FOLLOW US

OB選手たちの現在――山本浩正(元ジュビロ磐田)「サッカーだけが人生じゃないですから、本人がやりたいことをやればいい。流れに身を任せてもいいんじゃないかと、僕自身は思います」

2014.11.04

[Jリーグサッカーキング 2014年8月号掲載]

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、かつてジュビロ磐田でGKとしてプレーし、2002年の完全優勝にも貢献した山本浩正さん。現在、常葉大学浜松キャンパスサッカー部のGKコーチとして活躍する彼に、いくつものクラブを渡り歩いた現役時代、フットサルへの挑戦など、イメージしたセカンドキャリアに至るまでの経緯を聞いた。
5uEVPcWW6Jkm8xn1415070234_1415070273
文=Jリーグサッカーキング編集部
取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム
写真=長江由美子、Jリーグフォト

完璧ではなかったアスリートとしての自分

 山本浩正が常葉大学浜松キャンパスサッカー部のGKコーチに就任したのは、ほんの数カ月前のことだ。

「ジュビロ時代にチームメートだった先輩で、ここでコーチを務める山西(尊裕)さんが声を掛けてくれたんです。澤登(正朗)監督がGKコーチを探していると。確か、昨年の夏くらいでした。指導するのは初めてのことなので、やっぱり毎日が新鮮ですよ」

 こうして指導者としての道を歩き出すまでには、紆余曲折があった。山本と言えば、“黄金期”のジュビロ磐田でプレーしたGKだ。しかしその後、J2や社会人リーグ、さらにはフットサルのFリーグでプレーした事実はあまり知られていないかもしれない。様々なカテゴリーで、時には種目を越えてゴールを守り続けてきた彼は、どのような経緯で今に至ったのか。

“サッカー王国”静岡でも屈指の名門として知られる清水東高を卒業し、ジュビロ磐田に加入したのが1998年。いくつかのJクラブからオファーを受ける中、スカウトの熱意に惹かれてキャリアのスタート地点を選んだ。

「高校生の頃って、自分の立ち位置が分かっていないじゃないですか。初めて人から客観的に評価される機会だったので、やっぱり自分を必要としてもらえるクラブに行きたいと思ったんです。それがジュビロでした」

 とはいえ、当時のチームにはオランダ人GKヴァン・ズワムや97年のJリーグベストイレブンに輝いた大神友明など実力者がそろっており、高卒新人が出場機会を勝ち取るのは簡単ではなかった。ようやくリーグ戦のピッチに立ったのは2001年のこと。ジュビロに加入して4年目のシーズンだった。

 翌02年は大幅に出場機会が増加。リーグ戦で14試合に出場し、ファーストステージ、セカンドステージをともに制する“完全優勝”に大きく貢献した。ただし、本人は「たまたま試合に出ていた時に優勝が決まっただけですよ」と努めて冷静に振り返る。

「レギュラーを勝ち取った感覚は全くないですね。加入から幾度となくケガをしていたこともありますし、シーズンを通じて試合に出ていたわけではないですから。だから、自分としては『ジュビロの守護神として完全優勝した』とは絶対に言わないんです。選手の貢献度はあくまで他人が評価するものであって、自分としては、本当にたまたまそのピッチに立っていたという感じなんです」

 山本の謙遜には理由がある。ジュビロには計8年半在籍しているが、リーグ戦の出場はわずか28試合。これだけの出場数にとどまった背景には、「在籍期間の半分以上はリハビリをしていた」という苦い思い出があるが、彼は決してケガを言い訳にしない。

「今振り返ってみると、本当の意味での“プロ”じゃなかったということだと思います。正直に言えば、アスリートとしての自己管理については深く考えていなかった。それができなかったということは、その程度の選手だったということだと思うんですよ。そこを徹底することができれば、少し違った結果があったんじゃないかと言う人もいるかもしれないけど、僕自身としては、それも含めて自分の実力だと思っています」

 出場機会が減少していた04年夏には、「他のクラブはどういう雰囲気なのか興味があった」こともあり、ヴィッセル神戸への期限付き移籍を経験し、半年後にジュビロに復帰。07年からはセレッソ大阪で、09年からは愛媛FCでそれぞれ2年間プレーした。

「ジュビロとの契約が満了になった後、年明けにトライアウトを受けることになり、セレッソから話をいただきました。愛媛への移籍もトライアウトを受けたことがきっかけです。2回目は現役生活を続けるかどうかも含めて、返答期限のギリギリまで悩みました。でも、こういった縁がなければ愛媛へ足を運ぶ機会もないと思って決めました。結局、サッカーが好きだったんでしょうね」

 結果的には、この選択が後の人生に大きな影響を及ぼすことになる。

「愛媛に行かなかったら指導者になっていなかったと思います。愛媛でプレーすることで、指導者という道を何となくイメージし始めることができましたから」

 愛媛は、彼のプロキャリアにおける4つ目のクラブだった。当然ながらジュビロ、神戸、C大阪、愛媛と渡り歩く中で、様々なタイプの指導者や価値観と接することになった。そうして蓄積していった経験が、いつしか自分の指導者としての価値観を形成していった。

