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チェルシーを欧州王者に導いた指揮官ディ・マッテオが自身の言葉でキャリアを振り返る

2012.05.21

ワールドサッカーキング 2012.06.07(No.216)掲載]
監督のスタイルは様々だが、過去に偉大なキャリアを築いた男には共通するものがある。ピッチサイドの凛々しい立ち姿は、彼らだけに許された勲章だ。
ディ・マッテオ

インタビュー・文=アンディ・ミッテン 写真=フォトスポーツ

 アンドレ・ヴィラス・ボアスがシーズン半ばで解任された後、内部昇格でチェルシーの指揮を執ることになったロベルト・ディ・マッテオ。まだ42歳になったばかりで、その風ふ う貌ぼうは監督としては明らかに若い。だが、不幸なケガで若くして現役引退を余儀なくされた彼は、監督になるための下積みを既に10年も経験している。意欲的な改革が失敗した後の“敗戦処理”だったはずの青年監督は、チーム内の混乱を速やかに収束させた。そして、クラブとサポーターの悲願であるチャンピオンズリーグ(以下CL)制覇に導いた。

 だが、今回はその青年監督の現役時代にスポットライトを当てよう。ドイツと国境を接するスイス北部の小さな街で生まれたディ・マッテオは、1988年にスイス2部でプロキャリアをスタートさせた。当時のポジションはリベロ。若くして最終ラインを統率しつつ、機を見ては前に出て攻撃を組み立てていた。23歳の時、アーラウでリーグ制覇に貢献し、両親の祖国であるイタリアへと活躍の場を移す。

 彼が新天地に選んだのは、当時、豊富な資金力を背景に強豪へと生まれ変わろうとしていたラツィオだった。ディノ・ゾフ監督の下、ディ・マッテオは持ち前のインテリジェンスとユーティリティー性を発揮。中盤のオーガナイザーとして活躍するようになる。

 戦術理解に優れ、技術と走力を兼ね備えたタレントはどのチームでも重宝されるもの。まさにその典型だったディ・マッテオは、アリゴ・サッキに見込まれてイタリア代表入りも果たした。94年のワールドカップ(以下W杯)はケガで参加できなかったが、ユーロ96と98年のフランスW杯には主力として出場している。

 常にチームにとってのメリットを考えてプレーし、仲間のために汗を流すことを惜しまないディ・マッテオは、ラツィアーレ(ラツィオのファン)のアイドルとなっていた。加入から3年で公式戦出場試合数は115。ほぼすべての試合に出ずっぱりだったことになる。しかし、重用されていたにもかかわらず、ゾフの後任監督となったズデネク・ゼマンとの不和は深刻なものとなった。選手を“チームというマシンの歯車”と見なすゼマンの哲学が、どうしても肌に合わなかったのである。こうして98年、彼はラツィオ退団を決意する。

ディ・マッテオ
現役時代、チェルシーで2度FAカップを制覇

 移籍先はチェルシー。当時、選手兼監督だったジャンルーカ・ヴィアッリからの強い要請に応じたのだ。当時、「イタリアン・コネクション」と呼ばれたチェルシーのイタリア人選手の中で、ジャンフランコ・ゾラが創造性溢れるプレーで人気を博していた。そこに加わったディ・マッテオは、確固たる戦術に裏打ちされた知的なゲーム運びで、当時はまだキック&ラッシュの風習が残っていたプレミアリーグに新たな風を吹き込んだのである。 もっとも、この頃から度重なる故障に苦しみ、継続して本領を発揮することができなかったのも事実。そして、2000年夏に負った大ケガが、ディ・マッテオのキャリアに幕を引くことになった。彼は長くリハビリに励んだが、18カ月目にギブアップを宣言している。

 現役時代の彼に大きな影響を与えた人物は2人いる。少年時代に憧れの存在だった“世界最高のリベロ”ことフランコ・バレージと、チェルシーに呼んでくれた恩人のヴィアッリだ。バレージからは戦術的に動くことを、ヴィアッリからはコミュニケーション能力を学んだ。2人ともプレッシャーを嫌って監督業からは距離を置いているが、ディ・マッテオは違う。

