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“ブラジルの至宝”ネイマールは世界一の器か?

2014.01.22

[ワールドサッカーキング1402号掲載]

フットボール大国ブラジルから久しぶりに登場したスタープレーヤー。ネイマールへの期待度は、その爆発的な人気も手伝って過剰に高まっている。彼は本物のスーパースターなのか? それとも、過大評価を受けているだけなのか? ネイマールのポテンシャルを探り、「世界一」となる可能性を占う。
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文=アルベルト・ヒメネス Text by Albert JIMENEZ
写真=ゲッティ イメージズ Photo by Getty Images

「世界ナンバーワン」を待ち望むブラジル国民

 ブラジルの復権は、たった一人の男に託されている。

 ネイマール――本名はネイマール・ダ・シウヴァ・サントス・ジュニオール――は、ロナウジーニョが失った「世界ナンバーワン」の称号を、ようやくブラジルの手に取り戻すことができる唯一の希望だ。「世界最大のフットボール大国」を自認するブラジルにとって、その称号はいつの時代も保有しておかなければならないプライドでもある。

 もちろん、フットボールを一種の芸術として愛するブラジル人たちは、永遠の宿敵アルゼンチンが生んだ小柄な10番も、かつてブラジルの統治国だったポルトガルのエースも嫌いではない(むしろ好きだ)。ブラジルのフットボールファンに、「世界ナンバーワンのプレーヤーは?」と聞けば、ほとんどの人がリオメル・メッシ、あるいはクリスチアーノ・ロナウドと答えるだろう。だが、その次の時代は?

 ネイマールの時代がやってくる。それも、そう遠くない未来に。

 フットボールの長い歴史をひも解けば、いつの時代も真のスーパースターは存在した。1960年代にはブラジルの英雄ペレが、70年代にはオランダのヨハン・クライフや旧西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーが、80年代にはアルゼンチンのディエゴ・マラドーナが世界の頂点にいた。90年代にはジネディーヌ・ジダンが、その次はブラジルのロナウジーニョが、そして今は、「史上最高」とさえ称されるメッシがいる。

 ここで私は、「結局、誰が一番優れているのか?」という不毛な議論をしたいわけではない。ペレとマラドーナのどちらが上か? いまだにそんな質問をされている本人たちも、本音はうんざりだろう。だが実際のところ、取材する我々もうんざりしている。他に聞きたいことがないから仕方なく質問しているだけだ。

 間違ってはならない。時代も政治も文化もまるで関係のない、純然たる「フットボールの世界」など、どこにも存在しない。ペレはブラジルに生まれたからこそ、ワールドカップ(W杯)を3度制する偉業を達成できた。マラドーナは貧しいアルゼンチンにW杯のトロフィーをもたらしたから英雄になった。ウェールズに生まれた天才、ライアン・ギグスの悲劇と比較してみれば、簡単に理解できるだろう。

 スーパースターたちの栄光は常にその時代の、そのチームとともにある。一人の個人を取り出して優劣をつけることなどできないし、そもそも、フットボールとはそういうスポーツではない。

 そこまでの前提を踏まえた上で、もう一度考えてみよう。ネイマールはブラジル国民の期待を裏切ることなく、メッシが持つ「世界ナンバーワン」の称号を奪うことができるのだろうか。

世界の頂点に向けて順調に歩みを進める

 スター性は申し分ない。16歳の若さでサントスとプロ契約を交わし、19歳の時にはエースとしてコパ・リベルタドーレスで活躍、チームを63年大会以来の南米王者へと導いた。迎えたクラブW杯ではバルセロナに0-4と叩きのめされたものの、ピッチで泣き崩れる姿さえも画になった。ブラジルでの人気は高まる一方で、「ネイマール・フィーバー」は一種の社会現象となった。フットボールの才能だけなら疑いなく世界最高のタレントであるチャビやアンドレス・イニエスタが「世界一」の称号を勝ち取れないのは、このスター性の欠如が理由だ。ブラジル人の無規律と快楽主義を体現しているという点でも、ネイマールは恐らくロナウジーニョ以来、最も国民から愛されているプレーヤーだろう。

 メンタリティーもたくましい。2013年のコンフェデレーションズカップまで、「セレソンのネイマール」の能力を疑問視する声は根強くあった。前年のロンドン・オリンピックで金メダルを逃した敗因をネイマールに求める声もあった。だが、最も力を発揮すべきコンフェデレーションズカップで、彼はそれらの声を黙らせる美しいゴールを生み出した。

