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OB選手たちの現在――谷川烈(元清水エスパルス)「“サッカーしかできない自分”から“他のこともできるかもしれないと思える自分”になれたことは、僕にとってすごく大きかったと思います」

2014.11.14

[Jリーグサッカーキング 2014年10月号掲載]

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、かつてジュニアユースからの生え抜きとして清水エスパルスでプレーした谷川烈さん。現在、世界トップシェアを誇るタイヤメーカー・株式会社ブリヂストンに勤務する彼は、どのようなキャリアを築いてきたのか。プロ選手時代から今に至るまで変わらない信念について聞いた。
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文=細江克弥
取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム
写真=足立雅史、Jリーグフォト

プロの世界で直面した厳しい現実

 Jリーグ開幕イヤーの1993年、谷川烈は清水エスパルスのジュニアユースに第1期生として加入した。このチームに、平松康平や月見里亮介、市川大祐を擁して前年の全日本少年サッカー大会を制した名門・清水FC“以外”から加わったのは、谷川のみ。「レベル的には一番下だった」と振り返る当時、チーム発足当初は全く試合に出場することができなかった。

「少しずつ慣れていって、夏場くらいからようやく試合に出られるようになりました。93年はJリーグが開幕した年ですから、とにかく華やかでしたね。澤登(正朗)さんや大榎(克己)さん、(長谷川)健太さん、(堀池)巧さんといったトップチームの選手をクラブハウスで見かけた時は、『わっ! 本物だ!』といつも驚いていました。決して身近な存在という感じではなく、『すぐそこに別世界がある』という感じで見ていた気がします」

 ジュニアユース、ユースと順調にステップを駆け上がる中で、自身がプロの世界に飛び込むことも現実味を帯びてきた。U-15、U-16と年代別の日本代表に選出され、高校3年時にはトップチームの練習に参加。プレースピードの速さに戸惑いを覚えながらも、当時の指揮官である(オズワルド)アルディレスや(スティーブ)ペリマンら世界的な名将の指導に刺激を受けた。

 谷川自身はプロになる決意を固めていたが、漠然とした不安もなかったわけではない。何しろ、出身高校の静岡高は「99パーセントが進学する」という県下随一の進学校である。母はやはり、大学への進学を希望していた。

「今思えば、両親は心配していたと思います。ただ、父は『やりたいようにやれ』と言ってくれましたし、サッカーに対する理解はありました。もちろん、僕自身はプロサッカー選手になるために努力を続けてきたので、そのチャンスを逃して大学に進学するという選択肢はありませんでした」

 ユース在籍時からトップチームの試合でベンチ入りしていたこともあって、プロ契約を結んだからと言って特別な心情の変化はなかった。プロになって感じたことは、「思いの外、時間に余裕があった」ことである。週に1度、クラブが主催する2時間の英会話講座に通うようになったものの、時間を有効活用する方法については要領を得なかった。ただし、それも「今思えば」のことである。

「当時はそれほど深く考えていなかったと思います。ただ、余った時間を“サッカー以外のこと”に費やすというよりも、“サッカーがうまくなるための何か”に使うことはもっとできたと思いますね」

 事実、谷川のトップチームでの出場機会はごくわずかしかなかった。プロ契約1年目の99年はリーグ戦1試合、翌2000年もリーグ戦1試合のみ。この試合でJ1では唯一のゴールを決めたが、それもその後の出場機会を増やす起爆剤とはならず、3年目の01年もピッチに立てない日々が続く。

「時間の経過につれて焦りが出てきて、『何とかしなきゃ』という思いは強くなりました。このまま試合に出られなければ、クビになってしまう。そういう不安ですよね。だから、移籍を決断しました」

 01シーズン途中、谷川はJ2に所属するヴァンフォーレ甲府に期限付き移籍する。ここでリーグ戦20試合に出場し、何よりピッチに立つ喜びを取り戻した。しかし翌02年、再チャレンジの意気込みでエスパルスに戻ったものの、やはりリーグ戦のピッチに立つことはできなかった。

「『今度こそ』という思いはありましたし、自信もありました。でも、うまくいかなかった。やはり、実力的にもの足りなかったんだと思います。当時のチームには森岡(隆三)さんや戸田(和幸)さん、テルさん(伊東輝悦)といった代表クラスの選手が何人もいて、彼らと比べるとすべての面で劣っていた。だから、戦力外通告を受けることもある程度は予想できていました。ただ、やっぱりショックでしたね。それでも、まだ若かったので『もう一度トライするんだ』と気持ちを切り替えました」

