2013.06.18

OB選手たちの現在――松田悦典(元サガン鳥栖)「治療業としての新たなスタイル、松田流の方法論を広めたい」

[Jリーグサッカーキング7月号]
Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、サガン鳥栖を前身の鳥栖フューチャーズ時代から知り、現在は埼玉県蕨市で治療院『わらびFit整骨院』を営む松田悦典さん。「サッカーを続けたい」という真っ直ぐな気持ちを持ってプロ生活を送り、夢を持ってセカンドキャリアを送る彼に“今”の想いを聞く。
松田悦典
構成=Jリーグサッカーキング編集部 取材協力=Jリーグ企画部 人材教育・キャリアデザインチーム 写真=西田泰輔

大宮東高から浦和レッズへプロの世界に見た厳しい現実

 1991年1月4日、当時まだ16歳だった松田悦典の名を一躍全国区に押し上げたのは、“超高校級”とのマッチアップの末に手にした勝利だった。

 冬の風物詩、全国高校サッカー選手権大会――。

 埼玉県代表の大宮東高は、1回戦で静岡県代表の清水市商業高と対戦した。当時の清水市商業と言えば、山田隆裕、名波浩という2人の「超高校級」の他に、大岩剛、望月重良らそうそうたるメンバーをそろえた絶対的な優勝候補である。ファンの注目は当然、彼らがいかにして優勝旗を手にするかにあった。

 ところがこの試合で、清水市商業は大宮東に敗れた。殊勲のヒーローとなったのが、名門のエースを務める山田を1年生にしてシャットアウトした松田だった。「本当に勝てるとは思わなかったけど、もちろん勝負事だから勝つ気でいました。前半15分くらいが経過したところで、『戦える』という感触があったんです。僕がマークについていた山田選手についても、何とか食いついていくことができました」

 松田はあの勝利について「自分は意外と冷静だった」と振り返るが、周囲の評価は一気に高まった。振り返れば、あの試合に勝ったことで注目度が高まり、ユース代表などの選抜チームに名を連ねるようになった気もする。そういう意味で、清水市商業に勝ったあの試合は松田のサッカー人生にとって大きなターニングポイントだった。

 プロの道に進むことを意識し始めたのは、高校3年の春だった。

 翌年にJリーグ発足を控えたこの年、複数クラブのスカウトが松田を見るために大宮東に足を運んだ。彼は浦和レッズのトレーニングに一度だけ参加して、その場でクラブ側に獲得の意思があることを伝えられていた。「話はすぐにまとまりました。何一つも悩むこともなく、浦和にお世話になることに決めたんです。ただ……実際にチームの一員になってからは、完全に鼻をへし折られましたね。単純なパス回しでも全くボールに触れないくらい(笑)。最近はプロになったばかりの選手がどんどん活躍してるじゃないですか?

 すごいなと思いますね。僕はフィジカル的に全く通用しませんでしたから」

 本人が自覚するところ、松田には“プロ仕様”の身体能力がなかった。だからそれを補うために、常に頭を使い、自分より体格に優れ、スピードのある相手に勝つことを考え続けた。それでもプロの世界で生きていくことの難しさを痛感した。2年目が終わる頃に突き付けられたのは「戦力外通告」だった。「正直、自分が戦力外になるとは思っていなかったんです。トップチームの出場機会がめぐってこなくても、サテライトではキャプテンを任されていたので……。だから、自分の中では『まさか』という気持ちが強かったですね」

 だからもちろん、あきらめる理由はなかった。「お世話になった指導者の人や関係者に、片っ端から電話をかけて相談しました。可能性のある人をすべて列挙して、その人がどのクラブと関係性があるのかをすべて紙に書き出して……。僕は、とにかくサッカーを続けたかったんです。自分はこんなもんじゃないというところを見せたかったし、自分自身でそう信じたかった。その一心で動き回りました」「戦力外通告」という厳しい現実を突き付けられた直後に自ら動ける選手は、実はそう多くない。代理人制度も確立されていない当時は、新天地を探すことが今よりはるかに難しく、早々に道をあきらめる選手も少なくなかった。そんな時代にあって、なぜ松田は道を切り開くことができたのか。「やっぱり、プライドが高い選手は行動を起こすことも難しい。誰かが勝手にチームを探してくれるわけじゃないし、自分で状況を切り開くしかないんです。でも、その時にプライドが邪魔になる。僕は、なりふり構わず、行動を起こすことに集中しました。だから、自分の可能性を模索することができたんだと思います」

