2014.10.18

OB選手たちの現在――石井壯二郎(元ガンバ大阪)「サッカーに全力を注ぐことが大前提。でも、セカンドキャリアを含めての“プロサッカー選手”と考えれば、何かに気づけるかもしれない」

[Jリーグサッカーキング 2014年6月号掲載]

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、ガンバ大阪の前身である松下電器サッカー部時代からスピードを持ち味とするサイドバックとして活躍した石井壯二郎さん。現在は日本生命保険相互会社で法人・個人のコンサルティング営業として活躍する彼に、現役時代に対する思いと、元プロ選手として歩むセカンドキャリアについての“あるべき姿勢”を聞いた。
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文=細江克弥 取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム 写真=兼子愼一郎、Jリーグフォト

一流企業の社員契約選手からプロ契約選手への転向

 現在、日本生命保険相互会社で法人・個人のコンサルティング営業を担当する石井壯二郎は、ある思いを抱きながら仕事と向き合っている。

「プロサッカー選手のOBとして、日本サッカーのために少しでも貢献したい。僕の経験を生かすことができるなら、何らかの形で関わり続けたいですね。サッカーの力は、僕たちが思っている以上に大きい。だから、日本の文化として定着するために、微力ながらお手伝いができればと考えています」

 1970年生まれの石井が「Jリーグ発足」を耳にしたのは、キャプテンとして活躍していた明治大在学中のことだった。

「子供の頃からプロになりたいという夢を持っていたんですが、当時はJリーグがなかったので、なかなか現実的に考えることができませんでした。でも、大学の時にJリーグができると聞いて、自分にもチャンスがあるかもしれないと思いながら、サッカーを続けていたんです」

 当時の井澤千秋監督(現総監督)に「どうするんだ?」と聞かれ、「トップレベルでチャレンジしたい」と迷わず答えた。関西出身の石井が練習に参加したのは、ガンバ大阪の前身である松下電器サッカー部。実力を認められて卒業後の入部が内定したが、慢性的なひざの故障を抱えていた彼には少なからず不安もあった。

「ケガのこともそうなんですが、親の影響もありました。プロになってからもそうだったんですが、父親からは『サッカーだけでは一生やっていけない』とずっと言われ続けていて(笑)。もちろん、僕の中でも不安に思うところがあって、できれば社員契約でサッカーを続けられないものかと考えました」

 プロ契約の内定を手にした石井は、本人いわく「こっそり」と松下電器(現パナソニック)の新卒一般採用試験を受け、難関を突破して見事に内定を手にした。最終面接で役員と交わされた会話について、石井は笑顔で振り返る。

「『君は体育会サッカー部でキャプテンをやっていたのか?』と聞かれて『はい』と答えると、こう言われました。『ところでウチのサッカー部がプロ化するのを知っているよな? もし、そのチームでプレーできるとしたら、どうなんだ?』って(笑)。少しとぼけながら『ぜひやってみたいですね』と答えて、後日、僕を松下に呼んでくれた水口(洋次)さんに事情を説明しました」

 石井は水口に、ケガの不安があることを含めた“事情”を説明し、純粋なプロ契約ではなく、松下電器の社員契約選手としてプレーしたいと申し出た。その結果、異例とも言える本社法務部に所属することが認められ、社員契約選手として松下電器に入社することになる。プロ契約選手と変わらないサッカー優先の日々を過ごしたが、所属は外為法(外国為替及び外国貿易法)や輸出関連の法律を扱う法務部。「英語を話せることが当たり前」の部署で、少なからず危機感も覚えた。

 2年目の93年にはJリーグが開幕。いわゆるバブル期の熱狂を体感し、自身が子供の頃からの夢であったサッカー選手になったことを実感した。

「当時の盛り上がりはすごかったですね。『Jリーグ』という言葉がマスコミに出たまさに次の日から、練習場に大勢のファンが押し寄せるようになりました。ファンサービスでは、サインを描き終えるまでに1時間から2時間もかかりました。不思議な空間でしたね。でも、本当にありがたかった。初めて超満員のスタジアムでプレーした時に、生まれて初めて武者震いしました。『これがプロの世界だ』と思いましたね」

 主にサイドバックとして14試合に出場したJリーグ開幕年は、石井にとって幸せな時間だった。大学時代に不安視していたひざの故障も、トレーナーとドクターがそろうプロの環境ではプレーしながら治療できることに気づいた。持ち味のスピードも十分に通用する。コンディションさえ整えば戦える自信もついた。だからこそ、チーム内で数少ない社員契約選手である自分が、少し“守り”に入っているような気がした。

