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OB選手たちの現在――柿本倫明(元松本山雅FC)「子供たちにサッカーを教えて『楽しかった』と言われることが何よりうれしい。地域の“山雅熱”は上がっていると思います」

2014.10.11

[Jリーグサッカーキング 2014年1月号掲載]

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、シンガポールリーグでの活躍を機にプロとしてのキャリアを切り開いた元松本山雅FCの柿本倫明さん。現在は同クラブでアンバサダーを務める彼に、プロ選手として過ごした自身のキャリアに対する思いと、アンバサダーとして歩むセカンドキャリアについて聞いた。
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文=細江克弥 取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム 写真=足立雅史、Jリーグフォト

プロ1年目での戦力外通告、舞台はシンガポールへ

 2010シーズン終了後にユニフォームを脱ぐまで、柿本倫明は計6クラブのユニフォームを着てピッチに立った。もっとも、11年間に及ぶプロ選手としての経歴は極めて異色である。

 福岡県に生まれた彼は豊国学園高、大阪体育大を経て00年にアビスパ福岡でプロ契約を結ぶ。当時J1に所属していた福岡のトレーニング環境は、その後に渡り歩くこととなる他クラブと比較しても非常に恵まれており、「いよいよ憧れていたプロの世界に踏み出すことができた」と気持ちを新たにした。ところが現実は思っていたよりも厳しく、Jリーグでの出場機会を与えられないままたった1年で戦力外通告を受ける。結果を何一つ残すことなく弾き出された23歳の青年は、さらに厳しい現実を突き付けられた。

「正直、一年でクビになるとは自分でも予想できませんでした。当時のアビスパはトップチームとサテライトを完全に分けていたんですが、サテライトの監督からは『大丈夫じゃないか』と言われていたので……。戦力外通告を受けた時は『えっ?』という感じでしたね。ショックは大きかったし、これがプロの世界の厳しさかと痛感しました」

 現在、契約満了となった選手はシーズン終了後に行われる合同トライアウトに参加するのが一般的だ。しかし当時はまだこの制度が確立されておらず、選手たちは独自に動いて各クラブのテストを受けるため全国を行脚した。もちろん柿本もそうしたが、何も実績を残していない選手を受け入れるクラブを見つけるのは簡単ではなかった。

 ちょうどその頃、人づてに「シンガポールのクラブが日本人選手を獲得するためのテストをやる」という情報が入ってきた。選手としての行き場をなくしていた柿本も「とりあえず」という気持ちで足を運んだが、もし合格してもシンガポールでプレーする気はなかった。ましてや、シンガポールとはいえ彼と同じように行き場を失った数十人もの日本人選手が受けるテストである。そう聞いて「受かるはずがない」と思い、半ば諦めていた。

「日本とシンガポールは気温差がすごくて、ほとんどの選手がそれに順応できなかったんです。でも、僕はなぜかコンディションが良かった。テストを受けたら即合格になり、『日本に帰らずすぐに加入してくれ』と言われました」

 気持ちの整理がつかなかった彼は一度帰国して決意を固め、再びシンガポールに足を運んだ。そうして、クレメンティ・カルサFC(現バレスティア・カルサFC)の選手として過ごす新たなキャリアがスタートする。

「言葉も分からなかったし、通訳もいなかったので大変でした。チームや環境に馴染むまでにはかなりの時間が掛かりましたね。合流直後のキャンプではオフの日にチーム全員で映画を見に行ったんですが、僕だけが何も理解できない。あれは辛かったですね。オフなのに全く気が休まらないというか(笑)」

 しかし柿本は、逆境を跳ね返して結果を残した。

 リーグ戦では29試合に出場して14得点を記録し、チームの絶対的なエースとして奮闘。彼の活躍を機にシンガポールリーグにおける日本人選手の評価が上がり、のちに同クラブでは末岡龍二や瀬戸春樹など何人もの日本人選手が活躍した。つまり、柿本は“日本人ブーム”の到来を呼び込むパイオニアとなったのである。

「僕が所属していたクラブの地域には日本人学校があって、もともと多くの日本人が生活しているところでもあったんです。彼らの応援はすごく励みになりました。僕がチームを離れてからは、『日本人選手が増えて誰を応援すればいいのか分からなくなった』と言われましたね(笑)。自分では特別な何かをしたとは思いませんけど、僕がシンガポールでプレーした一年間が“その後”につながったのなら、それはすごくうれしいことなのかなと」

運命の再会が引き寄せた松本山雅での最後の挑戦

 シンガポールでの活躍は日本国内における柿本の評価を一気に高めた。その後は大分トリニータ、湘南ベルマーレを渡り歩くと、06年にはセレッソ大阪でJ1の舞台に返り咲き、リーグ戦でゴールも決めた。翌年は再び湘南に戻ってJリーグで選手としてのキャリアを積み重ねていく。

