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OB選手たちの現在――新井健二(元アルビレックス新潟)「今になって思うことは、選手のうちにできることがたくさんあるということ。第2の人生のための準備は必要だと思うし、それを含めてのサッカー人生だと思うべきかもしれません」

2014.10.24

[Jリーグサッカーキング 2014年7月号掲載]

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、かつてアルビレックス新潟でプレーし、04年に海を渡ってシンガポールで活躍した新井健二さん。現在は自ら運営するサッカースクールで指導者としての道を歩く彼に、異色のキャリアと言える現役時代のこと、さらに引退後のセカンドキャリアについて、思い描くビジョンを聞いた。
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文=細江克弥 取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム 写真=兼子愼一郎、Jリーグフォト

メンタルに弱点を抱えていた新潟時代の自分

 20年の超える歴史の中で、Jリーグは数えきれないほど多くのOB選手を輩出してきた。その選手の数だけキャリアがあり、全く同じ経歴は一つとしてあり得ない。中でも、かつてアルビレックス新潟でプレーした新井健二のキャリアは異色と言っていい。

「プロになりたいという目標は、子供の頃から持っていました。でも、中学、高校と進む間に『難しいかな』と思い始めたんです。もしプロになれなかったら、料理人になりたいと思っていたんですよ(笑)」

 チャンスが訪れたのは立正大時代のことだ。キャプテンを務めた4年時、東京都リーグを圧倒的な強さで制した立正大は、早稲田大との入れ替え戦に勝利し、見事に関東リーグ2部への昇格を決める。

 4年に新井、3年に安英学(現横浜FC)を擁した当時の立正大は東京都リーグに所属しながらも無類の強さを誇り、関東リーグ勢にも決して引けを取らなかった。そんな新井に指導者間の縁で新潟から声が掛かることになったとしても不思議ではなかった。

「大学4年の頃は本当に負けなしで、もしかしたらJリーグでやれるかもしれないと感じていた頃でした。そのタイミングで、縁あって声を掛けてもらったので、ある程度の自信を持ってプロの世界に飛び込むことができたんだと思います。もちろん、僕よりうまい選手はたくさんいました。でも、ちょっとしたことで縁をつかめなかったり、タイミングを逃してしまう人もいますよね。僕なんかがプロになれたことでそれを感じましたし、縁を大切にすること、タイミングを逃さないことについては今でも強く意識しています」

 とはいえ、プロの世界である。本当に通用するのだろうかという不安はなかったのか。

「いやあ、もちろんありました。ただ、幸運なことに監督の反町(康治/現松本山雅FC監督)さんにも評価してもらって1年目から試合に出ることができました。だからもう、不安を感じる余裕もなく、精いっぱいの毎日を送っていたという感じだったんです」

 2001年、立正大を卒業してJ2に所属する新潟の一員となった新井は、開幕戦からスタメンに名を連ねた。この年のチームには、現強化部長の神田勝夫や、現スクールコーチで「ミスターアルビレックス」とも呼ばれた寺川能人、元監督の黒崎久志、さらに若き日の本間勲もいた。ルーキーにしてスタメンに名を連ね続けた新井は、貴重なレフティーとしても重用された。

「思っていたよりも『やれる』と感じました。自分でも驚くほど、うまくプロのサッカーに適応できたと思います。ただ、今になって改めて振り返ると、ツメが甘かったんだと思います。大事な試合で退場したり、失点に絡んでしまったり……次第に自分の弱さが分かるようになってきて、精神的には苦しい時間を過ごしました。決定的だったのが、大分トリニータ戦ですね」

 6月16日に行われた第15節、ホームに大分を迎えた新潟は、2-3でこの試合を落とした。新井は相手のエースである船越優蔵(現ザスパクサツ群馬コーチ)の決勝ゴールを招くミスを犯し、それ以来、スタメンから外されるようになる。

「当時の僕は本当にメンタルの弱い選手で、どうしたらいいのか分からなくなっていました。何とかモチベーションを下げないように必死でしたが、やっぱり、難しかったですね。どうやって信頼を取り戻せばいいのか分からなかったし、すっかり落ち込んでいました」

 それでも、1年目は20試合に出場するなどルーキーとしては十分すぎるほどの結果を残した。しかし、2年目は2試合、3年目は4試合と出場機会は減る一方。自分の力では打開できない苦境に直面し、悩んでいた。

 新潟時代の「忘れられない試合」は、1年目の01年、第12節の京都サンガF.C.戦である。新潟スタジアム(現デンカビッグスワンスタジアム)のこけら落としとなったこの試合に、新井は両親を招待していた。