「ある意味、社員契約は安定していました。勝利給はプロ契約選手の半分だけど、一般社員と同じ給料に加えて“外勤手当”も支給していただける。でも、せっかく勝負できる場に立たせてもらっている自分が、それに甘えるというか、逃げ場を確保しようとしている気がして……。だから思い切って、プロ契約に切り替えてもらうことにしたんです。両親からはものすごい勢いで反対されましたね。『一流の企業に就職することができたのに、どうしてリスクを負うようなことをするんだ』って(笑)」

現役時代、間近に見たお金と選手の関係

 Jリーグ発足当時のG大阪は、結果を出せずに苦しんだ。93年の年間順位は10チーム中7位。94年は12チーム中10位。石井はジェフ市原(現ジェフ千葉)のピエール・リトバルスキーや名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)のドラガン・ストイコビッチら世界のトップスターと対峙する日々に興奮したが、チームは低迷の一途をたどった。

「試合中、横浜フリューゲルスの山口素弘さんが、僕と同期の礒貝洋光に『お前ら、メンバーはそろっているのにどうして勝てないの?』と言っていたことが印象に残っていますね。まさにそのとおりで、なかなか勝てない苦しい時期が続きました。ちなみに、礒貝については本物の天才だったと思いますよ。才能だけを切り取れば、当時のJリーグでプレーしていたどの外国籍選手にも負けなかったんじゃないかと思います。一緒にプレーした僕の感覚として、彼は本当にセンスの塊でしたね」

 石井は94シーズンも16試合に出場したものの、その後はケガの影響もあって徐々に出場機会を失い、96シーズン開幕前のキャンプでは恥骨結合炎を発症。シーズン終盤に当時Jリーグ入りを目指してJFLを戦っていたデンソーサッカー部からオファーが届いていることを知り、「自分が求められているなら面白いチャンレンジになる」と判断して移籍することを決断した。

 しかし1年目の97年夏、チームがJリーグ入りを目指すことを断念すると発表し、大幅な予算縮小に伴って98シーズン終了と同時に“ゼロ提示”を受ける。他クラブへの移籍も考えたが、肉離れを繰り返していた自身のコンディションを鑑みて、現役引退の決断を下した。妻は「かっこ悪くても、最後までサッカーにすがりついていい」と現役続行の可能性を否定しなかったが、子供を授かり、収入が途絶えたことを不安に感じた瞬間にセカンドキャリアへ踏み出す覚悟を決めた。

「引退を決意した頃、ガンバでお世話になった草木克洋さんから電話をもらいました。元日本代表の浅岡朝泰さんが名古屋で少年チームを立ち上げていて、岡崎市にもう1チーム作ろうとしている。そこでコーチをやらないか? というお話でした。正直なところ、指導者になるつもりは全くありませんでした。でも、“次”が決まっていなかったので、引き受けてみることにしました」

 しかし、やはり指導者になることを全く考えていなかった石井にとって、その先の道を思い描くことは難しかった。当時はJリーグ草創期に同じピッチに立った選手たちが次々に引退を決意し、その多くが指導者としての道を歩き始めた時期でもある。「元日本代表」のような特別な肩書きを持たない自分が指導者として成功することを、どうしても思い描くことができなかった。自分がサッカー選手であったことで、家族にかけた苦労も小さくない。だから、サッカーの世界から離れることを決めた。

 実は石井は、現役時代からある準備を進めていた。

「Jリーグ草創期のいわゆるバブル期は、選手たちも相当な額のお給料をいただいていました。選手によって様々ですが、若くして大金を手にしてしまうと、お金に対する価値観がどうしても変わってしまうんですね。お金で才能を潰してしまった選手も少なくない。僕は間近にそれを見てきて、そういう部分でうまくサポートできないものかと考えるようになりました。その思いは現職にもつながります。だから、まずは税理士さんに相談して、確定申告を自分でやるようになったんです。それから簿記を勉強することを勧められて、現役時代から少しずつ勉強し始めました。最終的には、簿記2級の資格を取ることができました」

 どちらかと言えば、石井はお金に堅実なタイプだった。プロスポーツ選手らしく高級車を購入したことはあるものの、夜の繁華街を派手に遊び回るようなことはしていない。Jリーグ1年目に社員契約選手だった経験も大きく影響しているが、やはり親から常々言われていた「サッカーだけでは一生やっていけない」という言葉がいつも頭の片隅にあった。

