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“死の組”で白星スタート。“多文化の力”を得たドイツが欧州王者に向けて動き出した

2012.06.11

 トルコ人がパスを出し、ポーランド人やスペイン人がゴールへと迫る。攻撃サッカーで近年目覚ましい進化を遂げいてるドイツ代表の原動力となっているのは、移民系の選手だ。今大会の“死の組”と呼ばれるグループB。強豪ポルトガルとの第1戦で貴重な決勝点をマークしたのは、スペイン人の父を持つマリオ・ゴメスだ。“多文化の力”を手にした強豪国が、ユーロ2012制覇に向けて動き出した。

Text by Ulrich HESSE

■「力強い重戦車」から「流麗なスタイル」へ

 2003年9月6日、レイキャビクで行われたアイスランド戦で当時のドイツ代表監督だったルディ・フェラーが正気を失う様子は、約840万人のドイツ人に目撃された。内容の伴わないスコアレスドローで試合を終え、フェラーはテレビインタビューに応じるため、レポーターとともに座って待っていた。その間、解説者のギュンター・ネッツァーとそのアシスタントが試合を分析していた。ネッツァーは1972年にユーロを制した西ドイツ代表を象徴する男だ。当時の代表チームは“ドイツ史上最高”とみなされており、そ
の中心だったネッツァーは頭脳明晰な人物として知られている。そんな彼のアイスランド戦への評価は、情け容赦のないものだった。

 ドイツ代表がどれほど最低の内容だったかというネッツァーの話を聞けば聞くほど、フェラーは苛立ちを募らせていった。ようやくテレビの映像が切り替わり、90分間の内容について質問を受けた時、フェラーは激怒していた。ネッツァーの試合分析について言及したフェラーは「馬鹿げた話にはうんざりだ」と怒鳴った。「私はそういった話をこれ以上聞きたくない。最低の話だ。ゴミみたいなものだ! ネッツァーの退屈なプレーを思い出してほしい。彼がいたチームは本当につまらないサッカーだった!」

 フェラーの怒りはしばらく続いた。インタビュアーは「ずいぶんリラックスしていますね。ビールを3本ほど飲んだからでしょうか」と、フェラーの態度を酔いのせいにしようとしたが、フェラーの勢いは止まらない。「前任者の(エーリッヒ)リベックや(ベルティ)フォクツは批判に対して我慢していたようだが、私は受け入れるつもりはない。私が唯一、否定するのはビールのくだりだけだ」とまくし立てたのである。

 まさに最悪の事態だった。フェラーの率直さを称賛するファンも中にはいたが、周囲からのプレッシャーに耐えかねて自暴自棄になるその姿は、見るからに無様だった。ドイツ代表が崩壊に向かっていることは誰の目にも明らかだった。当然ながらポルトガルで行われるユーロ2004では、老いて平凡なチームが成功する可能性はないと考えられていた。自国開催となる06年のワールドカップに至っては、もはや絶望的な意見しか聞かれなかった。

 多くの人が、新たな血を入れてチームを再建するべきだと考えていた。しかしフェラーは、ユーロの直前、しぶしぶ2人の若手選手をUー21代表から招集しただけだった。そして、その大会は多くの人が予想した通り失敗に終わり、フェラーは退任。その後、あらゆる有名監督が、大混乱に陥っているチームを引き継ぐことを拒んだ。母国で行われるW杯の2年前に、代表チームは抜本的な改革が必要な状態に陥っていた。だが、ネッツァーは隠れた才能が現れるかもしれないという望みを否定し、「革命はない。今のメンバーの大半が06年も代表でプレーしているだろう」と予言した。

