本にいると思っていたみたいで。飛行機とか自腹だけど、大丈夫か」
「大丈夫です」

 ロサンゼルスからポートランドまで飛行機で約2時間かかる。ポートランドに着くと、すぐにクラブの練習場を見に行く。ホテルは、鈴木と同部屋が与えられる。ケントとの同部屋生活とは違って、今度はベッドがツインだった。鈴木は、「お前とこうしていると、日本にいたときのJリーグのキャンプみたいだな」と笑って話した。

 実際に練習に参加してみると、ポートランド・ティンバーズには、契約選手が17人いた。彼ら以外に、トライアウトの参加者が8人。週末近くになると、1人、また1人と選手がいなくなる。そして、土曜日に、サンノゼ・アースクイックとの練習試合があり、ぼくは、スタメン出場できた。最初は、左サイドバックのポジション、前半の途中から右のサイドハーフを任された。後半の75分までプレーして、チームは0?1で敗れる。

 実は、その試合の前に、「20 ニシムラ」と名前の入ったユニホームを渡されていた。名前があるユニホームを手にして、「これはどういうことだろうか」と不思議に思った。次の週も、トライアウトの参加者が数人やって来る。その中で、練習着に名前が入っている選手と入っていない選手がいることに気づく。契約の可能性がある選手には、名前入りのユニホームが渡されるのだとあとから知らされた。
 
 その週の末には、MLSのニューヨーク・レッド・ブルズとの練習試合があった。ぼくは、74分まで左サイドバックで出場した。試合は0?0で引き分ける。練習でもぼくは、最初から主力組に入てもらう。しかし、右サイドバックには、チームの中心選手のスコット・トンプソンがいたので、ぼくは、左サイドバックで常にプレーさせられていた。

 鈴木はフォワードとして試合に出場していた。彼は、人のプレーを、自分から「ああだ、こうだ」と話すタイプではなかった。でも、ぼくが、「今日のプレーはどう映りましたか?」と質問すると、熱心に答えてくれる。

「お前のディフェンスはきれい過ぎる。足を出せ。身体ぶつけろ。たとえば、相手と少ししか距離がないのに、足が出ないのは、ボールを奪い取る意識がお前にないからだ。相手を削りに行ってもいいからやってみな」

 ぼくは、アメリカに来て〈自分に足りないものを知りたい〉とすごく思うようになった。それは、ディフェンスの面だと自覚していたが、実際に今、激しいプレースタイルのアメリカに身を置くことで、「ぼくのディフェンスなんて、甘っちょろいものだ」ということがはっきりした。
「アメリカのスタイルとして、ディフェンスのときに、くさびにディフェンダーが寄せていき、そこでバッっとすごい勢いで当たりに行くんですよね」
 と、ぼくは話す。

 鈴木は、すぐさま答える。
「そこで行かないと、目立つよ。身体を張れない。相手を削ることができない。そう思われたら、絶対にダメだ。やらないと。行ったもん勝ちだよ。海外でプレーするって、そういうことだから」

 もし、日本でアメリカと同じプレーをしたら、相手がすごく痛がって嫌な顔をしたりする。でも、ここでは、やられた方も当然と受け止めて、どんなに激しいタックルでもすぐに立ち上がろうとする。それが、アメリカで行なわれているディフェンスのスタイルだった。

3.新天地、ポートランドでの契約

 さらにその次の週には、地元の大学生との練習試合があった。試合が終わった数日後に、ぼくは、監督室に呼ばれた。それは、契約の話だった。
「いくら欲しい」
 と、ストレートに監督が聞いてくる。
「いくら」と言われても、相場が分からなかったが、「手取りで月1500ドルは必要です」と答えると、「それは、出せない」と言われる。ぼくは、「自分は結婚しているから、それ以下だと生活ができない」と訴えた。すると監督は、「今季は、全選手22人体制で行くんだが、カメルーン人の選手が売れたら、お前の給料を上乗せするから」と約束してくれる。しかし、それはもちろん絶対の保証があるわけではなかった。だが、数日すると、その選手は他チームに移籍して行く。ぼくの所属チームがそのときに決まった。

 USLのサッカー環境は、施設や条件において、Jリーグとは比べものにならないくらい劣っている。それでも、今、自分がやるべきことはアメリカにあるような気がする。なぜなら、練習しているだけでもサッカーをする楽さが実感できたからだ。ここは、報酬も高くないし、サッカーのレベルも高くない。でも、公園でメキシコ人の子どもたちとボールを蹴ったとき、甦って来た思いがあった。自分が子どもの頃に、ボールを蹴っていたときの感覚や感情と一緒のものだった。つまり、サッカーが、自分に、ボールを蹴ることの喜びを教えてくれた、あの頃の感覚だ。

 正式に契約して、プレシーズンマッチを迎える。相手は、大宮アルディージャで一緒だった平野孝のいるUSLのバンクーバー・ホワイトキャップスだった。ぼくは、右サイドバックで出場した。右タッチライン沿いをフリーランニングしていると、長いパスが目の前に来た。ぼくは、ボールを受けて、サイドラインギリギリでスライドしながら切り返す。マッチアップしていた平野をそこで抜いて、センタリングを上げる。味方のフォワードが、合わせてゴールに叩き込む。プレシーズンの練習試合の中で、チームとしてはじめての点数が入った瞬間だった。その得点で追いつき、試合は1?1で引き分ける。ぼくのそのプレーがきっかけになり、主力だった右サイドのトンプソンがサブメンバーになる。ぼくは、そこでレギュラーの座を手に入れた。

 欧州に移籍することに比べれば、アメリカに来ることは、ローカルな移籍だと言えるかもしれない。でも、ぼくは、そう思っていない。サッカーは、どこでプレーしようが、サッカーでしかない。ただ、海外でサッカーをするのだから、今までと変わらないプレーをしてもしょうがないと思う。日本でのぼくは、「やったつもり」でいたのかもしれない。「これだけやったんだ」と、「やった」ということに満足していた。そのことを、ぼくに気づかせてくれたのは、異国の地で行なわれている、サッカーであったのである。

つづく

「第八回 旅立ち」
「第七回 結婚」
「第六回 同級生」
「第五回 同期」
「第四回 家族」
「第三回 涙」
「第ニ回 ライバル」
「第一回 手紙」