「本当に、父親にはうるさく言われましたね。でも、本当に感謝しています。松下電器をやめるという時も猛反対されましたし、それ以後もまるで念仏のように「サッカーだけじゃ生きていけないんだから」と電話で言われ続けました。振り返れば、大学生だった頃も『しっかり勉強しておけ』と何度も言われましたね。そうして頭の中に刷り込まれたこともあって、プロになってからも「サッカーだけを頼りにして生きていけるわけじゃない』と思っていたんです。簿記の勉強はそれほど難しいものではありませんが、何より、プロ選手でありながら勉強することに対する“抵抗”がなかったことが大きいと思います」

サッカー界の発展のための元プロ選手のセカンドキャリア

 99年、「元プロサッカー選手」という肩書きと「簿記2級」という資格を手に、税理士を目指すべく会計事務所の採用試験を受けた。結果は、見事内定。しかし同時に「都市基盤整備公団」(現UR都市機構)が中途採用活動をしていると知り、「チャレンジしてみよう」と試験を受け、こちらも見事に内定通知を受ける。少し悩んだ末、「大きな事業ができる」ことに魅力を感じて都市基盤整備公団への入社を決意した。同社では賃貸住宅の管理業務部門に配属され、約10年間の勤務で入居者の募集や契約、家賃滞納対応、予算管理、経営管理など幅広い業務に携わり、経験を積み重ねていった。

 現在勤務する日本生命保険相互会社に入社したのは2010年4月のことである。「コンサルティング・ライフ・プロデューサー」との肩書きで個人・法人へのリスク・コンサルタントとして保険営業を手掛ける日々は、多くの出会いに満ちていて刺激的だ。休日には横浜市青葉区の少年サッカーチーム「あざみ野FC」でコーチとして指導にあたり、忙しい毎日を過ごしている。

 サッカーの世界から離れて15年。ビジネスマンとして歩んできたセカンドキャリアだが、意識の中には常に「元プロサッカー選手」というキャリアがある。

「就職活動において、“元プロサッカー選手”という肩書きはプラスに働いたと思います。でも、ただ履歴書に書くことがプラスということではなく、僕自身がそれについてどう考え、何を話すことができるかが大事だと思いますね。僕自身のキャリアは、それほど派手ではない。でも、どういう思いでサッカーと向き合い、そこから何を感じたのかを自分の言葉で話すことができれば、それは立派な武器になると思います」

 少年サッカーの指導を始めて以来、石井は「元プロサッカー選手」である自分を強く認識するようになった。子供たちから「コーチは元プロ選手だったんでしょ?」と聞かれることはもちろん、当然ながら、子供たちの保護者からも同じ目で見られる。サッカーを通じてつながっているからこそ、彼らが“プロの世界”について非常に敏感であることを実感する。

「サッカーファンは皆、僕らが思っている以上に“プロ選手”を憧れの目で見てくれるし、厳しい目も持っていると思います。だからこそ、引退した選手が『元プロ選手』として立派な姿を示すことは、これからのサッカー界にとってとても重要なことだと思うんです。僕も元プロ選手として、セカンドキャリアでもしっかりと成果を残したい」

 セカンドキャリアについては、OBの一人として現役選手たちに伝えたいメッセージがある。

「引退してから気づくことは本当に多い。その一つが、時間の使い方です。もし自分が挑戦してみたいと思えることがあるなら、時間をうまく活用してほしい。もちろん、サッカーに100パーセントの力を注ぐことが大前提です。でも、セカンドキャリアを含めた上での“プロサッカー選手”と考えれば、何かに気づけるかもしれませんよね。僕は、そういうことを伝える役割も担っていきたい。そのためにも、僕自身がしっかりとした実績を残したいという思いは強いですね」

 モチベーションは冒頭の言葉にある。サッカー選手が有意義なセカンドキャリアを送ることは、日本サッカーの発展に直結する。

「サッカー選手って、本当に素晴らしい職業であると思うんですよ。自分がいいプレーをすれば、何万人もの人が喜んでくれる。そんな世界、他にはなかなかありません。だから、絶対に自分がプロサッカー選手であることを“当たり前”に感じてはいけない。そのことに気づけば、日々のファンへの対応も変わると思うし、自分自身の取り組み方も変わる。そういう姿勢こそが、やがてサッカーが日本の文化として定着することにつながるのだと思います」
ガンバ4

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