2013.03.26

宮城の街クラブから世界に羽ばたくまで マンU・香川真司の少年時代

サムライサッカーキング4月号]

類まれなテクニックと、ゴールに向かう滑らかでキレ味鋭いドリブル。香川真司はいかにして自身のプレースタイルを身に着けたのか。純粋にサッカーを愛し、純粋に上手くなりたいと渇望した少年時代。街クラブでプレーしながら、卒業を待たずにJクラブとプロ契約を交わし、4年半のセレッソ大阪時代に何を得て、ドイツへ渡ったのか。その原点を探る。

main_091108_IMG_5927_nishid文=安藤隆人/写真=西田泰輔

 マンチェスター・ユナイテッドの香川真司。彼がここまで歩んできた道のりは、まさにシンデレラストーリーであるかのように報じられることが多い。セレッソ大阪の8番として、J2で活躍し、J1からドルトムント、そしてユナイテッド。駆け足で登ってきた感があるが、彼は少年時代から高いポテンシャルを持ち、それを評価され、徐々にステップアップしていった努力の天才だった。

 それを物語るのが、彼のこれまで重ねてきた記録の中で、未だに破られていない唯一の記録──日本でただ一人、Jクラブ直属の育成組織に所属していない選手が、高校卒業を待たずしてプロ入りしたという事実だ。香川は宮城県にある街クラブ、FCみやぎバルセロナユースに所属していたが、高校2年生でC大阪とプロ契約を交わし、3年生の1年間はC大阪の選手として、宮城県内の高校から通信制高校に転校している。

 稲本潤一や宇佐美貴史(ともにガンバ大阪ユース出身)、宮吉拓実(京都サンガF.C.U-18出身)のようにJクラブの直属の育成組織に所属し、高校卒業までにトップ昇格を果たした選手は数多くいる。しかし、高校のサッカー部や街クラブと呼ばれるクラブチームを途中でやめてプロ契約するケースは、今のところ他にはない。

 では、なぜ香川真司はその道を歩めたのか。なぜ高校卒業を待たずしてJクラブ入りを促されるような選手になったのか。そこには彼の、サッカー一色で彩られた日々があった。

ドリブル好きな少年のサクセスストーリー

 香川少年はドリブルが大好きだった。とにかくボールに多く触れていたい。その思いが、そのままサッカーに対する情熱に変わっていた。

「とにかくボールに触れていたい少年でした。ひょろっとしているけど、止めて蹴る基本や、ボールの持ち方、スキル、ファーストタッチが見事で、何より遊びの中で楽しそうにサッカーをやっている姿が印象的なサッカー小僧でしたね」

 こう語るのは、FCみやぎバルセロナの代表を務めていた日下昇氏。日下が香川を初めて見たのは、彼が小学5年生の時。香川が当時所属していた神戸NKクラブと、FCみやぎバルセロナのコーチ同士のつながりで、遠く宮城まで練習参加に来ていた時だった。

 当時の香川は暇さえあればボールに触れていた。そして、ドリブルを心の底から楽しんでいた。何回か練習参加するうち、ドリブルを制限しないFCみやぎバルセロナのスタイルに魅了された彼は、中学進学と同時に親元を離れる決意をした。

 宮城で始まった中学生活。ドリブルが好きだった少年は、更にその魅力の虜になっていく。ボールを受ける前、受けてから── すべてが自分の持ち味を発揮できる環境。2時間の全体練習の後も、決してボールを離さなかった。イメージを研ぎ澄まし、自分の中で試合のシチュエーションを数多く設定し、それを打開していく。ある時はGKに大きなロングボールを蹴ってもらい、それを受けてからドリブルを開始してシュートまで持っていくトレーニングや、ドリブルからパス、リターンを受けてシュートと、自ら工夫した自主トレーニングを行っていた。 

