2013.07.19

4部リーグの選手からマンチェスター・Uの指揮官へ…“ファーガソンの後継者”モイーズに迫る

[ワールドサッカーキング0801号掲載]

偉大な老将、アレックス・ファーガソンが引退を決意した時、自らの後継者に選んだのは、自身と同じスコットランド人指揮官だった。4部リーグの選手から、世界最大のビッグクラブの指揮官に上り詰めた彼はマンチェスター・ユナイテッドに何をもたらすのだろうか。
モイーズ
文=ジェイムズ・コルベット Text by James CORBETT
写真=ジル・ジェニングス、ゲッティ イメージズ Photo by Jill JENNINGS, Getty Images

ファーガソンはなぜ彼を選んだのか?

 エヴァートンの練習場、フィンチ・ファームにあるミーティングルームで、デイヴィッド・モイーズは我々のインタビューに答えていた。2009年9月、エヴァートンがFAカップ決勝でチェルシーに敗れてから数カ月後のことだ。

 モイーズがインタビュー向きの人物だということは疑いようがなかった。彼は慎重かつエネルギッシュで、意地悪な誘導尋問にも動じない政治家のセンスと、フットボールへの揺るぎない情熱を持っていた。

 その表情が突然変わったのは、記者がこう聞いた時だ。デイヴィッド、君は今の地位を築くために、1日16時間も働いていたらしいね、と。「私は今もそうしている」とモイーズは相手の言葉をさえぎった。「毎日だ。少しでも手を抜けば、誰かが私を追い越していくだろう。私は、毎日が自分にとって最後の日だと思って働いている」

 それから4年が経ち、モイーズは世界で最も有名なクラブの一つ、マンチェスター・ユナイテッドの監督になった。しかし、彼の実像はいまだ多くの点で謎に包まれている。彼について人々が抱くイメージは、スコットランド人監督の典型的な人物像の域を出ない。熱心に仕事に打ち込む、負けん気が強い、感情の起伏が激しい……。

 それらの気質は、もちろんモイーズにも当てはまる。だが、それだけでは、サー・アレックス・ファーガソンが彼を自らの後継者に指名したことの説明になっていない。下部リーグでキャリアを終えた平凡な選手を、オールド・トラッフォードのベンチへと導いたものは何なのだろう? そして、そもそもデイヴィッド・モイーズとは一体、何者なのだろうか?

4部にいたクラブを2部昇格に導く

 デイヴィッド・ベッカムは1995年、マンチェスター・ユナイテッドから4部リーグのプレストン・ノース・エンドへと、1カ月だけレンタルに出された。そのチームのキャプテンだったのがモイーズだ。「どんなボールにも身を投げ出してタックルするような選手だった。彼は勝利を追求し、大声で怒鳴り、他の選手のギアを上げていた」。ベッカムは、自分と同じデイヴィッドの名を持つスコットランド人センターバックをそう評した。

 ベッカムがオールド・トラッフォードに戻ってスターの地位を手に入れた一方で、モイーズが同じ場所にたどり着くにはそれから18年を要した。しかし、ファーガソンとのつながりはこの頃に生まれていた。プレストンの指揮官だったギャリー・ピーターズは、キャプテンのモイーズを選手兼アシスタントに据え、ユナイテッドとの練習試合の手配を任せていたのだ。

 この体制はある程度うまく機能した。モイーズがキャプテン兼アシスタントを務めていた時、プレストンは96年に4部リーグで優勝。しかし、98年には降格の危機に陥り、ピーターズは監督を辞任してユースアカデミーに移った。その際、ピーターズが自らの後任に推薦したのが、34歳のキャプテンだった。「監督モイーズ」の誕生である。

 新米監督の就任に一部のファンは怒ったが、その怒りが間違いであることはすぐに証明された。モイーズが指揮したプレストンは降格の危機を簡単に脱し、1年後には昇格プレーオフに勝ち進み、その2年後にはタイトルを手に2部リーグへ昇格した。青年監督モイーズは当然のごとく、より大きなクラブの注目を引く存在になっていた。

 モイーズに関心を寄せた中には、シェフィールド・ウェンズデーやノッティンガム・フォレストといった有名なクラブもあった。それから、イングランド最大のクラブの名前もあった。そう、マンチェスター・ユナイテッドだ。98年12月、ユナイテッドのヘッドコーチだったブライアン・キッドがブラックバーンの監督に就任するためにクラブを離れた時、ファーガソンはモイーズに電話をかけた。だが、最終的にアシスタントに選ばれたのはスティーヴ・マクラーレンだった。モイーズは当時を笑って振り返る。

「彼はどうやら、私が熱くなりすぎるのが問題だと考えていたようなんだ。その論法でいくと、私よりファーガソンのほうが問題は深刻だと思うけどね(笑)」

 01年、プレストンは2部リーグのプレーオフ決勝に進出したが、ボルトンに敗れてプレミアリーグ昇格を逃した。だが、プレミアリーグのファンはモイーズを見るために長く待つ必要はなかった。翌年の3月、エヴァートンが彼に監督就任を打診したのだ。この時、モイーズと交渉したのが現クラブ会長であるビル・ケンライトだった。「話し合いは深夜のことだった。2時間も話したよ」

 ただし、2人は2時間も難しい交渉を続けていたわけではなかった。ケンライトは初めて会ってから30秒で、この人物こそエヴァートンの監督にふさわしいと判断したのだという。