 ところで、U│21代表から呼ばれた2選手とは誰だったのか。ルーカス・ポドルスキとバスティアン・シュヴァインシュタイガーだ。

 フェラーの後任を引き受けたのはユルゲン・クリンスマンだった。そう、“新生ドイツ”への革命は8年前に始まったのだ。

 現在、ドイツのサッカーは、以前とはかなり異なる状況になっている。その違いを、ドイツ最大のサッカー月刊誌『11フレンデ』は「力強い重戦車のようなチームが、多種多様なサッカー文化を織り交ぜた流麗なスタイルに生まれ変わった」と表現した。南アフリカW杯の期間中、フランスの日曜紙『ル・ジュルナル・デュ・ディマンシュ』は「ドイツは技術と流動性を備える若手のおかげで、素早く攻撃的なサッカーを展開している。彼らは南米のチームを思い起こさせる」と評価した。また、スペインの日刊紙『マルカ』は「コンビネーション溢れるプレー。スピードと創造性がある」と称えた。“キング”ペレからも「ドイツの攻撃的なプレーは見ていてとても楽しい」と賛辞を贈られた。このような称賛が各方面から現れた時、つまり世界がドイツサッカー界の革命を目の当たりにした時、「革命はない」と断言したネッツァーの評論家としてのキャリアは終わりを迎えた。

■ユーロでの惨敗を受け新プロジェクトが発足

「私がドイツの試合をテレビで分析し始めたのは、98年のことだった」。ネッツァーは語っている。「当時、ドイツは迷走していて、才能を生み出すことに失敗していた。もちろん、私だって現在のような素晴らしい内容の試合を見たかった。今のドイツ代表に対しては称賛したいし、拍手を送りたい。ただ、当時の代表チームには多くの問題があった」

 では、「重戦車」はどのように「流麗なスタイル」へと変貌を遂げたのだろうか。要因はいくつかあるが、その中の一つに、ドイツなりのやり方で、しっかりと計画が立てられていたことが挙げられる。

 オランダ、ベルギー共催で行われたユーロ2000でグループリーグ敗退という散々な結果に終わった頃から、ドイツは変革を計画していた。この大会でのドイツは参加チーム中最も平均年齢が高く、一部では「最悪のチーム」と揶揄されていた。そして02年7月、すべての育成システムを徹底的に整備する「才能促進プログラム」が立ち上げられた。

 ドイツサッカー協会(以下DFB)は「世界最高の育成プログラム」の構築を宣言。最初の年だけで、2万2000人の10代の選手が、十分な知識とノウハウを持った1200人の指導者によって、ドイツ中に存在する390のトレーニング施設で特別な指導を受けた。およそ30人のエキスパートがフルタイムでこのプロジェクトに従事していた。また、DFBはすべてのプロクラブに自前の下部組織を持つことを厳命。このプログラムによって、DFBとドイツのビッグクラブは1年につき6650万ポンド(約83億5000万円)のコストを若手の育成に投じることになった。

 このプログラムはすぐに実を結んだわけではなかった。それでも、南アフリカで世界が“新生ドイツ”を目撃するずっと前に、いくつかの成功を生み出していた。ドイツのユース代表は、これまでA代表の実績に比べると満足できる成果を得られずにいた。若手の登竜門と言われるU│21欧州選手権では本選に出場することすらできなかったほどだ。ところが、「才能促進プログラム」立ち上げから6年後、ドイツは突然、ヨーロッパにおけるユースレベルの主要大会を独占することになった。08年にはU│19欧州選手権を制し、09年5月にはU│17欧州選手権でも優勝、その2カ月後にはU│21代表がイングランドを4│0で下し、初めてヨーロッパ王者になったのだ。

 この時のU│21欧州選手権決勝でマン・オブ・ザ・マッチに輝いたのは、繊細だがエレガントなプレーを披露し、1得点2アシストを記録したメズート・エジルだった。トルコ人の両親の間に生まれたエジルは、このチームに数多く存在する“多種多様なバックグラウンドを持つ選手”の一人だ。「才能促進プログラム」がスタートした02年を振り返ると、Uー21代表チームの中で、他国でもプレーできる可能性を持つ選手は4人だけだった。しかし09年になると、決勝のイングランド戦に出場した選手のうち8人が、ドイツ以外のバックグラウンドを持っていた。