 これらのメニューの中で一番重要なのは、すべてフィニッシュで終えていること。ドリブルが得意な選手の中には、ドリブルそのものにこだわり過ぎて、肝心のフィニッシュを見落としている選手がいる。ドリブルは何のためにするのか。ゴールに向かわないドリブルや、ただボールを持っているだけでは、相手にとって脅威にはならない。香川は本能のままに、ゴールを奪うための手段としてドリブルを捉え、それを磨くことを忘れなかった。

「背が小さいけど、すばしっこい、シュートが上手いというストロングポイントを伸ばすことを意識して指導していました。意識が高い選手なので、彼の高い意識に周りが感化されている状態でしたし、周りもすごく高い意識だったので、真司もやりやすかったと思います」(日下) 

 高い意識を持ってイキイキとサッカーに打ち込める環境。ユース時代は寮に戻っても、ボールから離れることはなく、廊下を裸足でドリブルするなど、根っからのサッカー少年だった。宮城で才能を磨き続けた香川が頭角を現すのに、そう時間は掛からなかった。チームの中でも類まれなドリブルセンスは、欠かせない大きな武器となり、それがやがて全国の舞台で輝きを放ち始める。 

 筆者にとって忘れられない大会がある。それは2004年の日本クラブユースサッカー選手権(U─ 18)大会。この大会でFCみやぎバルセロナは、有力チームの一つと目されていた。ただし、それは香川がいるからではなかった。3年生のGK丹野研太(現大分トリニータ)と2年生MF東浩史(現愛媛FC)の2人の注目選手がおり、他のメンバーの質も高く、決して《香川のチーム》ではなかった。 

 しかし、この大会で輝いたのは、当時1年生の香川だった。チームがボールを奪うと、スッとボールを受けに顔を出し、そこから仕掛けるドリブルは非常に滑らかで、それでいて凄まじいキレ味だった。グループリーグを無敗で勝ち上がったFCみやぎバルセロナは、準々決勝で鹿島アントラーズユースと対戦。残念ながらこの試合は0─1で敗れたが、香川のプレーは高次元だった。

 横パスを動きながらワントラップし、軽やかな身のこなしから一気にスピードアップ。突破から、質の高いラストパスやシュートを放つ。たとえ密集地帯であっても、フィジカルコンタクトをかいくぐりながら、スルスルっとドリブルを仕掛ける上半身は全くブレることなく、真っすぐゴールに向けられていた。終盤になっても質を落とさない香川は、一人だけ確かに異空間の中にいた。 

 そして翌年の05年。2年生になった香川はドリブルの精度に加え、《得点力》を身に着けていた。プリンスリーグU─ 18東北を取材するたびに、ゴールを量産する彼の姿に驚いた。以前よりも、ドリブルがゴールに直結する。シュートの選択ができない場合でも、アシストという形で結果を残す姿には、《躍動》という言葉がぴったりだった。「ゴールの意識は増しましたね。自分が決めなきゃいけないという意識が強くなりました。チームの攻撃も上手くいっているし、自分も点が取れているので、楽しめています」(香川) 

 エースとしての自覚は、チームを勝たせるために自分が点を取るという意識を向上させ、ポイントゲッターという新たな顔を生み出した。そして、更なる成長を遂げた香川が、一気に日の目を浴びる瞬間が訪れた。同年9月の仙台カップ国際ユースサッカー大会。仙台市に年代別日本代表、海外の年代別代表を招いて行われていたこの大会には(※ 11年3月11日に発生した東日本大震災の影響により10年の第8回大会を最後に開催されていない)、ホストとして地元・東北地方の高校生選抜(東北選抜)が参加していた。この時はU─18日本代表、U─19クロアチア代表、U─18ブラジル代表と、香川が選ばれたU─18東北選抜の4チームによる総当たりだった。

 ブラジル、クロアチアといったフィジカルとテクニックに秀でた相手に対し、滑らかでキレのある香川のドリブルは通用した。世界の強国のDF陣の手を焼き、ブラジルのスタッフをして「彼を連れて帰りたい」と言わしめるほどだった。

