ケルンなどで指揮をとったダウム氏が逝去(2009年撮影) [写真]=Getty Images
ブンデスリーガなどの複数クラブで監督を務めたクリストフ・ダウム氏が、現地時間24日の夕方に逝去した。同日にドイツ誌『kicker』などが報じた。
ダウム氏は選手としてケルンのセカンドチームなどでプレーし、若くして指導者に転身。1981年に27歳の若さでケルンのセカンドチーム監督に就任した。1985-86シーズンにケルンでトップチームのアシスタントコーチに昇格すると、翌シーズンからはトップチーム監督に就任。1988-89シーズン、89-90シーズンのブンデスリーガ2位フィニッシュなどを達成した。
1990年11月からはシュトゥットガルトの監督に就任すると、2年目の1991-92シーズンに大混戦の優勝争いを制してクラブ史上2度目のブンデスリーガ制覇を達成。1992年のスーパーカップ優勝も成し遂げた。ただ、1992年9月に行われたチャンピオンズリーグ1回戦セカンドレグのリーズ戦で外国籍選手の起用上限を超えるミスを犯したことで、ラウンド突破から一転して敗退となったエピソードは今でも語り草となっている。
1994年1月から1996夏にかけてはトルコの名門ベシクタシュを率い、1994-95シーズンにスュペル・リグを制覇した。1996年夏にレヴァークーゼンの監督に就任すると、4年で3度のブンデスリーガ準優勝。1999-2000シーズンは残り1節でバイエルンと勝ち点差「3」の首位に立っていたものの、レヴァークーゼンは最終節で昇格組のウンターハヒンクに敗れると、ブレーメンを下したバイエルンに得失点差で上回られて、悲願の初優勝を逃していた。
EURO2000終了後、ドイツ代表の次期監督就任が内定していたダウム氏だったが、コカイン使用疑惑が浮上。ダウム氏は潔白を証明するため毛髪検査に応じたものの、その結果は陽性だった。レヴァークーゼンに解雇され、ドイツ代表監督に就任する夢も潰えたダウム氏は、後年に当時を次のように振り返っていた。
「大きな過ちであったことを認め、謝罪しなければならない。完全無欠の人生を送ることができたと主張できる人間はいるのだろうか?私だってそうだ。結局のところ、間違いを認識し、それを修正し、より良くすることが重要なのだ。それが人間らしさなんだと思う」
2001年3月に古巣のベシクタシュで監督キャリア再開のチャンスを得たダウム氏は、2002-03シーズンにアウストリア・ウィーンでオーストリア・ブンデスリーガ制覇、03-04シーズンと04-05シーズンにはフェネルバフチェでスュペル・リグ制覇を成し遂げた。また、2006年夏からは当時2部だった古巣ケルンの監督に復帰して3シーズン指揮をとり、就任2年目で1部昇格を果たした。
その後、2009年夏にフェネルバフチェに帰還したもののリーグ制覇とはならず、2011年3月から5月にかけて率いたフランクフルトでは2部降格。2011-12シーズン途中から就任したクラブ・ブルッヘではリーグ2位に終わったものの家族の事情により1年で退団し、13-14シーズンに率いたブルサスポルでは途中解任の憂き目に遭った。
2016年7月から2017年9月にかけて務めたルーマニア代表指揮官の仕事を最後に第一線から退いたダウム氏。2022年秋に肺がんと診断され、「がんは間違った体を選んだ」と語るなど長い闘病生活を送っていたが、現地時間24日の夕方、「家族に囲まれながら安らかに」息を引き取ったそうだ。
By サッカーキング編集部
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