 当時はJリーグ草創期にして、バブルに沸いた特殊な時代である。だからおそらく、「戦力外通告」は今よりずっとドライだった。戦力は育てるものではなく、買い集めるもの。そんな認識がサッカー界全体にあったからこそ、選手の入れ替わりは激しかった。「今と比較して、当時は選手を獲得する基準が曖昧だった気がします。例えば鹿島アントラーズのように当時から明確な基準を持っていたクラブはごくわずかで、ほとんどのクラブが選手を選ぶ基準を持っていなかった気がします。そういった意味で、浦和で2年間くすぶっていた僕がチャンスをつかむのは簡単ではなかったですね」

プロ10年目に感じた選手としての特別な充実感

 松田は自分の可能性に見切りをつけることなく、知人に頭を下げ、必死に新天地を探し回った。その結果として迎え入れてくれたのが、当時Jリーグ入りを目指してJFL(日本フットボールリーグ)に所属していたサガン鳥栖の前身・鳥栖フューチャーズだった。

 もちろんJリーグの浦和と比較すれば、鳥栖の環境は明らかに見劣りする。特定の練習場はなく、試合を迎えても客席はガラガラ。ただ、“プロ”から“アマチュア”へと移り変わった環境の違いに戸惑いは感じなかった。「フューチャーズはJリーグを目指しているクラブで、僕個人とはプロ契約を結んでもらいました。確かに環境は大きく変わりましたけど、僕は全く気にならなかったんです。むしろモチベーションは高まっていた。浦和にいたとはいえ当時のサテライトの環境は似たようなもの。もしもっと活躍していたなら話は違うかもしれませんが、僕自身は何も成し遂げていない若造だったので。そんなことより、ただサッカーを続けられることがうれしかった。極端な話、給料でも観客の数でもなく、自分がサッカーを続けられるという現実にしか目を向けられませんでした」

 もしかしたらそれは、サッカー選手として本来あるべき姿なのかもしれない。当時のフューチャーズはJリーグ入りを目指す上で経営的、運営的に複雑な問題を抱えていた。しかし、選手にとってそれはプレーすることへの集中を妨げる雑音となる可能性もある。もちろん一人の所属選手としてクラブ全体のことを視野に入れておくことも大切だが、それはピッチを戦場とする選手の本分とは異なる。松田が「自分がサッカーを続けられるという現実にしか目を向けられなかった」ことは、むしろ選手にとっての正解であるように思える。「今思えば、当時のフロントの皆さんや地域で支えてくださった皆さんはものすごく苦労したと思います。正直、当時の僕はそのことをあまり理解していなかった。ただ、もちろん選手以外の多くの人のサポートを得られなければクラブは成り立ちませんよね。だから、今になってそのありがたみが分かるし、ものすごく感謝しているんです」

 忘れられないシーズンがある。

 フューチャーズに加入して2年目の96年、かつて強いあこがれを抱いていたある人物が、監督としてクラブにやって来た。「1986年のワールドカップを見て、アルゼンチン代表のMFバチスタが大好きになったんです。中学生の頃、サッカー専門誌に手紙を書いたことがあるんですよ。『バチスタの特集を組んでほしい』って(笑)。そうしたら、編集部から『お手紙ありがとうございました』というメッセージ付きで、ゼロックス・スーパーカップのチケットが贈られてきたんです。それだけでも感動するのに、次の号でバチスタの特集が組まれていて……」

 96年、その“英雄”がフューチャーズの監督として鳥栖にやって来たのである。「感動したというより、とにかくびっくりしました。そういうこともあるんだなって。たった1年でしたけど、僕にとっては本当に幸せな時間でしたね」

 決して体格的に恵まれたわけでもなく、身体能力も「並以下」だったという松田は、監督が替わるたびにゼロからのスタートを強いられた。体格や身体能力の利を持っている選手なら、誰の目にもすぐに留まりやすい。しかし、頭を使い、状況判断やポジショニングで勝負する松田は、一見して特長を理解してもらえるほど派手な選手ではなかった。だから、監督が替わるたびに自らのプレースタイルをアピールすることで必死だった。「自分の武器を磨き続けた10年間」

 松田は自身のキャリアをポジティブな言葉で振り返るが、おそらくその言葉の裏側には、なかなか理解されない苛立ちもあったに違いない。

 ただ一度だけ、そうした思いを一掃してくれる監督に出会ったことがある。

 プロ10年目の2002年、サガン鳥栖の指揮官に就任したのは、前年までセレッソ大阪の監督を務めていた副島博志だった。「10年目を迎えて、自分の中ではプロとしての“区切り”を考えていました。そんな時に副島さんが監督としてやって来て、最後にもう一度、挑戦しようと思った。試合に出られないと気持ちにムラが出てまうものだけど、この年はなぜか、必ずチャンスが来ると確信していたんです。気持ちがすごく安定していました」