 そして最終戦となったU─18日本代表との一戦で、多くの代表関係者が見守る中、香川は眩いばかりの光を放つ。内田篤人、吉田麻也、槙野智章、安田理大というタレントが並ぶDFラインに対し、ボランチから積極果敢にドリブルを仕掛けた。前半だけで2アシストを記録すると、4─ 2で迎えた終盤にもアシストを記録。ゴールこそなかったが、ドリブルと精度の高いパスで何度もU─ 18日本代表守備陣をズダズダに切り裂き、3アシストという結果を残した。

「この試合が楽しみで楽しみで、早く試合をしたくて仕方がありませんでした。ここで活躍すれば、僕にも代表に入れるチャンスがあると思っていましたから」(香川) 

 十分過ぎる活躍だった。いち地域の選抜チームが、同年代の日本代表チームに5─2と圧勝する衝撃。その主役となり大会MIPに輝いた香川が、年代別のブルーのユニフォームを手にしたのは、そのわずか4カ月後のことだった。 

 香川のこうしたブレークに慌てた一人の人物がいた。当時、C大阪のスカウトを担当していた小菊昭雄氏は、「センスを感じた。教えられない持ち方、ボールの受け方、さばき方、ヘッドアップする姿勢。小さくて華奢な子ですが、ボールを取られない。何よりサッカーが好きな子だった」と、高校1年生の頃から彼を追い掛けていた。 

 当時、無名だった香川を、小菊はまだ《温めて》いた状態だったが、「彼を欲しいと思った時、もし1年待ったら全チームがオファーして来るだろうと思った。徐々に全国に知れ渡ってきてやばいなと思うようになりましたし。今なら獲得できる確率は高いということで、思い切ってオファーを出したんです」(小菊)と、悠長に高校卒業を待つのではなく、早くこのきらめく才能を獲得しようと、すぐに正式オファーを出した。 

 高校2年生の香川に届いた、C大阪からのオファー。「最初はびっくりしたけど、早く上のレベルで経験を積むことが重要だと思ったし、チャレンジしたいと思った」と言う彼がこのオファーを受け、史上初めて直属の育成組織以外から高校生Jリーガーが誕生した。

プロ1年目の大きな壁 自信を取り戻し世界へ

 だが、C大阪でのプロ1年目。香川は自信を失っていた。周りはほとんどが目上の選手で、小柄で華奢な彼は、パス回しや紅白戦でもどこか周りに気を遣ったプレーをしていた。自分を出し切れないことに、純粋なサッカー小僧は大きな壁を感じていた。 

 だが、それは決して自分のプレーが通用しないという壁ではなかった。「今は一番下だと思うけど、何年か先にはレギュラーを取って、もっと上のステージに行く意思は常に持っている」と語ったとおり、目標と野望を持ちながらも、現状の自分自身を理解しようとする姿があった。

「技術は通用していた。でも17、18歳の少年がベテランや代表クラスとやったら、上手くても簡単に潰される。自分で繰り返し挑んで、感覚で感じて、じゃあどうしたらいいのかを考える。常にトレーニングで考えて、工夫して、対等に渡り合えるものなんです」と小菊が語ったように、1年目は自信が芽生えることを待ちつつ、感覚でプロを感じ取る、勉強の1年であった。 

 翌07年、チームはJ2に降格するが、香川はこの時やってきたレヴィー・クルピ監督に才能を見い出され、プロ2年目で早くもレギュラーポジションを獲得した。相変わらずミスが少ないプレーで、チームの攻撃のアクセントになると、3年目の08年は懸念されていたフィジカルも徐々にプロにフィットするようになり、更にパフォーマンスの質も向上した。ただし、一つだけ不満を挙げるとすれば、それはゴールの少なさだった。 

 07年はJ2リーグで35試合に出場して5ゴール、08年は35試合に出場して16ゴールを挙げたが、ポジションやチャンスに絡む回数から見ても、物足りなさを感じた。自信が足りないことが、その原因だった。もちろん2年目からはレギュラーの座をつかみ、07年にはU─ 20日本代表としてカナダでのU─20ワールドカップに出場、08年にはU─ 23日本代表として最年少で北京オリンピックに出場し、フル代表にも選ばれるなど大きく飛躍した。1年目のように自信がなかったわけではなかったが、いずれも主軸ではなかったし、チームを牽引するような存在ではなかった。 

