2013.07.19

OB選手たちの現在――前田雅文(元ガンバ大阪)「大学はプロを目指そうと思ったサッカー人生のターニングポイント。だからこそ、大学で指導者になることを考えた」

[Jリーグサッカーキング8月号掲載]
Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、ガンバ大阪でアタッカーとしてプレーし、2005年にJ1通算1万ゴールのメモリアル弾を決めた前田雅文さん。現在、大阪学院大サッカー部でコーチを務める彼は、自分の思いを冷静に捉え、正直な“サッカー人生”を歩んでいる。

文=高村美砂
取材協力=ホテル阪急エキスポパーク、Jリーグ企画部 人材教育・キャリアデザインチーム
写真=コラソン齊藤友也

指揮官の要望に全力で応えた結果がJリーグ1万ゴールのメモリアル弾

 いつでも、冷静に自分の『サッカー』を感じ、決断してきたからだろう。『引退』という大きな決断をするにあたっても、前田雅文は潔かった。「それまでも試合に出られなかったり、メンバーに入れなかったり、ケガをしてコンディションが上がらないことに不安を覚えたり。また、ケガが続いていろんな葛藤を抱えながらサッカーをやっていた時も、それを人のせいにしたり、環境のせいにすることはなかったんです。むしろ環境がどんなにひどくても、そこに自分なりの楽しみを見いだしながら、楽しくサッカーをやれていた。なのに、ザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)での最後のシーズン、2011年は違ったんです。いろいろな人工芝のグラウンドを転々としながら練習する毎日が続いていた中で、筋肉系のケガが増えてきて、できるだけ早くピッチに復帰したいと気持ちが急く一方で、現実が伴っていかないというか。当時は、人工芝のグラウンドで毎日100パーセントの力で練習を積み過ぎると、ケガにつながりやすいと言われていましたから。だからこそ、副島博志監督も練習メニューにはすごく配慮をしてくれていたし、僕自身も100パーセントでやりたい気持ちをあえて封印して、ボリュームを落として身体を作ったり、試合に向けての準備をするしかなかった。という状況でも、最初は自分なりに工夫をしてやっていたのに、11年の最後の数カ月は、自分のコンディションが上がらずにメンバーに選ばれないことを、完全に人のせいにするようになっていた。そのことに気づいた時に、終わりかな、と。『自分の力が足りないだけなのに、他の要素に責任転嫁をするようでは、先はない』と引退を決めました」

 前田のプロサッカー選手としてのキャリアはガンバ大阪で始まった。関西大から加入したのは、G大阪がJ1リーグ初優勝を決めた05年のこと。当時は西野朗氏が指揮を執るようになってから4年目のシーズン。02年にJ1での年間総合順位がクラブ史上最高の3位になったことに始まって、右肩上がりにチーム力をつけていた時代とあって、前田はそのレベルの高さに圧倒された。「想像以上に、個々のレベルは高かったですね。だから加入したての頃は、本当に自分がついていけるのかが心配でした。西野さんが作り出していた常勝軍団の雰囲気というか……練習から漂っているピリピリした緊張感の中で、僕自身はとにかく毎日をやり切ることに必死だった。実際、僕にとっては難しいプレーも、フタさん(二川孝広)やヤットさん(遠藤保仁)たちにとっては、なんてことのないプレーでしかないというようなこともしょっちゅうで(笑)。どれだけ自分が練習したとしても埋められない差があることは自覚していました」

 だから、前田は早い段階で自分の思考を変化させた。野洲高、関西大時代には、彼なりに自身のパフォーマンスへの手応えも感じていたからこそ、勝負したいプレーもあったが、それだけではG大阪では試合に出場するチャンスをつかむことはできない。そう考えたからこそ監督の求めるプレーを100パーセントで実現する選手になることに徹した。「自分のこだわっているプレーなんて、ガンバの誰もができましたからね(笑)。そこにこだわったところで周りを抑えて僕が試合に出る可能性は低い。ならば、監督に言われたことをとにかく100パーセントで体現できるようになろう、と。だからこそ練習から、とにかく西野さんに求められることをやろうとした。それは僕が大卒でプロになったことも影響しているのかもしれません。今でこそ大学生からプロになることも当たり前だけど、当時はあまり多くなかったですから。僕の中に『ホンマに能力のある選手は高卒でプロになっている』という考えがあったからこそ、柔軟に自分を変化させられたのかもしれない」