 開幕直前の練習試合。スタメンの選手が足を痛め、出番が回って来た。するとチームの機能性は高まり、松田はその勢いで開幕スタメンに名を連ねた。「開幕に向けて時間を掛けて作り上げてきたチームを直前で変えてまで、自分を信頼してくれた。監督との信頼関係を感じて、すごくうれしかったですね」

 故障もあってその後は出場機会を減らしたが、この出来事は松田にとって後に“区切り”をつけるための後押しになった。シーズン終了後、松田は自らが次のシーズンの構想外となることを察知した上で、自ら強化部長に連絡し、現役を退くことを伝えた。

引退する選手には「おめでとう」と言いたい

 こうして迎えた人生の転機に際して松田が抱いていたのは、ポジティブな感情だけだった。「サッカー選手じゃない自分がどこまでやれるのか、その可能性を見たくて仕方なかった。次のステージで僕という人間が誰かに認めてもらえるのか、そこに強い興味があったんです」

 サッカーから離れた自分-- 。そこに恐怖はなかったのか。「全くなかったですね。可能性が広がることだけを信じていました。僕はいずれ自分で会社を興して、社長になりたかった」

 松田が選択したのは、柔道整復師の国家資格を取得して治療業を営むことだった。思えばケガをした時、いつもトレーナーの仕事に助けられた。選手として、いつもケガと向き合ってきた経験もある。“今までの自分”を生かせるはずだと思い立った。「学校に通って、急に猛勉強を始めました。最初は全く勉強のやり方が分からなくて、進級できないかもしれないという状況になってしまって(笑)。そんな時に、ある先生に言われたんです。『サッカーで頑張れるのに、どうして勉強で頑張れないんだ』って。その言葉が心に響きましたね。それからは本当に、猛勉強しました。学校に通っている頃は収入もなく、そんな時期を支えてくれた妻と家族には本当に感謝しています」

 3年制の学校を卒業し、31歳の時に受けた国家試験で一発合格。晴れて柔道整復師の資格を取得し、それからの3年間はとある治療院で働いた。そして2010年、「社長になる」という自らの信念に従って、埼玉県蕨市に『わらびFit整骨院』をオープンさせる。「自分の未来に対して目標を決め、それを疑わないことが良かったのかもしれません。大切なのは、できるだろうと信じること。不安の大きさを決めるのは自分だから、それを自分で大きくしても仕方がない。とはいえ、勉強を始めたばかりの頃はこんなに大変なことだとは思いませんでしたけどね(笑)」

 開業して4年。千差万別の症状を抱えた患者と向き合う毎日は、サッカーボールを蹴っていたあの頃と同じくらい、もしかしたらそれ以上に充実している。「治療はマニュアルに従ってできるものじゃない。患者さんにはそれぞれの痛みや悩みがあって、僕たちは一人ひとりの症状と向き合い、一緒に解決していかなきゃいけないんです。だから、僕はいつも『常識を疑う』ことを頭に入れている。もっと効果的に、もっと効率的に治療する方法がないか、いつも探しているんです。もちろん、選手であった経験はすべてのシーンで生かされていると思いますよ。自分自身がケガをしたことがあるから、相手の気持ちが分かる。それは強く感じますね」

 目標は大きい。しかし決して非現実的ではない。「治療に対する自分の考えや方法論をより多くの人に知ってもらいたいと思います。治療法だけじゃなく、知っていることをすべて。常識を疑うことで生まれる治療業としての新たなスタイル、松田流の方法論を広めたい」

 02年の現役引退に際して、クラブにはその情報を耳にしたサポーターから「セレモニーを開きたい」という要望が届いた。松田はクラブ史上初めて、引退セレモニーによって見送られる選手となった。「うれしかったですね、本当に。鳥栖には感謝しています。未熟だった自分を大人に育ててくれて、たくさんの人が応援してくれて。当時のことを考えれば、今のクラブの状態はうれしい半面、信じられないという気持ちもあるんです。でも、それもサポーターの皆さんのおかげじゃないかと」

 サッカー選手のセカンドキャリアについては、自身の経験からこんなメッセージを口にする。「引退した選手に声を掛ける時、僕は『お疲れさん!

 そしておめでとう』と言いたい。選手としてのキャリアは絶対にムダじゃないし、次のステージでも、必ずそれを生かすことができるから」

 直面する一つひとつの課題を乗り越え、目の前にいる一人ひとりの患者と真剣に向き合う。いつも前向きに“勝負”する松田の姿には、セカンドキャリアをポジティブに解釈できるいくつもの理由がある。