「きっと思い出に残る試合になるだろうということで、両親を招待しました。ただ、この試合は3-4で負けてしまったんですが、それだけじゃなく、最後の失点に直結するファウルを僕が与えてしまって、しかも退場処分になってしまったんです。スタンドにいる両親の視線を感じながらピッチから出た時は、やっぱりツラかったですね。僕の思いとは違う意味で、忘れられない試合になってしまいました(笑)」

シンガポールで気づいたサッカーの楽しさ

 3年目の03シーズン終了後、新潟には大きな動きがあった。アルビレックス新潟シンガポールの創設と、シンガポール・リーグ(Sリーグ)への参戦表明――。新井を含む多くの選手が同チームへの期限付き移籍という形で“武者修行”を勧められた。

「ある程度の覚悟はあったとはいえ、驚きました。当時は徳島ヴォルティスからもお話をいただいたので、悩みました。ただ、僕自身、メンタルの弱さを克服しなければ、この世界では生き残れないと思っていたんです。だから、環境を変えて挑戦するという決断をくだしました」

 もっとも、当時の新井はシンガポールが世界地図のどこに位置するのかも理解していなかった。海外でプレーすることになるとは想像すらしていなかったし、プレーするだけならまだしも、現地で生活しなければならない。

 新潟シンガポールの初代監督を務めた大橋浩司(現浦和ユース監督)は、シンガポールに集まった選手たちに「高校生に教えるような基礎」から叩き込んだ。新井は、その指導が転機になったと振り返る。

「大橋さんの練習は、本当に“基礎の基礎”を徹底的に叩き込むものでした。でも、それをこなすうちに、自分たちの基礎能力がいかに足りないかを思い知らされましたし、サッカーがうまくなっていくことを実感することができた。チームがどこであろうと、国がどこであろうと、サッカーはサッカーだと思いましたね。ただ、ものすごく寒い新潟からとんでもなく暑いシンガポールに移ることになったので、環境に慣れるのは大変でした(笑)」

 サッカーのレベルは、Jリーグのそれとは比較にならないほど低かったというのが正直なところだ。しかし、各チームには4枠の外国籍選手枠が設けられており、世界各国から選手が集まってくる。「4人でサッカーをやっているようなチーム」があっても、その4人を抑えるのは決して簡単ではない。韓国、中国からもチームが参戦し、ある意味では非常に刺激的なリーグ戦が繰り広げられていた。

「日本にいたら分からなかったことばかりで、本当に充実していました。海外の良さに気づくことができたし、サッカーの面白さも感じることができました。当時のシンガポールのチームには、オフサイドトラップの概念がなかったんです。クリアしてもラインを押し上げないので、いわゆる“間延び”しっぱなしですよね。そんな中で僕らはコンパクトなサッカーをやっていたので、リスペクトされている感じもありました。少なからず、アルビレックスがリーグ全体に影響を及ぼした部分もあると思いますね」

 新潟シンガポールの一員として2シーズンを戦い終えた05年、新井に一本の電話が掛かってきた。声の主は、Sリーグに所属するチームの一つ、アームド・フォーシズFCの幹部だった。

「これもSリーグの特徴の一つなんですが、各クラブの幹部同士の横のつながりがすごく強いんですね。その人たちが集まる席で、戦力の確認作業が行われるわけです(笑)。おそらくその話し合いの中で僕を獲得したいという流れになって、直接電話が掛かってきたわけなんですが……」

 事情も分からないままカナダ人マネージャーを頼ると、アームド・フォーシズFCが興味を持っているという話だった。「万年2位のチームを優勝させてほしい」という言葉に背中を押され、新井は移籍を決断する。

 アームド・フォーシズFCは翌シーズンのリーグ優勝を成し遂げただけでなく、09シーズンまで4年連続のリーグ王者に輝いた。その間、新井はあるメーカーのイベントでジネディーヌ・ジダンと共演し、08年にはシンガポール選抜の一員として、ロナウジーニョを擁する北京五輪ブラジル代表とも対戦。さらに同年には、リーグ王者として臨んだAFCチャンピオンズリーグ(ACL)・プレーオフを勝ち抜き本大会に出場。鹿島アントラーズと同組となり、海外リーグからACLに出場した初の日本人選手となった。

「いつのまにか、日本にいた時とは全く別の自分がいることに気づきました。助っ人の一員としてプレーしているので、結果が悪ければすぐにクビ。ケガをしても契約を切られるので、いい緊張感とモチベーションを保ちながら、しかもサッカーを楽しみながらプレーすることができました。日本ではプレッシャーに押しつぶされそうになっていたので、余裕がなかったんです。シンガポールは本当に、僕という人間を大きく変えてくれましたね」