 そうした発想の転換が功を奏し、前田は自分の居場所を見いだした。その証拠にプロ1年目の05年、彼はJ1第7節のFC東京戦で初のベンチ入りを実現する。当時のサブメンバーは今とは違ってわずかに5人。つまり、フィールドプレーヤーは4人しか登録できなかったが、前田はその競争に勝ち、サブメンバーに名を連ねるようになる。しかも、その東京戦で途中出場ながらプロデビューを果たすと、以降の試合でも「流れを変えられる選手」として存在感を発揮。短い時間ながら、ゴールチャンスに絡むシーンが増えていく。その結果に生まれたプロ初ゴールが同年5月8日、万博記念競技場における名古屋グランパスエイト(当時)戦での『J1リーグ通算10000ゴール目』のメモリアル弾だった。「もともと、僕はゴールを演出する側の選手でしたから。そこまでゴールに意欲的ではなかったけど、それまでの試合でアシストも含めて結構、惜しいプレーを連発していましたからね。そろそろ明確に数字に残る仕事をしたいと思っていた中でプロ初ゴールを決められたのは素直にうれしかった。ただ、J通算10000ゴール目ということについては後からついてきたものなので、さほど印象には残っていません(笑)。当時はまだいっぱいいっぱいで、気持ち的にはすぐに次の試合に切り替わっていました」

 その言葉どおり、確かに前田の目はすぐに“次”の試合に向けられていた。当時のG大阪の注目度の高さも相まって、世間は彼を『1万ゴール男』と騒ぎ立てたが、彼自身はそこに踊らされることなく、真摯にサッカーに向き合い続けた。

ケガやリハビリと向き合いながら甲府で再認識したサッカーの“楽しさ”

 だが、そんな矢先、彼をアクシデントが襲う。ヤマザキナビスコカップの試合を3日後に控えた6月8日の練習中に右ひざ前十字じん帯断裂という大ケガを負ったのだ。結果、長期離脱を余儀なくされた彼は、残りのシーズンをリハビリに費やすことになる。チームが劇的な逆転優勝を決めた最終節は、ベンチの外からその瞬間を見届けた。「自分にとっては初めての大ケガだったし、自分の負ったケガについての知識も全くなかったですからね。また長いリハビリも辛く、キャリアに対する不安も当然感じたし、全員が全員、ケガ以前の状態で復帰できる訳でもないと聞いていたので、不安は正直ありました」

 それでも長いリハビリ生活を乗り越え、前田は当初の『復帰まで全治約8カ月の見込み』という診断に大きく遅れることなく翌年、復帰を果たす。復帰戦はJ1第3節の大分トリニータ戦。途中出場ながらピッチに立つと、以降もほとんどの試合でメンバー入り。05年には実現できなかったスタメン出場も14試合を数えた。だが07年はより厳しくなっていくポジション争いに競り勝つことができず、先発はおろか、ベンチ入りメンバーにも名を連ねられない日々が続く。試合に出場してもどこか達成感はなく、そのことが彼の気持ちを移籍へと動かした。「当時のガンバは勝つことが当たり前とされていましたから。常勝軍団と呼ぶにふさわしい選手も多かった中で試合に使ってもらっても、自分の貢献とか、パフォーマンスに関係なく、周りに勝たせてもらっている印象が強くて。そういう意味ではチームの結果とは反して、自分の達成感はあまりなかった。しかも当時の主力選手だったヤットさんやフタさんたちはまだ26、27歳でしたからね。どう考えてもこの先5年は中心選手としてベストパフォーマンスを発揮するだろうと予想できた……というか実際に今もまだベストの状態でプレーしていますからね(笑)。冷静に考えて、このままずっとガンバにいても、いつまでたっても彼らには追いつけないだろうな、と。ならば、自分のサッカーへの手応えを感じられるところでプレーしたいと考えました」

 その思いから前田は08年、期限付き移籍を決断する。新天地に選んだのはヴァンフォーレ甲府。結果的に、甲府でも08年に再び右ひざ前十字じん帯を断裂するなど苦境に立たされたが、当時の指揮官だった安間貴義(現カターレ富山監督)との出会いはもちろん、大学時代に実感していた『サッカーを楽しむ自分』を取り戻したことは、彼にとって「すごく充実した時間だった」そうだ。「ガンバではミス一つ許されない空気感があり、余計にシンプルにプレーすることが増えて、チャレンジするプレーはほとんどなくなっていましたから。でも、甲府では自分のアイデアをたくさん出しながら、楽しんでサッカーをできた。それによって、ある意味、大学時代にやっていたようなサッカーを思い出せたし、練習からミスをしてでもチャレンジする場面は明らかに増えた。また安間さんのサッカー感に触れられたのも大きかった。安間さんは、楽しみながらサッカーをやらせつつ、100パーセントでサッカーに取り組まなければめちゃくちゃ怒る人(笑)。結果的に、甲府でのプレーは2年間で終わりましたが、楽しみながらも緊張感をもって、100パーセントでプレーするという意味での『サッカーの楽しさ』を改めて学んだことは、後の自分にとってもすごく意味深いことだった」

