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2015.10.30

倒産寸前の日産を救った大改革…現横浜F・マリノス社長が日産時代を振り返る/連載第1回

(株)TSUBASA代表取締役/編集者/インタビュアー/スポーツコンサルタント&ジャーナリスト/サッカー解説者/(株)フロムワンにて『サッカーキング』『ワールドサッカーキング』など、各媒体の編集長を歴任。国内外のサッカー選手への豊富なインタビュー経験を持つ。

日産時代にカルロス・ゴーン氏が指揮した「日産リバイバルプラン」策定の中核「クロスファンクショナルチーム(以下、CFT)」のパイロット(実質的なリーダー)を担い、現在は横浜F・マリノスの社長を務める嘉悦朗氏。多くの苦難を乗り越えた同氏がどのような経緯からクラブ経営に身を転じたのか、また、日産時代に培った経験をどのように生かしたのか。さらに現在のスポーツ業界で求められているのはどういった人材なのか――。ビジネスマンによるクラブ経営の“先駆け的な存在”と言える同氏が、余すところなく語った。

写真=鷹羽康博 インタビュー=岩本義弘

――早速ですが、横浜F・マリノスの社長就任に至った経緯を教えてください。

嘉悦朗 就任したのは、2009年7月。日産のグローバル本社建設・移転プロジェクトの責任者をしている時、日産のトップに呼ばれて「横浜F・マリノスの経営をやってくれないか」と打診されました。前任者が体調を崩し、数カ月間、経営に空白が生じていたので、すぐに決めなければならない状況でしたが「受けるかどうか、一晩考えて」と猶予も与えられました。何故なら、当時、チームはリーグ戦で13位に低迷し、経営的にも大変な状況というのは誰の目にも明らかだったからです。しかし私は「引き受けます」と即答しました。

――当時、なぜ嘉悦さんに声が掛かったのでしょうか。

嘉悦朗 2000年の初めの頃だったと思いますが、3代前の社長が急逝し、その後任を探しているタイミングで立候補したのが伏線です。当時、関係会社を担当していた役員が、以前在籍していた人事部門の先輩だったので、お願いしてみたんです。ただ、ゴーンさん(現 日産自動車社長)は「嘉悦にはやるべきことがある」と一蹴したそうですが、同時に「将来、そういう機会があれば考える」とも言ったと聞いています。また、それ以来、私のサッカー好きは社内でも有名になり、役員就任後は「日産の役員で一番のサッカー通」という定評も出来ました。ですから、2009年に再びF・マリノスの社長人事がクローズアップされた時は「嘉悦しかいないだろう」と即決されたそうです。

――もともとサッカーが好きだったというお話ですが、ご自身も選手としてプレーしていたのでしょうか?

嘉悦朗 サッカー部に在籍していたのは、中学2年の夏休みから3年の夏休みまでの1年間だけです。中学2年の夏休みに転校したことがきっかけでしたが、それまでは陸上競技や卓球をやっていました。短距離は速かったですよ。負けたことは一回もありません。

――その後のサッカーとの関わりについて教えてください。

嘉悦朗 Jリーグが開幕した頃、平塚市に住んでいたのですが、自宅のすぐ近くにベルマーレの前身であるフジタサッカースクールがありました。近くの小学校の子どもたちのほとんどがそのスクールに通うから自分も行きたいと長男が言うので、本当に軽い気持ちで入校させたんです。ところが、あれよあれよという間に選抜チームに入り、ジュニアユース、ユースへと駆け上がっていったんですよ。

――それは親としてもテンションが上がりますよね。

嘉悦朗 そうです。本音を言えば日産社員ですから「サッカーをやるならマリノス」という気持ちもあったのですが、遠くて通うのも大変だし、レベルも高そうだし、と割り切りました。また、こうして息子がサッカー少年として成長した時期は、日本代表が強くなり始め、Jリーグも大ブームになった時期とも重なっていました。ですからマリノスファンとしてチケットを買って、家族で三ツ沢に応援にも行きましたし、次第にサッカーにのめり込んでいきました。

――当時、日産の社内におけるマリノスの存在は、どういったものでしたか。

嘉悦朗 最初は日産サッカー部のイメージが強かったです。アマチュア時代に天皇杯やリーグ戦を制覇し、そのクラブがプロ化したというイメージです。木村和司さんがプロ第一号になった時も、彼は私と同じ人事部門にいたので、直接会話したことはありませんでしたが、とても身近な存在に感じていました。ただ時間が経ち、マリノスが日産以外の多くのファンを獲得して行くにつれて、当然のことですが距離を感じるようになりました。同僚だった仲間たちが、プロ選手として外部の人、憧れの存在になる。良い意味での距離を感じるようになりました。

嘉悦朗

――日産時代の話を詳しく聞かせてください。嘉悦さんが入社された頃の日産はどういう会社だったのでしょうか?