 彼らの様々な民族的背景は、スタイリッシュなサッカーが注目を集めるにつれて目立つようになっていった。南アフリカW杯の期間中、ブラジルの日刊紙『ランス』は「ポーランド、トルコ、チュニジア、スペインが関係する新たなドイツ」と驚きを見せた。

 しかし、この変化に疑いのまなざしを向ける人もいる。12月、当時のイングランド代表監督だったファビオ・カペッロは、次のように不満を示した。「選手たちは新たなパスポートを生み出している。ドイツにはトルコに起源がありながらドイツを選んだ選手が5人もいた。ドイツはトルコから選手を盗んだのだ」と非難した。しかし実際、メンバー内にトルコにルーツを持つ選手は5人ではなく2人だけで、ドイツのサッカー革命に対する知識が欠けていることを明らかにしただけだった。

 ただ、カペッロがこういった選手を「盗んだ」と考えたのも、当然のことかもしれない。以前のドイツ代表には移民系の選手を積極的に受け入れることがなかったため、彼や他の多くの人が、他国のバックグラウンドを持つ選手たちが代表でプレーしていることを不思議に思うのも当然だろう。

■多文化のチームが日常的な光景に

 フェラーがアイスランドで“噴火”した翌日、私は自分の地元クラブの小さなグラウンドで、コーチを務めるUー14チームのメンバーを待っていた。私のチームには14人の選手がおり、その中で他国のバックグラウンドを持たない子は半分だけだった。ドイツ人よりもうまくドイツ語を操るトルコ人を両親に持つ子もいたし、ポーランドで生まれた小さなMFもいた。彼は自分でドイツ人らしい名前を考え、周囲の人間にその名前で呼ばせていた。両親がアルバニアから移住した元気の良い子やベラルーシ生まれの子も2人いた。黒人の選手も1人いた。ガーナから来たウィニーだ。

 03年頃は、これが地方クラブのユースカテゴリーにおける典型的な状況だった。昔からそうだったわけではない。私の少年期には、ドイツには国外にルーツを持つ人はほとんどいなかった。ドイツにはオランダやフランスと違って長期にわたって植民地を支配した過去がなく、ナチズムが何年も存在していたことから、国外の人にとってドイツへの移住は“魅力的”ではなかったのだ。

 外国人労働者がドイツに移住するようになったのは、60年代になってからのことだ。そして、彼らがサッカーのピッチに現れるには、もう少し時間がかかった。彼らの孫の世代になってようやくクラブに加入するようになり、90年代になるとあらゆるバックグラウンドを持つ子供がドイツのクラブでサッカーを楽しむようになっていた。

 レアル・マドリーでプレーメーカーの地位に君臨するエジルは「僕は常に移民がいるチームでプレーしていた」と振り返る。エジルはルール地方のゲルゼンキルヘンで生まれ育った。「レバノン人やポーランド人、トルコ人、そしてドイツ人がいた。チームメート同士はまるで家族のようだったし、お互いに助け合っていた」。一方、代理人を務める彼の父親はこんな証言もしている。「移民の親とドイツ人の親の間には多少の問題があった。彼らは時々、私たちを蔑視していた。ただ、私は常にそれを無視していた」

 現在のドイツ代表では、ポーランドで生まれたポドルスキやチュニジア人の父親を持つサミ・ケディラ、ナイジェリアにルーツを持つデニス・アオゴやガーナに起源があるジェローム・ボアテングがプレーしている。こういったことは、ユースレベルやアマチュアの世界ではだいぶ前から日常的なことであり、それがトップレベルに浸透するのは時間の問題だった。