 足りない自信を付けるには、高校2年生の時のようなエースとしての自覚が必要だった。だが、それは思わぬ形でやってくる。 

 08年のシーズン終了直後、同シーズン限りでの現役引退が決まっていた《ミスター・セレッソ》こと、森島寛晃氏から、チームの象徴的背番号である『8』入りのユニフォームが香川の手に渡された。 

 エースナンバーを託された香川は、「果たして自分にこの背番号が背負えるのか」と大いに困惑した。だが自分自身と向き合って、じっくりと考えた結果、噂されていた海外移籍の話をシャットアウトして、C大阪でチームの昇格請負人になることを決意する。

「絶対にチームをJ1に昇格させないといけない。自分がやらないといけないし、チームを引っ張っていかないといけない。覚悟が決まりました」。これが、彼を再び《ゴールゲッター》へと変貌させた。「クルピからは守備よりも攻撃を任されているし、ゴールに近いポジションにいる以上、自分が取らないと話にならない」(香川) 

 この言葉どおり、09シーズンはゴール量産態勢に入った。一直線のドリブルから放つゴール、裏に抜け出して決めるゴール、そして積極的なミドルシュート。ベストパートナーとなった乾貴士(現フランクフルト)と『《共演》し、かつ競い合うかのように、バリエーション豊富なゴールを重ねていった。44試合で27ゴール、12アシストを記録し、チームのJ1昇格、J2リーグMVPに輝いた。

「常に上のレベルを意識して試合をしていたから、満足のいく試合なんてほぼなかった。J2のレベルでこんなに運動量が少なくて、果たして上のレベルで戦えるのだろうかと思いながらも、その環境に甘えている自分もいて……。点を取っていたから、『点を取ったからいいだろう』という気持ちもあったのも事実で、でもそれではもっと上を見た時に、もっともっと自分を追い込んでいかないとダメだなと毎試合思っていた」(香川) 

 周りの誰もがブレークしたと思った09年。だが、香川は満足するどころか、強烈な枯渇感を抱いていた。「C大阪加入当初は、自分を(周りに)合わせていくところがあったけど、結果が出るようになって、チームを引っ張れば引っ張っていくほど、『自分が』という意識は強くなった」。その言葉の裏にあるのは、足りなかった自信を取り戻す過程で芽生えた自覚と向上心であった。 

 10年、J1で約半年間プレーした後、香川はドイツへと渡った。その後のサクセスストーリーは、冒頭でも書いたように、一見駆け足には見えるが、その節目に必要な経験と刺激を受けてきた過程の延長線上に過ぎない。決して《急ぎ足》ではないのだ。 

 ブレークした、その時々の香川に共通するもの。それは《変わらぬサッカーへの思い》と《ゴールに向かう姿勢》にある。神戸時代からドリブル主体のサッカーに魅了され、FCみやぎバルセロナジュニアユースにサッカー留学し、ここで丹念にドリブルを磨く。ユースの2年時にはエースの自覚が芽生え、ゴールゲッターと化した。そして、C大阪では背番号が『26』から『8』に変わったことで、責任感が芽生え、それが《周りを生かす》から《自ら決める》自我を目覚めさせた。 

 根っからのサッカー小僧が、節目節目に必要な刺激を受け、着実に成長していった物語。今、ユナイテッドでプレーする姿を見ると、新たな刺激を得る予兆だと感じる。それはなぜか──。彼は今、プレミアリーグ、世界規模のビッグクラブという大きなステージに順応している段階で、それはまだ自らを思い切り開放している段階ではないのだ。絢爛豪華なチームメート、そして世界最高峰の相手と対峙する中で、自信の存在価値を高めている最中で、自身の持ち味の出し所を伺っている段階とも言える。 
 
 プレミア挑戦1年目の今シーズンを経て、来シーズン以降、香川がまたブレークする日が待っているような気がしてならない。