 本大会での優勝が義務づけられたセレソンにとって、プレ大会としてのコンフェデレーションズカップが持つ意味は大きい。その大舞台で、21歳の若者がチームの復活を印象づける活躍を見せたのだ。世界一シビアな目を持つブラジル人も、最大限の賛辞をもって新エースの誕生を歓迎した。

 そして迎えたバルセロナでの新シーズン。バルサ移籍は一種のギャンブルであり、彼にとって越えなければならない壁だった。メッシという強烈な個の存在が、ネイマールと互いに反発し合うことは十分に考えられた。

 だが、ネイマールは1年目にして期待以上の結果を残している。加入直後こそ順応に苦しんだが、第6節に待望の初ゴール。そこから第17節までに6ゴールを積み上げ、チャンピオンズリーグのセルティック戦ではハットトリックを達成した。ゴールを重ねながら次第に存在感を増していき、ビジャレアル戦で2ゴールを決めた際には、チームメートのイニエスタも「ネイマールは違いを生み出せるプレーヤーだ」と絶賛した。

 セレソンでの存在感も日増しに高まっている。ここまでは43試合で27ゴールという驚異的なペースでゴールを積み上げ、「ネイマールありき」の戦術も確立されつつある。今や適材適所のチーム作りを身上とするルイス・フェリーペ・スコラーリ体制下では不可欠なピースの一つとなった。その歩みは順調そのものだ。

偉業を成し遂げるには「彼の」チームが必要

 だが恐らく、この順調な過程をどこまで延長しても、メッシの壁は越えられない。

 誤解されがちだが、ネイマールは極めて「現代的」なプレーヤーだ。バルサに移籍する際に不安視された「守備をしない」、「組織的にプレーできない」といった指摘は、すべて間違っていた。ネイマールは走り、守備をこなし、ドリブルもパスもでき、ゴールも奪える。サイドでも中央でも問題なくプレーできる。それは現代的に言えば「ユーティリティーなアタッカー」というポジティブな評価を得られるが、その才能がかえって彼のポテンシャルを奪ってしまう可能性は否めない。

 前述のとおり、フットボールの英雄はチームと不可分だ。ペレやクライフ、マラドーナやジダンは、所属したどのチームでも中心であり、王様であり、チームの顔になった。だから、彼らと同じレベルの天才たち、例えばファルカンやロマーリオやカカーはナンバーワンになれなかったのだ。これはフットボールのスキルや才能とはほとんど関係なく、人々がスタープレーヤーに何を求めるか、というテーマに近い。

 いつの時代も、フットボールの主役はチームだった。パリ・サンジェルマン時代のロナウジーニョはすさまじいスキルを披露していたが、当時の彼が世界ナンバーワンだとは本人でさえ思わなかっただろう。ジネディーヌ・ジダンのスーパーボレーは今でもファンの記憶に残っているが、舞台がチャンピオンズリーグ決勝でなかったら、その価値は半減していたはずだ。マラドーナはキャリアで2度、「神の手」を使ってゴールを決めたことがあるが、ナポリ時代にウディネーゼから奪ったほうの「神の手」は誰も覚えていない。

 真のナンバーワンであるためには、ふさわしい舞台とふさわしいチームが必要だ。更に、チームの中心としてすべてを支配し、「彼のチーム」で偉業を成し遂げなくては、その称号は与えられない。それこそが、ペレやマラドーナが「彼の時代」を築くことができた理由と言える。

 では、ネイマールはどうか。現在のバルサは彼のチームではなく、「メッシのチーム」だ。ネイマールはチーム状況を器用に見極めてパサーになったり、崩しの局面を担ったり、フィニッシャーになったりしている。つまり、見事に機能している。だが本来なら、彼にはバルサを「ネイマールのチーム」にできるだけの才能がある。バルサのヘラルド・マルティーノ監督は言う。

「ネイマールはあらゆる資質を備えている。簡単に得点を量産するメッシのようなゴールスコアラーではない」

 答えはもう見えている。まずは半年後に迎えるブラジルW杯で、スコラーリの手堅くまとまったフットボールを塗り替え、「ネイマールのセレソン」として歴史を作れるかどうか。そして、バルサでもユーティリティーなアタッカーを脱皮して、メッシから主役の座を奪えるかどうか。

 世界ナンバーワンの座は、常にチームとともにあり、どこの誰にでも挑戦できるものではない。だが、ネイマールはそれに挑戦できる十分な資格を持っている――もっとも、資格だけでは何も勝ち取ったことにはならないのだが。

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