 しかし出場機会が限られていた07シーズンが夏場を迎えた頃、間もなく30歳の誕生日を迎える柿本はプロ選手としての「区切り」が来ることを予感していた。その予感は的中し、シーズン終了後に戦力外通告を言い渡される。かねてから気持ちの準備をしていた彼は地元に帰って知人づてに紹介された会社に就職し、新たな一歩を踏み出す決意を固めていた。

「夏場あたりから少しずつ考えるようになって、サッカーとは全く関係のない仕事をしてみたいという思いがありました。地元の福岡でタイミング良く就職先を紹介してもらえることになったので、引退することを周囲に報告しました。ただ、一応トライアウトだけは受けてみたんです」

 トライアウトを経ていくつかクラブからのオファーを受けたが、「就職が決まっているから」とすべて断り、しばらくして福岡に帰郷した。ところが心のどこかでわずかに残っていた未練を掘り起こすチームが一つだけあった。松本山雅である。

「実はその年の夏、『こういうこともあるんだな』と思える出来事があったんです」。柿本はそう振り返る。

 さかのぼること数カ月前の07年夏。湘南で強化部長を務めていた大倉智から一本の電話があった。「懐かしいヤツと代わる」と言う彼に代わって電話の向こうで話し始めたのは、もう十数年近くも顔を合わせていなかった豊国学園高サッカー部の同級生だった。聞けば、その日は松本山雅のジュニアユースが湘南のジュニアユースと練習試合を行い、松本山雅で育成年代の指導を担当している彼も遠征に帯同しているという。柿本はすぐに駆けつけ、懐かしい顔と再会した。

「彼には『今はまだ全国的には無名だけど、松本山雅はJリーグを目指している。いつか力になってもらいたい。もし何かあったら連絡してくれ』と言われました。ただ、その時は全く行く気がなかったので聞き流すような感じだったんですけどね(笑)」

 地元に戻った柿本を熱心に誘い続けたのが、その松本山雅だった。柿本の電話は毎日のように鳴り、「行く気はないからもう電話しないでほしい」と伝えても電話は鳴り続けた。その熱心な誘いに背中を押されるように、彼は一度は引退を決意した選手としての道をもう一度歩き始めることを決意する。同級生との浅からぬ縁は、そうして形になった。

 加入当初、柿本は松本山雅を取り巻く環境や「仕組み」を理解するのに苦労したという。所属リーグはいわゆる「地域リーグ」の北信越リーグ。しかし何をどうすればJへたどり着けるのか、そのシステムを理解するのに苦労し、手探りの状況が続いた。ただ、自分は実際にJリーグを経験した選手として、あるいは最年長選手としてもチームを引っ張る存在にならなければならない。アルバイトをしながらプレーする選手もいる中で、「このチームを全国の舞台に連れて行きたい」という思いをストレートにぶつけるのは簡単ではなかったが、柿本は自身が持っているもののすべてをこのチームにぶつけた。

「正直、チームメートにどのレベルでのプレーを求めていいのかが分かりませんでした。でも一緒にプレーすれば、彼らが本当にサッカーが好きなことが分かる。当時の北信越リーグは地域リーグとは思えないほどレベルが高かったので、やりがいはありましたね。すごく充実した時間を過すことができました」

 松本山雅にとって最大のライバルである長野パルセイロ、同じくJリーグ入りを目指すサウルコス福井とツエーゲン金沢(石川)、さらに元プロ選手を多く抱えるジャパン・サッカーカレッジ(新潟)など、北信越リーグは“地域”のレベルをはるかに越える群雄割拠の時代にあった。松本山雅はその中心的存在として、北信越地域のサッカー熱を急速に加熱させる役割を担った。キャプテンを務め、背番号10を身にまとった柿本はその責任の重さを十分に感じていた。

 松本の街にはすぐに溶け込むことができた。都会でもなく、田舎でもない風景は生まれ育った土地とどこか似ている。これまで福岡、シンガポール、大分、湘南、大阪といくつもの土地を渡り歩いたが、海に面していない地域は松本が初めてだった。その点に少しだけ寂しさを感じたものの、当時から熱烈だったサポーターの声援を耳にすれば身を奮い立たせて前向きに戦うことができた。

「サポーターの迫力は本当にすごかったですね。ここに来る前から『山雅のサポーターはすごいぞ』と聞いていたんですが、来てみたら想像以上で(笑)。当時は北信越リーグだったにもかかわらず、ホームゲームでは常に3000人近く入っていましたからね。本当にサポーターの皆さんがいたから頑張ることができたんだと思います。彼らには感謝してもし切れません」