 ACL出場にも、大きな達成感があった。

「日本のレベルの高さを改めて感じましたし、一方で、気候が全く違うホームでは十分に戦えることも分かりました。ホームに鹿島を迎えるというのは、すごく感慨深いものがありましたね。どの試合も楽しくて仕方がなかったですよ。日本で通用しなかった僕が、シンガポールで成長させてもらって、それだけの経験を積ませてもらったわけですから、シンガポールには本当に感謝しています」

明確なビジョンを描き、セカンドキャリアを歩む

 10年にはインドに渡り、ゴアというクラブで半年間プレー。その後は再びシンガポールに戻り、2チームを渡り歩いて12年に引退を決意する。

「ケガをしてしまったこともあって、このタイミングで決断しました。“やりきった感”はありましたね。だから気持ち良く引退することができた。向こうでは最後まで本当に良くしてもらいましたし、知り合いもたくさんできました。だからその縁を大事にして、今度は指導者として、シンガポールに戻って恩返しをしたい。そう思いました」

 セカンドキャリアとして指導者の道を歩むことに、迷いはなかった。そのために新井が描いたビジョンが「すべてのカテゴリーで指導を経験すること」である。

「いきなり中学生や高校生を教えるのもいいと思うのですが、僕の場合は、年代によって変わる指導のポイントをすべて知りたかった。それから、選手はプレーで表現すればいいけど、指導者は言葉で表現しなければならないですよね。たった一つの言葉で選手が救われたり、たった一つの練習で選手の意識が変わったりもする。僕は、誰に対してもしっかりした言葉を発せられるような指導者になりたい。きっと、今の僕がいきなりプロの世界に飛び込んでも、何もできないと思います。だからこそ、すべてのカテゴリーで指導しながらしっかり勉強して、いつかプロの世界にたどり着きたい」

 思えば、シンガポール時代から“兄貴分”として若い選手に慕われた。時にはシンガポールのエージェントと連絡を取り、移籍交渉をスムーズに進めることもあった。そういう自分を感じるたびに、「教えたい」という欲がわいてきたという。

 それでも、現役時代はセカンドキャリアについて真剣に考えたことはなかった。年齢を重ねるにつれて、経験を積み重ねるにつれて、自然と「シンガポールで選手を育てたい、サッカーを教えたい」という思いが芽生えてきた。

 現在、新井は2つのスクールで子供たちにサッカーを教えている。13年3月には前園真聖が主宰する『zonoサッカースクール』で指導をスタートさせ、指導者C級ライセンスを取得。10月には協力者の力を借りて『Fly HighSOCCER SCHOOL(フライ・ハイ・サッカースクール)』を埼玉県熊谷市にオープンさせ、育成年代の指導に没頭する日々を過ごしている。

「子供たちが自ら考える力、持っているアイデアを引き出すような指導をしたいと思っています。指導者の役割は子供たちの能力を引き出してあげることだと思っているので、試行錯誤しながら子供たちと向き合っています。現場にいるとなおさら、指導者が指導の勉強をすることはすごく大切だなと思いました。それから、やっぱり基礎ですね。大橋さんと同じように、僕もしっかりと基礎を教えられる指導者になりたい」

 指導者としての新井のキャリアは、まだ始まったばかりだ。しかし、ジュニア年代から始まる道のりは、やがてプロの世界、そして今の自分を作ってくれたシンガポールへと続いている。迷いはない。

「プロ選手としてのサッカー人生は、いつまで続くか分からないですよね。それは誰もが分かっていると思う。でも、現役時代に準備することがすごく難しいことであることは、僕自身もよく理解しています。ただ、今になって思うことは、選手のうちにできることがたくさんあるということ。第2の人生のための準備は必要だと思うし、それを含めてのサッカー人生だと思うべきかもしれません。それから、興味を持ったことに対してはどんどんチャレンジしてみること。僕なんて、練習が終わったら昼寝していた昔の自分に言ってやりたいですよ。『お前は何をやっていたんだよ!』って(笑)」

 新井は、Jリーグでは満足な結果を残せなかった。しかし、タイミングと縁に導かれるように向かったシンガポールでサッカー選手としての幸せな時間を過ごし、充実のファーストキャリアを終えた。セカンドキャリアはファーストキャリアの続き。一本のはっきりした線があるからこそ、自分を信じてチャレンジできる。

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