 しかし、直面した現実は想像以上に厳しかった。トライアウトを受け、その後あるクラブのキャンプに参加したが契約には至らず、開幕直前の2月を迎えても新天地が決まらなかった。知り合いづてに向かった先は、まだ日本人選手がほとんどいなかったアメリカである。

「向こうでテストを受けて、ニューハンプシャー・ファントムズというチームに加入することができました。3カ月でシーズンが終わってしまったのですが、僕にとってはすごく有意義な時間でした。向こうでは1週間で3試合をこなすこともあって、移動もキツく、ものすごくタフな生活を送っていたんです。でも、試合に出場し続けられることに充実感があったし、“世界”を体感できたことが良かった。たった3カ月間でしたが、本当にいい経験をさせてもらいました」

ビジネスマンとして抱く大きな夢

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 しかしその年の8月、日本に戻ると再び“無所属”の現実が待っていた。本人が「最もツラかった」と振り返るこの時期、谷川はエスパルスユースの練習に参加したり、一人で山を走ったり、孤独なトレーニングに没頭した。地域リーグのチームなどからは声が掛かったが、「もう一度Jリーグに挑戦したい」という本人の思いは強く、当面の目標として冬のトライアウトを見据えた。しかし、アメリカではあっという間だった3カ月間が、日本では果てしなく長く感じられて仕方がない。J2の水戸ホーリーホックからオファーが届いたのは、11月のことだった。

「オファーが来た時は本当にうれしかったですね。今思うと、何かに所属していないと、人はあんなにも不安な気持ちになるんだなと。正直、あの頃の僕は精神的にもかなり追い込まれていたと思います。自宅近くの山に登って、叫んだりしていましたから(笑)」

 翌04シーズン、水戸では8試合に出場して1得点を記録。しかし後半戦は出場機会が限られたことから、戦力外通告を言い渡されることを覚悟していた。谷川が「事実上の引退」を決意したのは、トライアウトを経て次の所属先が見つからなかった時のことだ。当時24歳。引退するにはあまりにも若いが、アメリカに行って“世界”を体感したからこそ、サッカーに没頭してきた自分の視野が狭くなっていることを感じ、これまでとは違う世界に飛び込もうという意欲が沸いた。その結果として導き出された第一歩が、大学への進学である。

「大学で4年間勉強して、どういう人生が自分にとって幸せなのかを見つけようと思いました。04年の年末にはそう決断して、1年間みっちり勉強して受験しようと思ったんです。出身校の恩師を訪ねて、ものすごい量の参考書をもらいました(笑)。勉強からは6年間も離れていたので不安だったんですが、どうせやるなら真剣にやろうと覚悟を決めました」

 ところが、受験にまつわるいくつもの資料に目を通しているうちに、ある大学の受験案内に目が止まった。法政大学キャリアデザイン学部――。03年に新設されたばかりのこの学部は、「様々な角度から自分に合ったキャリアを発見し、そこに向かって何を学ぶかを自ら選択する」ことを目的としている。サッカーの道を離れたばかりでまだ明確な目標を定められなかった当時、谷川は「今の自分に合っているかもしれない」と感じて受験を決意。3月6日の試験に向けて、試験科目である小論文の猛勉強を開始した。1日に3本、多い時は4本の小論文を書き、新聞記者の父親に提出して添削を受けた。

 数カ月後、見事合格通知を手にした谷川は、1年後に見据えていた入学予定を大幅に縮小し、4月から晴れて大学生となった。最も刺激的だったのは、東証一部上場企業のインターネットリサーチ会社、株式会社マクロミルの創業者であり現代表取締役会長兼社長である杉本哲哉氏が講師を務めるゼミでの活動だ。ここでビジネスの面白さを感じた彼は、在学時から複数のインターンシップを通じて社会人になるための準備を進めた。

「株式会社電通のサッカー事業局にインターンシップに行かせていただいたり、Jリーグ・キャリアサポートセンター(当時)のお手伝いをさせていただいたり。もちろん、卒業後にサッカーの仕事に就くことも考えました。ただ、そうじゃない道を選択することも自分にとってプラスになると考えました」

 学生時代から、選手ではなく一般社会人としてサッカー界に関わっていた彼のことだ。本人が願って努力を続ければ、もう一度ビジネスマンとしてサッカーの世界に身を置くこともできただろう。それでもその道を選択しなかった理由は、彼自身の「夢」にある。