 甲府への2年間の期限付き移籍を終えた前田は、同時にG大阪との契約も満了。だが、甲府でサッカーを楽しむ自分を取り戻したことや、09年に一度も公式戦のピッチに立てなかったこともあり「心のどこかで何か引っ掛かるものがあった」。それもあって「もう一度、J2でしっかり戦ってみたい」という思いが芽生え、草津への移籍を決断する。ただ、当時の草津には専用グラウンドがなく、人工芝の練習場を転々とするような毎日。練習が終わってシャワーが浴びられないこともしょっちゅうだったが、そうした環境にも「最初は楽しみながら向き合えていた」と振り返る。また、2度の大ケガによって、「このプレーをしたら危ない」というようなケガの知識が増えたことで、自然とプレーに制限を設けるようにはなっていたものの、そのことをネガティブに考えることもなかった。むしろ、ケガをしたことで、改めてサッカーをできる幸せを感じられたことは彼にとっての大きな喜びでもあった。

プロを目指そうと思った大学でセカンドキャリアをスタート

 そんな日々に変化が訪れたのが、11年の後半だった。自分の心に浮かんだ邪念にケリをつけるかのように、前田は自ら“引退”を決意する。と同時に思い浮かんでいたのが、以前から抱いていた「僕はとにかくサッカーが好き。将来は指導者としてサッカーに関わりたい」という思い。いわゆる“セカンドキャリア”については、現役中に具体的なイメージを持っていなかったものの、自分の気持ちに素直に向き合った時に見えてきたのが、指導者の道だった。しかも、その場所として大学を選んだことにも彼なりの考えがあったと言う。「高校では全くプロを思い描けなかった僕にとって、大学は自分がプロを目指そうと思うきっかけになったところ。仲間にも恵まれ、いろいろな人にアドバイスをもらいながらサッカーをできたことが、自分のサッカー人生のターニングポイントになったからこそ、大学で指導者になることを考えた。その思いを代理人にも伝え、セカンドキャリア探しに協力してもらった結果、卒業と同時に大阪学院大のコーチになれたけど、今になって考えれば、よくそんなにスムーズに運んだなと(笑)。そう考えたら、現役の間からセカンドキャリアについて考えておくほうが可能性が広がるのかもしれないけど、そこは……性格でしょうね(笑)。セカンドキャリアを想像する必要性を感じながらも、現役の間はそれがイメージし切れない気持ちも分からないでもないし、日々の練習を100パーセントで取り組もうと考えるからこそ、空いた時間に例えば、習い事をしたりするのがちょっと…と考えるのも理解できる。もちろん、妻や子供がいる選手にとっては、無職になる訳にはいかないからセカンドキャリアを想像しながら現役を続けるというのも分かりますしね。だからきっと、こうすべきだ、という答えはないんです。未来に向けて、自分の人生をしっかり作っていくんだという気持ちがあれば、それでいいんじゃないかな」

 前田は今、大阪学院大サッカー部で、AからDまであるチームのうち、コーチとしてBチームとDチームを預かっている。それもあって、プロ志望というよりは“サッカーを楽しむこと”に重きを置いている選手がほとんどとか。だからこそ「自分のサッカー観や経験してきたことが、まるまる当てはまる感じではない」という現実に、自身もいろんな葛藤を抱えることもある。目指す舞台が高ければ、必然的に選手個々の意識も高まるはずだが、大学での部活動においては、すべての学生がプロを目標にサッカーに取り組んでいる訳ではないからだ。「僕の考える“楽しむ”とは、単にノリやその日の気分でサッカーをすることではないですから。僕自身が甲府時代に学んだように、日々のトレーニングから100パーセントでやることをやって、その上でしか見えてこない、サッカーの楽しさを感じてほしい。そうすれば、『明日の練習ではここをもっとうまくなろう』とか『次の試合ではこういうプレーがしたい』という欲も出てくるだろうし、それがプレーの上達にもつながっていくはずですからね。そういう意味では学生と自分との間に“楽しむ”ことの温度差を感じて、イライラすることもあるけれど、それは、ある意味自分の指導力にも問題がありますから。本気になってサッカーを楽しむことができる選手を増やすためにも、僕自身もまだまだいろんなことを学んでいかなければいけないと思う」

 そうして頭を悩ませたり、自分の力不足を痛感しながらも、彼は今、サッカーに違う楽しみを見いだしているという。もちろん、現役時代にもたくさんのお客さんの前でプレーすることや、大きな声援を受けてボールを蹴ることに多くの喜びを感じていたのは事実だ。だが指導者として、選手の変化を感じ取ったり、高校サッカーを見て刺激を受けたり。時間の許す限りJリーグの試合を観戦に訪れ、大学生と同世代の選手たちのパフォーマンスを見て自分が大学サッカーの指導者としてすべきことを学んだり。そうして違う側面からサッカーに触れ、奥深さを知ることも「たまらなく楽しいこと」だと笑顔を見せる。事実、その表情には現役時代とは違う、だけど確かな輝きが宿っていた。