最悪の状態からエヴァートンを救う

 エヴァートンでモイーズが向き合うことになったミッションは巨大なものだった。シーズン途中からの就任となった01-02シーズンは降格という最悪の事態こそ避けられたが、財政難のクラブに駒不足のチームでは、モイーズがいかに優れた監督だったとしても限界は見えていた。何より、エヴァートンはそれまでの10年間、ほとんど機能が麻痺したような状態だった。最初のシーズンを13位でフィニッシュした時、モイーズは「良いシーズンだった」とさえ思ったという。

 初めて開幕から指揮を執った02-03シーズン、モイーズは一人の天才を利用してチームを再生させたように見えた。下部組織からトップチームにデビューさせたウェイン・ルーニーを軸に据え、快進撃を見せたエヴァートンは、3月後半までチャンピオンズリーグ出場権が与えられる位置をキープしたのだ。最終的にこのシーズンは7位に終わったものの、モイーズはLMA(リーグ監督協会)が選出する最優秀監督に選ばれた。ちなみに、モイーズはこの賞を今までに3回受賞している。

「彼の成功に秘訣はない。誰よりもハードワークしているだけだ」と語るのは、モイーズのアシスタントコーチを務めた後にアカデミーの指導者となったアラン・アーヴィンだ。「できる限り運に任せないこと。すべてをカバーして、選手にできるだけ良い準備をさせることが大事だった。我々はハードワークを欠かさず、ディテールを徹底的に追求していた」

 エヴァートンの復活は、モイーズの挑戦なしにはあり得なかった。「何とか生き残っていたような状況を変えなければならなかった」と彼は言う。03-04シーズン、エヴァートンは勝ち点3ポイント制になってから最低の勝ち点でシーズンを終え、降格圏からわずか1つ上の順位でフィニッシュした。1-5で敗れた最終節のマンチェスター・シティー戦はエヴァートンのクラブ史上最悪のパフォーマンスの一つだった。後にモイーズは、このシーズンがエヴァートンで最も厳しかったと語っている。「自分自身を確立するための戦いだった」。

 ターニングポイントは04-05シーズンのプレシーズンツアーだ。アメリカへの遠征を通じてチームの雰囲気が良くなっていくのを感じたモイーズは、前シーズンの悲惨な成績の原因を分析するようにスタッフに求めた。

 スタッフの意見を聞き、自分のスタイルを進化させ、モイーズは分裂していたチームを一つに結びつけた。開幕直後にルーニーの放出を強いられ、補強も満足に進まなかったにもかかわらず、彼はエヴァートンを87-88シーズン以来の4位に導いたのだ。

「モイーズは明らかに変わった。問題に対処する時、ストレートに立ち向かう以外にも、いくつもの異なる方法があることを理解し始めたんだ」。08年までエヴァートンのCEOを務めていたキース・ウィネスはそう語る。モイーズが監督として成長する上で最も重要だったのは、怒りを抑える能力を手にしたことだ、と。それは、かつてファーガソンが指摘した「熱くなりすぎる」という問題を、モイーズが克服したということでもあった。

細部にこだわり、資金を有効活用

「モイーズが優れているのは、常に新たなアイデアを採り入れるからだ」とアーヴィンは言う。

「彼は自分自身に挑戦し続けているし、そのための有効なヒントを常に探している。何をする時も、今までと違う方法を探している。普通の人間は、物事が終わって初めて全体を振り返り、細部を反省するものだ。何が良かったのか、悪かったのかとね。だが、デイヴィッドは常にそれをやっている」

 となれば、モイーズがかなり早い段階で自分の仕事にデータ分析を採り入れたのもうなずける。まだプレストンを指揮していた頃、彼はフットボールのデータを解析するソフト、「プロゾーン」を使いこなす唯一の監督として評判になった。「『プロゾーン』はデイヴィッドの仕事に不可欠なものだった。彼と働き始めた当初も、今もそうだ」。そうアーヴィンは言う。

 彼はまた、フットボール以外の様々なスポーツのトレーニング理論を採り入れたし、ビデオやスカウティングノートを用いた選手への「講義」も行った。土曜日の午後2時、対戦相手のメンバーが確定すると、キックオフまでの1時間を利用して、エヴァートンの選手は相手の特長を詳細に教え込まれた。

 そして、「プロゾーン」以上にモイーズの仕事を助けたのが、エヴァートンに存在する偉大な資産の一つ、「フィンチ・ファーム」だろう。07年にオープンした最先端のトレーニング施設は、モイーズの実験的な手法を実行に移す上で大きな役割を果たした。完璧主義のモイーズは施設の設計からかかわり、インテリアの位置まで気にするほど細部にこだわった。

 モイーズが監督に就任する前の10年間、エヴァートンの平均順位は14位だった。しかし、彼が来てからは平均7位。これはクラブ財政に余裕がない中、わずかな資金を見事に活用した結果と言える。とりわけ、モイーズはレンタル移籍のシステムを極めて有効に使った。ジョセフ・ヨボやミケル・アルテタのような選手をまずレンタルで獲得し、戦力として計算が立ってから、完全移籍させたのだ。

 更に、モイーズが目を向けたのはベルギーやアイルランド、ギリシャといったマイナーな移籍市場だった。マルアーヌ・フェライーニの獲得には1500万ポンド(約21億円)を費やしたが、今や彼の市場価値はその倍にまで上昇した。シェイマス・コールマンはアイルランドのスライゴ・ローヴァーズから6万ポンド(約840万円)で、ベルギー代表のケヴィン・ミララスはパナシナイコスから600万ポンド(約8億4000万円)で手に入れた。

「モイーズはマネーボールのスペシャリストだよ」。エヴァートン専門のブログ「TheExecutioner’s Bong」を運営するニック・デイヴィスはそう語る。

モイーズを待ち受けるビッグクラブでの試練とは? 続きは、ワールドサッカーキング0801号でチェック!