 世界はドイツのグローバル化に驚いたが、ドイツの人々が大げさに反応することはなかった。

 しかし、エジルやポドルスキといった才能豊かな選手がドイツ代表を選んだことは、彼らのルーツであるトルコやポーランドで大きな議論を呼んだ。彼らはエジルやポドルスキが祖国を“捨てた”ことに憤慨したのだ。特にエジルの場合は厳しい批判にさらされた。2010年にドイツとトルコがベルリンで対戦した時、トルコのファンは情け容赦なくエジルにブーイングを浴びせた。当時、トルコ代表を率いていたフース・ヒディンクは、エジルについて次のように語っている。「彼がドイツを選んだのは非常に残念だ。私なら彼
をうまく使うことができたのに……。今のドイツは、以前とは全く異なるサッカー文化を持っているということだ」

■革命を成功に導いたクリンスマンとレーヴ

 では、誰が文化を変えたのだろうか。エジルに創造性溢れるプレーを教えたのは誰なのか。ドイツ人はなぜ、南米出身の選手のようにプレーするようになったのだろうか。

 その答えは、04年のクリンスマン就任に見いだすことができる。クリンスマンが代表監督に就任した時、DFBは自国開催のW杯での大失敗を避けることを何より望んでいた。そのためクリンスマンにはチーム強化に関する全権が与えられており、彼は将来を見通せるスマートな人物、ヨアヒム・レーヴとオリヴァー・ビアホフをチームスタッフに招き入れた。そしてDFBがユースシステムを徹底的に整備したように、クリンスマンは代表チームを徹底的に整備し、試合に対するアプローチ方法に変化を加えたのである。

 クリンスマンは、ポドルスキやシュヴァインシュタイガーのような才能豊かな若手を抜擢することができた。しかし、それだけでは明るい未来は約束されない。時間をかけたチーム作りが許されたクリンスマンは、選手たちに「攻撃は最大の防御である」という信念を浸透させ、コツコツと成長させていったのだ。大胆で斬新なスタイルは、彼の遺産と言っても過言ではないだろう。

 ドイツW杯後に代表監督を受け継いだレーヴも重要人物だ。彼は6年間にわたり、選手たちに「スペインのようにプレーすること」を教えた。彼はクリンスマンよりも多くのタレントに恵まれたため、攻撃サッカーは面白いように機能した。彼が特筆すべき指導者だったことも、物事がスムーズに進んだ理由だろう。フランツ・ベッケンバウアーは「レーヴはこのチームを築き上げるという素晴らしい仕事をした」と賛辞を贈った。フェラーも気前良くレーヴを称えている。「若く才能あるチームが大きく前進した。将来の基盤がそこにある」。また、ネッツァーもドイツの将来は明るいと考えている。「ドイツにはまだ選手として完成していない多くの若手がいる。改善の余地は残されている」。かつて鈍く守備的なサッカーを展開するチームにしがみついていたネッツァーも、すべての人と同様に革命を喜んでいるのだ。

 ただし、ネッツァーは次のようにも語っている。「強いチームを見るのは喜ばしいことだ、しかし、素晴らしい成功は素晴らしい偉業によってのみ立証される。つまり、ドイツはタイトルを獲得しなければならないのだ」

 ユーロ2008、南アフリカW杯と、ドイツは素晴らしい攻撃サッカーを展開し、ファンを魅了した。しかし、タイトルにはあと一歩届かなかった。記録を残さなければ、人々の記憶はやがて薄れていく。ユーロ2012で、ドイツは悲願のタイトル奪取に挑む。スペインに“ルーツ”を持つマリオ・ゴメスの決勝点で白星スタートを切ったドイツ。彼らが持つ“多文化の力”が成功をつかんだかどうかは、大会が終わった時にはっきりするはずだ。

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【浅野祐介@asasukeno】1976年生まれ。『STREET JACK』、『Men's JOKER』でファッション誌の編集を5年。その後、『WORLD SOCCER KING』の副編集長を経て、『SOCCER KING @SoccerKingJP』の編集長に就任。

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