 それでは、優れた頭脳と豊かな感受性に加え、肌がひりつくような勝負を楽しむ感覚も持ち合わせた、チェルシーをヨーロッパ王者に導いた監督に、現役時代を振り返ってもらおう。

成功を収めたなんて思ったことがない

 自分がプロサッカー選手としてやっていけると思ったのは、1993年にアーラウでスイスリーグ優勝を成し遂げて、シーズンMVPを受賞した時だった。23歳だったよ。アーラウはスイスでは古豪なんだけど、知らない人のほうが多いだろうね。1910年代に2度の優勝経験があり、私たちが優勝したのはそれ以来だった。

 当時は、「もっとうまくなりたい」、「もっと勝ちたい」、「もっと大きな成功を手にしたい」というようなことばかりを考えていた。勝利に満足することはあっても、“満腹感”を覚えたことは一度もなかったよ。だから、現役生活はずっと冒険と挑戦の連続で、「成功を収めた!」なんて思ったことはほとんどなかった。でも、今こうして思い出してみると、あのシーズンは良いことばかりが重なっていたと思う。1914年以来果たせなかった優勝という目標を、自分たちが達成したんだ。チームだけじゃなく、街全体が勝利を喜んでいたよ。

 故郷シャフハウゼンのユースチームでプレーを始め、チューリッヒを経てアーラウに来た。中盤ならどこでもこなす選手だったけど、チューリッヒ時代までの私はセンターバックの位置でプレーすることが多かった。もっとも、当時流行のリベロとして攻撃の組み立てもやっていたから、“守備の選手”というイメージではなかったと思う。

 この話は今まで誰にもしていなかったけど、実はシャフハウゼンのユースチームに入団する前に、見習いとして肉屋に就職したことがある。16歳の頃の話だし、3週間しか続かなかったけどね。理由は、これからの人生すべてをこの仕事に捧げる自分がイメージできなかったから。正式な見習いになる前にも同じ店でアルバイトをしていたから、ナイフの使い方はマスターしていた。父は私が肉屋になることを望んでいたようだ。サッカー選手を目指すよりも勉強をして、故郷で手に職をつけるべきだと考えたんだろうね。仕事を辞める時は父から店主に言ってもらったんだけど、その時は父に恥をかかせてしまったようで、申し訳ないことをしたと思ったよ。

 アーラウでの素晴らしい1年を経て、ラツィオに移籍した。当時のセリエAは世界中のスター選手が集まるリーグだった。しかし、最初はそれ以上に街の大きさに衝撃を受けたよ。スイスの小さな田舎町で生まれ育った少年が、いきなり永遠の都、ローマで暮らし始めたんだから無理もない。

 当時の会長、セルジョ・クラニョッティは勝利に貪欲で、大きな野心を持っていた。結局、私がいる間にビッグタイトルを手にすることはなかったけど、チームが年々強くなっているという手応えは十分にあった。クラニョッティ会長と一緒に過ごしたラツィオでの時間は本当に刺激的だったよ。

 そしてチェルシーへ移籍した。ロンドンはローマより更に大都会だった。振り返ってみると、私はキャリアを通じて幸せな時間を過ごすことができた。環境と仲間に恵まれたと思うよ。

引退の無念さは今でも時々思い出す

 キャリアを通じて嫌なことはほとんどなかった。勝っても負けても「次は勝つ」と見定めているような男だったから、手痛い敗北というのも別段思い出せない。

ディ・マッテオ
94年W杯出場はケガで果たせなかったが、その半年後にイタリア代表デビューを果たし、ユーロ96と98年W杯には主力として出場した

 もっとも、ケガだけは別だったね。一番の挫折を味わったのは、93-94シーズンの終盤に右ひじを骨折したことだ。イタリア代表に正式に加わったばかりだったのに、あのケガでW杯出場の夢が絶たれたんだ。あの時は、打ちのめされた気分でアメリカW杯をテレビ観戦したものだよ。イタリア代表は苦しみながらも決勝まで勝ち上がった。最後はロベルト・バッジョがPKを外して勝利を逃してしまったけどね。

 ケガの思い出はもう一つある。現役引退を決断せざるを得なくなった大ケガのことだ。チェルシー時代、ザンクト・ガレンとの試合で足を複雑骨折してしまった。生まれ育ったスイスでUEFAカップの試合を戦っているところだった。当時の私はまだ30歳だったし、現役引退するつもりなんてこれっぽっちもなかった。だが、復帰を目指して必死に頑張ったが、ピッチに戻ることはできなかった。