「愛媛には、『仮に自分が指導者になった時に、“自分の色”はどういうものなんだろう』と考えるきっかけを与えてもらいました。だから、本当に行って良かったと思います。改めて振り返ると、決断は間違っていなかった」

 愛媛では2年間でリーグ戦68試合に出場。移籍1年目の09シーズンにはキャリアハイの45試合でゴールを守った。試合に出ることはもちろん、ここで大きな「気づき」を得た山本は11年、神奈川県のSC相模原に新天地を求める。当時の相模原が所属していたのは、関東サッカーリーグ2部。クラブにはGKコーチがおらず、選手として最年長だった山本には、必然的に多くのものが求められた。

「練習メニューを自分たちで考える必要がありました。でも、自分も選手ですから、もちろん自分で決めた練習メニューを自分でこなさなければいけない。そこが難しいんですよね(笑)。かなり追い込みましたよ。自分がまずやらなければ、他の選手に『やれ』とは言えないですから」

 このシーズン、残念ながら相模原は目標としていたJFL昇格を成し遂げることができなかった。シーズン終了と同時に、山本はひっそりと現役を退いた。

「現役に対する未練は全くありませんでした。やっぱり、そこまでの選手だったということだと思います。もっと上に行く選手は倍以上努力していますから」

 しかし思いがけない展開によって、山本は翌12年から再びゴールマウスに立つことになる。

「今やりたいこと」を“楽しく”やるだけ

 彼の新天地は、Fリーグのフットサルチーム、アグレミーナ浜松だった。引退したばかりの山本がFリーグに舞台を移すことになった背景には、知人の誘いで受けたアメリカンフットボールのNFL(ナショナル・フットボール・リーグ)のトライアウトがある。元プロサッカー選手の挑戦はスポーツ新聞で取り上げられるなど話題を集めた。本人は楕円形のボールを蹴った経験もなく、誘われるままに受けたトライアウトの結果は実らなかったが、そのニュースが彼のセカンドキャリアに新しい扉を開くきっかけとなる。

「NFLのトライアウトを受けた記事を見て、アグレミーナの知人から連絡がありました。『山本、今何やってるんだ? フットサルをやってみないか?』って。どんなめぐり合わせがあるか、分からないものですよね(笑)」

 愛媛で指導者としてのイメージを抱き始め、相模原ではコーチに近い役割を担うこともあった。そうして自身の指導者像を膨らませつつあった山本は、アグレミーナからのオファーをポジティブに受け止めることができた。

「すべての知識がサッカーのGKにも通じる部分があるはず。いつの日か絶対にサッカーの指導に役立つことがあると思って決断しました」

 実際にフットサルをプレーしてみると、サッカーと共通する部分もあれば、新しい知識として学ぶことも多い。体の使い方やポジショニングの専門知識は彼を大いに刺激した。そして、それらは実際にプレーヤーとしてフットサルを体感した彼だからこそ獲得できた財産と言える。

「フットサルはやらなければ絶対に分からないものがありますし、その経験を持っているコーチは少ないですよね。だから、自分が指導者になった時に他の人とは違う角度からGKを見ることができるんじゃないかと思ったんです」

 浜松では、人生初のアルバイトも経験している。

「経済的な部分よりも、人生経験としてアルバイトをしたかった。Fリーグの選手たちは、ほとんどが何らかのバイトや仕事をしながらプレーしています。自分は高校を卒業してすぐにプロの世界に入ってしまい、いわゆる“世間”を知らないままだったので、もともと経験してみたい気持ちがあって。居酒屋で『いらっしゃいませ!』って(笑)。お店ではキッチンで揚げ物とか焼き物を担当していました」

 午前の練習を終えると、夕方からアルバイトに向かう。帰宅するのは深夜。Jリーグ時代には考えもしなかった生活スタイルに、当然ながら困惑することもあった。それでも彼は、この経験をポジティブに回想する。

「アルバイトや仕事をしながら、サッカーやフットサルを真剣に続けている人がいることを知ることができた。そういう選手が大勢いることを知ったのは、自分にとっても大きかったですね。実際にアルバイトをしてみて肉体的にも精神的にも大変でしたが、それだけサッカーやフットサルへの熱い思いを抱いている人がいる。Jリーグが恵まれた環境にあることを改めて感じました」

 アグレミーナでのプレーが2年目を迎えた13年。山本に大きな転機が訪れた。オフを使って練習を見に行っていた常葉大学浜松キャンパスサッカー部から、GKコーチとしての正式な打診を受けたのである。

「澤登監督や山西コーチは『どうしてもGKの指導は分からないから、GKについては山本にすべて任せる』と言ってくれました。もちろん、GKに関しては2人よりも分かっているつもりでいましたから、すごくやりがいがあるチャレンジだと思いましたし、同時に責任も感じましたね」

 念願かなって歩み始めた新たな道――。現役時代に漠然とイメージしていた指導者としてのその道に今、山本は立っている。紆余曲折はありながらも、目指していたセカンドキャリアにたどりついた。

