2013.02.26

名波 浩「日本のサッカーは急速にレベルアップしている」

Jリーグサッカーキング4月号 掲載]
1990年代後半から2000年代初頭にかけて黄金時代を築いたジュビロ磐田。この常勝軍団の司令塔に君臨し、左足からの正確なパスで強力なアタッカー陣を操り、ピッチ全体を見渡していた彼の鋭い眼は、Jリーグ全体の現在、そして未来をどう見ているのか。
名波浩
インタビュー・文=青山知雄(Jリーグサッカーキング編集長) 写真=新井賢一

名波さんのプロ入り当時、Jリーグで世界の名プレーヤーが数多くプレーしていました。彼らと一緒にプレーし、対戦相手とする中でどんな部分が成長できたのでしょうか。

名波 ドゥンガやスキラッチ、ファネンブルグなど、チームメートからはアドバイスをもらいました。正直、理不尽なことも言われましたが、「ワールドカップ得点王」や「ユーロ王者」など様々な肩書を持っていたので、「言うことを聞くしかない」というシチュエーションはたくさんありました(笑)。

彼らからの要求で印象的なものは?

名波 スキラッチは走り込んだ先でピンポイントに「ここに出せ」と要求してきました。他のストライカーからは「この辺に出してほしい」って言われることがほとんどですが、スキラッチは違った。すごく細かくて、自分の感覚やキック精度も研ぎ澄まされました。

他のクラブでも似たようなことはあったんでしょうか?

名波 詳しくは聞いていませんが、あったと思いますよ。ピクシー(ストイコビッチ)やリトバルスキー、ギド(ブッフバルト)、ジーニョ、サンパイオ……。頂点を極めた彼らの一挙手一投足は日本人選手に響いたと思います。対戦すれば彼らが中心であることは伝わってくるし、敵、味方関係なく、その選手をリスペクトしている感覚がありました。

その中で名波さんが大きく影響を受けた外国籍選手は誰だったのでしょうか。

名波 やっぱりドゥンガの存在は大きかったけれど、対戦相手だとジョルジーニョかな。ブラジル代表ではサイドバックのイメージが強いけど、鹿島アントラーズではずっとボランチだったから、自分とマッチアップする機会が多くて。鹿島対磐田というライバル関係の中で、局面局面で“名波対ジョルジーニョ”というイメージを持ってプレーしていたんですけど、対面に立たれると、すべてを見透かされているような感覚があって、思うようにチャレンジできなかった。そうならないように工夫したおかげでプレーのイマジネーションが膨らんだし、素早い判断力が身についたと思いますね。

ジョルジーニョとマッチアップするにあたって、ブラジル代表でチームメートだったドゥンガからのアドバイスは?

名波 「右足で持たせるな」と言っていました。「フェイクを入れても、必ず右足に持ち直すから」と。確かにジョルジーニョには右足でキックフェイントを入れて左足でクロスを上げるイメージが全くないと思い、ドゥンガの言葉どおりに遂行した記憶があります。

そのドゥンガについて、印象に残っているエピソードはありますか?

名波 彼が磐田に“黄金時代”の礎を作ったと思いますね。1995年に加入した当初は“闘将”と言われていた割に静かなイメージがあって、「ジェントルマンだな」と思っていました。最初は「何を言われるんだろう」と思っていたんですけどね。でも、翌年の開幕前くらいから一気にヒートアップしました(笑)。たぶんオフト監督が「フィールドの監督になってくれ」と言ったんだと思います。96シーズンにドゥンガから言われたことを整理すると、すべて“チームが勝つためにするべきこと”につながっていました。

当時のチームは瞬く間にドゥンガの教えを吸収していきました。

名波 たまたま能力の高い若い選手が試合に出始めた時期だったので、“跳ね返り”が良く、すぐに優勝(97シーズンセカンドステージ)という結果を得ることができました。その中でドゥンガの貢献度は非常に高かったと思います。チームに“勝者のメンタリティー”を植えつけてくれましたから。「2─0だろうが5─0だろうが、やるべきことは同じ。たとえ0─5で負けていても、1点、2点を取りに行くことが明日につながる」と常に言っていました。ドゥンガがジュビロを離れた後は、リーダーシップの取れる選手が下の世代に彼の言葉を伝えていき、ジュビロの伝統になっていると感じます。

ドゥンガの教えがチームに伝わっているという実感はありますか?

名波 十分に伝わっていますよ。それは今の前田(遼一)が象徴しています。プロ入り当初、ドリブルで抜いていくことに快感を覚えていた彼が、これだけシンプルにプレーするようになり、ゴールを量産できるようになったのは、その教えを肌身で感じた部分が大きいはず。もちろん、それをまた彼が後輩に伝える必要がありますよね。