 これはスイス人にしか分からないだろうけど、ザンクト・ガレンはアーラウの宿敵なんだ。因縁めいたものを感じたよ。あのケガがなければ、もう少し長くキャリアを続けられたはずなんだけどね。あの無念さは今でも時々思い出すよ。

 成功を実感したことがほとんどないと言ったけど、キャリアの中で自分自身を最も誇らしく感じた瞬間はある。もちろん、94年11月にクロアチア戦でイタリア代表デビューを果たした時だ。

 イタリアは両親の母国だったから、手続き上は問題なかった。ただ、私はスイスで生まれ育った人間だ。マーリア・アッズーラ(イタリア代表の青いユニフォーム)を着てプレーする資格があるのかどうか、長く悩んだものだよ。もっとも、最初の決断は16歳の時だった。スイス代表から練習参加するよう求められたんだが、行かなかった。16歳の少年にとってはひどく複雑な問題で、どんな答えを出せばいいのか分からなかったんだ。

 当時の代表監督だったサッキは、私に考える時間と様々なヒントを与えてくれた。コヴェルチャーノ(代表のトレーニングセンター)に招待してもらい、練習を見学したり、コーチたちの話を聞いたりしたよ。そして、ラツィオでの活躍が認められ、94年のW杯直前に正式に代表招集のオファーを受けた。私はもう迷わなかった。イタリア5400万人の代表としてプレーしたいという意欲が、胸の中でキラキラと輝いていたんだ。ところが、そこで右ひじを骨折。本当にツイていないと思った。私が代表デビューを果たしたのはその半年後だ。挫折の後だっただけに、喜びは大きかったよ。

私の人生の中心にはサッカーがあった

ディ・マッテオ
CL準決勝のピッチサイド。世界最高の指揮官、グアルディオラに一歩も引かない采配を見せ、混戦に持ち込んだ末にバルサ撃破に成功した

 現役時代の私にとってサッカーとは何だったのだろうか。一言で表現するなら「チャンス」だね。つまり、あらゆる機会はサッカーをすることで手に入った。スイスでずっと暮らしていたら、きっと出会うこともなかった素晴らしい人たちと、日々一緒に働き、感動を味わうことができた。プロサッカー選手になろうと決めた時点で、家族や友達と離れ離れになる寂しさを経験したけど、得たものはその何倍も大きかったと思う。いずれにしても、幼い頃から私の人生の中心にはサッカーがあったということだね。

 サッカー界には様々な問題があるけど、それぞれが自分の方法論で付き合っていくしかない。私が一番解決したいと思う問題は、代理人のことだ。今のサッカー界では代理人の権力が大きすぎる。もちろん、有能な代理人はたくさんいて、彼らはあらゆる方法で選手をサポートしてくれている。でも、そうでない者も多い。クラブとサッカー選手の間を取り持ち、金だけを持っていこうとするやからも少なくないんだ。我々は彼らとの関係をもう一度考え直すべきだと思う。

 もしも願いが一つかなうなら……コンチェッタの目に光を与えてあげたい。私の姉だ。若くして網膜の病気を患ったために、18歳で視力を失ったんだ。私は幼い頃からずっと、姉の目が治るよう神に祈っている。私にとって家族はかけがえのない存在だ。妻や子供にはいつも伝えているが、家族は私のすべてなんだ。

 私の性格? 三つの言葉で表現できるよ。「信頼できる」、「頼りがいがある」、そして「正直」だ。これまでの人生でうそをついたことがないとは言わない。だけど、それは人を傷つけないためのうそなんだ。それともう一つ付け加えるなら「内向的」だね。これで四つ。あれ、五つ言ったっけ?(笑)「人生で最も後悔したことは何か」だって? 私のキャリアは幸せに満ちていたから、すぐには思いつかないね……サッカーに直接関係のないものなら一つ思いついたよ。現役時代、チェルシーでプレーしていた頃に買ったサウス・ケンジントンの家を売ってしまったことだ。その後にかなり値段が上がったから、今になって後悔しているよ!(笑)

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