「現役時代からセカンドキャリアの準備をしておくかどうかは、人それぞれだと思います。将来設計を緻密に考える人もいれば、タイミングや縁がその先のことを決めてくれると考えている人もいる。もちろんサッカーだけが人生じゃないですから、本人がやりたいことをやればいい。流れに身を任せてもいいんじゃないかと、僕自身は思います」

 それから、こう続ける。

「それでも、僕も漠然とは考えていました。指導者としてのイメージを持ちながら愛媛、相模原、浜松でプレーしていましたから。そういう意識を頭の片隅に置いておけば、リアクションが早くなると思うんです。だからこそ、僕は一連の流れにめぐり会えたのかもしれない。その漠然としたイメージに、いつ、どう気づくかは人それぞれでしょう。自分で気づいたタイミングで、そこに向かって進めるよう準備を始めればいいと思います」

 冒頭からインタビューに同席していた山西に、質問を投げてみる。山本を指導者の道に誘った彼は、どのような思いで声を掛けたのか。

「当初は彼にコーチとして来てもらうことは想定していなかった。でも、話をしていたら、思っていたよりも指導についてしっかり考えているなと思って声を掛けたんです」

 その言葉を聞いて、山本が反応した。

「ありがたかったですね。自分は学生に指導をする時も絶対に無理矢理にはやらせないようにしています。もう義務教育ではないですし、二十歳前後の大人です。卒業後も本格的にサッカーを続けたいのか、部活動として参加しているだけなのか、個人差があるのは事実です。ただ、みんなのモチベーションをうまくコントロールして、みんなを同じベクトルに向けつつ、チームとして前に進める必要があります。個を尊重しながら、本人の自主性に任せています」

 再び、山西が言う。二人のやりとりは続く。

「僕はそこも含めて楽しみにしています。山本の姿を見て『その指導では伝わらないんじゃないかな?』と思うこともあるんですよ。でも、そこには自分なりの考えがあるんだろうなと。そうやって自分で試行錯誤すればいいと思います。うまくいかなかったとしても、そこで気づけばいいんです。学生と同じで失敗しないと分からないこともありますよね。指導に関してはすごく真面目だし、向いていると思いますよ。僕、そういう人を見る目はありますから」

 実際に山本は「毎日が失敗ばかり」だと言う。

「指導はコミュケーションがないと成り立ちません。向き合う相手は機械じゃないですからね。学生たちの心境は日によって全然違うと思いますし、日々彼らにとって最善の働きかけをできるようにしたい。だけど、すごく難しいですね。結局は人と人とのつながりですから。それがダメな時点で、教えたり教わったりという話にはならない。例えば、『あいさつをする』、『人の話を聴く』といったことがしっかりできなくて、サッカーだけできればいいという考えは違うと思います。そこは今後の人生にもつながってくると思いますし、学生への指導に伴って自分自身を戒めることになりますから、厳しく指導していますよ」

 最後に、山本に自身の将来像を聞いた。

「今はここでしっかりと学生たちを指導することしか考えていません。将来的に『絶対にこれをやりたい』というものはないんです。ただ、どのカテゴリーでも、どういう携わり方でもいいので、人に教える立場にいたいとは思っています。ただ、将来のことよりも、“今やりたいこと”をやるだけだと思っています」

 指導者としてのイメージを抱くこととなった愛媛。立場上、指導者的な役割を担うこととなった相模原。指導者としての自分の価値を高めるべく、どん欲に知識を吸収した浜松。それぞれの場所は、決して恵まれた環境ではなかったかもしれない。しかし、今振り返ると指導者になるための流れに沿って、進むべくして進んできた道だと解釈することもできる。そして、それはその時々で自身が“やりたいこと”に素直に取り組んできた結果だ。

 今を生きる――。その結果として、今がある。

「いや、今を“楽しく”ですかね。『生きる』って、なんか堅苦しいじゃないですか(笑)」

「楽しく」の積み重ねによってたどり着いたセカンドキャリアは、まだ始まったばかりだ。

【バックナンバー】
新井健二(元アルビレックス新潟)「今になって思うことは、選手のうちにできることがたくさんあるということ。第2の人生のための準備は必要だと思うし、それを含めてのサッカー人生だと思うべきかもしれません」
石井壯二郎(元ガンバ大阪)「サッカーに全力を注ぐことが大前提。でも、セカンドキャリアを含めての“プロサッカー選手”と考えれば、何かに気づけるかもしれない」
柿本倫明(元松本山雅FC)「子供たちにサッカーを教えて『楽しかった』と言われることが何よりうれしい。地域の“山雅熱”は上がっていると思います」
鶴田道弘(元名古屋グランパス)「大切なのは『人として成長すること』。たくさんの人に見られる立場を自覚できる環境だからこそ、自分次第でどんどん成長できる」
佐伯直哉(元ヴィッセル神戸)「何が自分に向いているのかいまだに見えてこない。でも、チャレンジしていればきっと見えてくると思う」

SHARE

LATEST ARTICLE最新記事

RANKING今、読まれている記事

  • Daily

  • Weekly

  • Monthly

SOCCERKING VIDEO