嘉悦朗 私が日産に入ったのは1979年。当時の日産は、就職活動をしていた私から見れば、首位のトヨタを追撃する、とてもチャレンジングで魅力的な企業に映りました。しかし、実際に入ってみると、イメージとは違うことが起きていました。トヨタ追撃の勢いは年々薄れ、それどころか、大きく開いていたはずの3位ホンダとの距離がどんどん縮まっていました。要は日産の一人負けがずっと続いていた訳です。私が入社した79年以降、毎年のように販売台数は減り続け、80年代の後半には実質的な経営危機が訪れていたと思います。ただ、その直後にバブル経済という神風が吹き、販売台数は一気に100万台以上増えました。これで一息ついたと思ったのですが、そのバブルが弾けた90年代は、いよいよ末期的な状況に陥りました。

――具体的にはどんな状況だったのでしょうか。

嘉悦朗 バブル崩壊後、証券や銀行など金融業を中心とした大型倒産が相次ぎました。そしていよいよ次はメーカーか、という段階になり、日産はその筆頭だと言われていました。それくらい切羽詰まった状況でした。いずれにしても単独での生き残りは困難でしたので、提携先を見つけることが唯一の方策でした。そして、ルノーとの提携が成立し、カルロス・ゴーンが来ることになったんです。

――「日産リバイバルプラン」の際、嘉悦さんは具体的にどういった役割を担っていたのですか?

嘉悦朗 全部で9つあった日産再生プロジェクトチーム=「CFT」の一つで、日産グループ全体の組織と意思決定プロセスを改革するチームのパイロット(実質的なリーダー)でした。「CFT」とはいわゆる「部署横断チーム」。これは過去の日産が抱えていた組織風土上の問題、「縦割組織の弊害」に風穴を開ける仕組みですが、そのCFTのパイロットの一人という役割でした。

――もう少し具体的に教えて頂けますか?

嘉悦朗 縦割組織の弊害とは、ある課題を担当する部署が、関連する他の部署の意見を全く聞き入れずに解決しようとすると、かなりの確率で部分最適、個別最適に陥り易いという欠点のことです。一方、CFT=「部署横断チーム」というのは関連する部署のメンバーが集まって、みんなで課題を解決しようというチームのことです。「岡目八目」ということわざがありますが、正にこの表現がぴったりのチームです。岡目八目とは、碁や将棋を打っている当事者よりも周りで対局を見ている人の方が八手先まで読める、つまり第三者の方が客観的にいろいろなことが考えられ、判断できるという意味ですが、部門横断的に協議、共有することで、全体最適化を実現できる確率が高くなりますし、それが真に有効な改革になるという発想です。これは体験した立場から自信を持って断言しますが、とても効果的なチームですよ。

――嘉悦さんがその担当に選ばれたのはどういった経緯でしょうか?

嘉悦朗 もちろん推測ですが、ゴーンさんは着任して最初に各部門のヒアリングをしました。どういう仕事をどういう方針でやっているのか、成果や課題は何かといった内容について人事部門を代表して私を含む何人かで説明する場があったのですが、これがどうやら人選に当たっての重要な判断材料になったようです。もちろん、最後は経営会議で議論、決定したと聞いていますが、

――CFTによる取り組みはどのように進められていきましたか?

嘉悦朗 いろいろな悩みがありましたが、最大の障壁は英語でした。9人のパイロットの中で、私ともう一人を除く7名はいずれも海外赴任経験がありましたので合同の会議は全て英語で進行します。これは最大の苦痛でした(笑)。また、CFTに関する予備知識も十分に無い中で、メンバーを選んで2ヶ月半で日産の再生に貢献する革新的な提案を作れ、と言われたのですから、これは物凄いプレッシャーでした。チーム発足直後の2週間ぐらいは本当にダッチロール状態でした。とても2カ月後に求められるような改革案ができるとは到底考えられない、とにかくひどい状態でした。それがゴーンさんとのミーティングをきっかけに、激的に変わっていったのです。9人のパイロットとゴーンさんの初めてのミーティングは3時間近くにも及ぶものでした。その中でゴーンさんは、かなり具体的な事例を示しながら、革新的な提案を作るためのヒントを与えてくれました。そしてミーティングの最後にこう締めくくりました。「君たちの真の実力を見せてくれ。」これはまるで映画のラストシーンのように我々の心を揺さぶりました。この話をチームに持ち帰りメンバーに伝えると、彼らのメンタリティ、モチベーションも劇的に変わりました。チームの活動はこの日を境にどんどん加速していきました。

連載第2回「企業のサラリーマンからクラブの経営者へ…社長として講じた具体施策とは?」は11月2日公開予定です。


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