 3年間で特に印象に残っている瞬間は、やはり当初から目標に掲げていた「全国」への進出である。柿本が加入して2年目の09シーズン、松本山雅は全国社会人サッカー選手権大会で優勝。続く全国地域サッカーリーグ決勝大会で優勝し、悲願のJFLへの昇格を決めた。

「メモリアルな試合が多かった一年でしたね。長野パルセイロとの信州ダービーはどれも大一番だったし、天皇杯では浦和レッズを破ることができた。でも、やっぱり最も印象に残っているのはアルウィンでJFL昇格を決めた試合です。あの試合では1万人以上のお客さんが入って、その人たちと喜びを共有できたことが本当にうれしかった」

アンバサダーとしてサッカー界の未来を作る

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 JFLを舞台とした翌10シーズン終了後、柿本は現役引退を決断した。加入当初から「ここが最後」と決めており、違うチームでプレーする自分の姿は想像できなかった。できればクラブに残りたいと考えていた彼にとって、アンバサダー就任の打診は望むところでもあった。

「ただ、アンバサダーと言っても当初は何をすればいいのかが分からなかったんです。クラブとしても初のポストでしたし、当時はまだサッカー界全体を見渡してもそう多くなかったですから。だから、C大阪時代の先輩である森島寛晃さんとの対談を企画して、森島さんがどんな活動をしているかを聞きました。それをヒントに、サッカークリニックに参加したり、地域の幼稚園を巡回したり、イベントに呼ばれて話をさせていただいたりという感じで、いろいろな現場に顔を出させてもらうようになりました」

 アンバサダーの仕事は、クラブの認知度を高める活動を通じて、存在価値そのものを高めることである。彼は今、その大役を任され、いくつもの現場を奔走する毎日を送っている。

「3年目に突入したところですが、やりがいはありますね。まだまだ山雅のことを知らない人もたくさんいるし、何より子供たちにサッカーを教えて『楽しかった』と言われることがうれしい。地域の“山雅熱”はますます上がっていると思いますよ。例えば、少し前までは松本の育成年代の子供たちが所属したいと思うクラブの第一候補は、山雅ではなかったと思うんです。でも、最近では山雅のジュニアユースやユースが彼らの第一候補になりつつある。それはすごく分かりやすい変化だと思います」

 クラブの認知度を高め、存在価値を高めるアンバサダーとして最も重要な仕事は、育成年代における普及と強化であると考えている。地元の子供たちが山雅に憧れ、ジュニアユースやユースでプレーする。そこからやがてトップチームで活躍する選手が出る。するとファンの地元愛は刺激され、やがてファンの拡大にもつながる。そうしたサイクルを生み出すことが理想だ。

 また、プロ選手としての自身の経験から得た教訓を子供たちに伝えることも重要な役割であると感じている。Jリーグが10年度から開始した人材育成活動における選手教育の取り組み、通称「よのなか科」は、子供たちが自らキャリアを描く力を育むプロジェクトである。

「アカデミーに所属している子供たちに対して話をしています。みんながサッカー選手になりたいと思っているけど、実際にその夢を実現できるのはほんの一握りですよね。でも、もしプロ選手になれなくてもサッカーに関わる仕事をすることはできる。その可能性を広げるために、地元のクラブ、あるいはサッカーに関わる仕事がこんなにたくさんあるんだよということを教えてあげるんです。そうした指導の“答え”が出るのはまだ先なんですが、数年後、子供たちが社会に出る時に思い出してもらえればいいなと。ただ、手応えはありました。子供たちがいろんなことに興味を持ってくれたと感じることができたので。サッカー界の未来にとって、すごく大切なプロジェクトだと思いますね」

 現役引退から3年、子供たちとの対話を通じて自身のキャリアを振り返ると、やはりセカンドキャリアに対する準備の不足を感じざるを得ない。自身の可能性を少しでも広げたいと思う今だからこそ感じる後悔もある。

「プロとして活躍できる期間は限られていますよね。短ければ2、3年。長くても10年。そこから先の人生のほうが圧倒的に長いと思うんです。もちろん、サッカー選手であるうちから別の何かに手を伸ばすことは難しい。でも、“やりたいこと”を見つけておくことなら誰にでもできますよね。それさえ頭の中で考えていれば、必然的に求められる能力も見えてくる。それを自分自身で理解しておくことが、何より重要だと思うんですよ。サッカー選手には時間がある。それをムダに使わず、意味のあることに費やしてほしい」

 アンバサダーとしてやるべき仕事は多い。可能性も無限に広がっている。ユニフォームを脱いだ柿本は、ピッチの外から、サッカーの普及と発展、そして松本山雅の明るい未来を目指して、これからも奮闘を続ける。

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