「選手としてたいした実績を残せなかった僕が言うのもおかしいかもしれませんが、サッカーをやっていた頃は常に『ワールドクラスの選手になりたい』という夢を持ってプレーしていたんです。だから、その夢を、今度はビジネスの世界で叶えたかった。自分がずっとやってきたサッカーとは違う世界でそれができれば、もしかしたら、ワールドカップで活躍するのと同じくらいの喜びがあるんじゃないかと思ったんですね。そういう意味では、サッカーにこだわることなく、違う世界で勝負してみたかったんです」

ブリヂストンの営業担当として世界、日本を駆け回る日々

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 就職活動では、思いの他、自分がプロのサッカー選手であったことは問われなかった。面接官に聞かれたのは、「なぜ大学進学を選択したのか」と「大学時代に何をしてきたのか」である。いくつかの企業で試験を受けた谷川は、世界最大手のタイヤメーカーとして知られる株式会社ブリヂストンの就職内定を勝ち取った。

「やはり、グローバルに展開している企業であるということが一番の理由でした。さっきお話ししたとおり、世界で活躍する人間になりたいという目標がありましたから」

 入社時にはすでに28歳になっていたが、年齢のことは全く気にならなかった。むしろ、そのことがネガティブな影響を及ぼしたことは一度もない。社内では顔と名前を覚えてもらえるし、社外の営業活動においてはサッカーの話に花が咲く。振り返れば、サッカー選手として学んだことがビジネスのシーンで生かされたことも多い。「元プロサッカー選手」というキャリアも、彼にとっては武器でしかなかった。

「努力するほど成功に近づけるという感覚。それから、コンディション管理についてもサッカーから学んだことは生かされていますね。もちろん、組織の一員として動くということもそう。むしろ一人の選手と一人のビジネスマンが考えるべきことは、それほど大差ないと思います」

 1年目から昨年まで、谷川はロシア及び周辺国における営業チーム「ロシア事業部」に配属されていた。担当は、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニア、モルドバ、ウズベキスタン、ウクライナ、トルクメニスタンといった国々で、乗用車用タイヤやトラック・バス用タイヤの営業である。1年に数回、約2週間ずつ現地を訪れる経験は何より貴重で、異国文化に触れて様々なことを学んだ。もちろん、どの国に出向いても自身がサッカー選手であったことは、営業ツールの一つとして有効活用することができた。やはりサッカーは、世界共通の言語となる。

 現在は、「MCタイヤ事業部」にて国内バイクメーカーに対してのタイヤを営業する業務を担当し、全国を飛び回る多忙な日々を過ごしている。

「充実してます。もちろん仕事ですから、常に『最高に楽しい』とは言いません。サッカーもそうですよね。プロ選手だからと言って、すべてが楽しいわけじゃない。今の仕事は本気で向き合える。だからこそ充実感があります」

 今後の人生設計について聞くと、「大きいことを言いますよ」と前置きを加えて笑った。

「ビジネスマンとして、サッカーで成功している人たちの社会的な影響力やインパクトを越えたい。そのために、今は修行という気持ちでやっています。大きな目標を持ちながら、目の前の仕事に全力で取り組んでいきたいですね。本当に、毎日が勉強です」

 元サッカー選手が世界有数の企業の最前線で活躍しているのだから、セカンドキャリアにおける稀有な成功例の一つと言えるだろう。谷川の場合、その理由はどこにあったのか。本人に聞いた。

「僕の場合は“切り替え”がうまくいったと思います。なぜうまくいったのかというと、プロサッカー選手だった頃に本気でやっていたから。出場機会がなくても、所属クラブがなくても、『絶対に何とかしてやる!』という強い気持ちを失ったことはありません。自分でもストイックなほどに“上”を目指していたと思えるので、最後には『やり切った』と思えたんだと思います。もう一つは、やはり大学への進学をしたことですね。あの4年間を使って、自分がどうするべきかをじっくり考えることができた。“サッカーしかできない自分”から“他のこともできるかもしれないと思える自分”になれたことは、僕にとってすごく大きかったと思います」

 谷川は、関東1部リーグに所属するエリースFC東京に在籍して、現在もサッカーを続けている。このチームには、谷川と同じように「仕事、家庭、サッカーを全力で」と考える選手たちが集まっているという。おそらく、そうして現役時代から今までずっと「全力」を貫いてきたからこそ、谷川の“今”があるのだと思う。

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