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2011.12.16

バルサ指揮官ペップ・グアルディオラの履歴書『誇りと野心、そして愛情』


文協力=グレアム・ハンター、写真=ムツ カワモリ

 バルセロナに黄金期をもたらした指揮官、ペップ・グアルディオラ。ライカールトの後を継いでベンチに座ったのは、わずか37歳の時だった。宿敵レアル・マドリーの後塵を拝し、どん底にあったチームを彼はいかなるアプローチで“史上最強”にまで引き上げたのか。選手やコーチングスタッフの証言、あるいは過去のエピソードからモダンフットボールを確立した男、ペップの素顔に迫っていく。

 5-1と10-6。バルセロナはマンチェスター・ユナイテッド、アーセナルと近年に6度対戦し、それぞれのクラブをこんな合計スコアで一蹴している。ユナイテッドは勝者のメンタリティを、アーセナルは美しいサッカーを常々称えられるが、バルサはその両方を完璧な形で備えている。彼らは昨シーズンのチャンピオンズリーグ決勝でファンタジーの極みとも言えるサッカーを展開し、サッカー史の最高傑作と見なされるに至った。

 リオネル・メッシはペレやマラドーナを超える途上にあり、チャビはスペインサッカー史上で最も優れた司令塔となった。アンドレス・イニエスタは卓越したスキルに加え、最も重要な場面でゴールを生み出す才覚を持っている。

 ジェラール・ピケ、エリック・アビダル、ビクトル・バルデス、ダニエウ・アウヴェスといった脇役陣の評価もうなぎ登り。ラ・マシアと呼ばれる育成組織からは、セルヒオ・ブスケやペドロ・ロドリゲスといった有望株が続々と輩出される。当代最高のストライカー、ダビド・ビジャの存在も、もちろん忘れるわけにはいかない。スペイン代表の最多ゴール記録を持つこのセンターフォワードは、バルサに移籍した昨シーズン、時に苦しみながらも23ゴールを挙げ、チャンピオンズリーグ決勝でもダメ押し点をたたき出した。

 だが、こうした奔流のような称賛の中で、一人だけ過小評価されたままの男がいる。ジョゼップ・グアルディオラ監督その人だ。寡黙で内向的なこのカタルーニャ人は、スポーツ界に一つの奇跡を起こした。単に世界が恋する魅力的なサッカーを具現化したばかりではなく、混乱の淵に沈んでいたチームを「常勝マシン」に変えてみせたのだ。

■チーム内に厳格な規律を植え付け選手たちに意識改革をもたらすらす

 グアルディオラが2008年夏に指揮を引き継ぐ直前、バルセロニスタのフラストレーションは爆発寸前だった。チャンピオンズリーグではベスト4で敗退。リーガでは宿敵レアル・マドリーに勝ち点18もの大差を付けられ、連覇を許していた。優勝決定直後の直接対決に至っては、キックオフ前に「花道」を作って優勝チームを出迎える屈辱を味わった上に、試合自体も1-4で惨敗している。選手たちには気力も規律もなく、フランク・ライカールト監督はムチを振るう意欲さえ失っていた。

 それがこの変わりようだ。すべてをグアルディオラの功績とすることはできないにせよ、彼がいなければ「バルサ丸」は今も舵のないまま漂流していただろう。

 チャビは新監督就任時の鮮烈な印象を、今も覚えている。「スペイン代表としてユーロ08に優勝して戻って来ると、チームの雰囲気は一変していた。規律が徹底され、コンディションの管理が厳しく求められるようになった。イニエスタに『この列車に飛び乗らないと置いてかれるぞ』と言ったのを覚えてるよ。それまでは規律が緩み放題で、体重が多少増えようが、集合時間に遅れようが問題にされなかった。それが一気に変わったんだ。ペップは鷹のように、すべてを頂点から見下ろしていたよ」

 新たな守備の要に指名されたピケは言う。「ペップはただ指示を出すだけではなく、その理由を詳しく説明してくれる。それが僕たちを進歩させるんだ」

 トップチームの監督に就任した際、グアルディオラは単独インタビューを受けないと明言した。そのことで、彼の現役時代を知らない取材者にとっては、グアルディオラは少々謎めいた存在となっている。グアルディオラがバルサやスペイン代表の中盤に君臨していたのは1992年から20世紀末までだから、スペイン国外には「監督グアルディオラ」の姿しか知らない者も多いに違いない。

 そんなグアルディオラが数少ない例外としたのが、2度進出したチャンピオンズリーグ決勝前の公式インタビューだ。私たちは運良く2度とも、彼と差し向かいで話を聞けた。それは実に印象深い体験だった。

 監督室の手前の部屋には、信頼の厚いアシスタントコーチのティト・ビラノバが、ちょうど番犬のように戸口の方を向いて座っている。対戦相手を詳細に分析することで名高いグアルディオラの部屋には、膨大な数のDVDや本や雑誌が壁際に積み上げられ、デスクの上には愛する家族の写真が置かれていた。バルサの監督という激務に就いて以来、家族と過ごす時間は減っているようだ。

 グアルディオラの受け答えは友好的だったが、彼が進んでインタビューを受けているのでないことは、暗黙の了解事項だった。なにしろ彼は外国のメディアどころか、旧知の記者や、クラブのスポンサーである地元テレビ局からの取材依頼さえ断り続けているのだ。それでもその心に火を点けるような話題に話が及ぶと、たちまちグアルディオラの口調や語法は力強いものとなる。例えば「負けないためのプレー」ではなく、「勝つためのプレー」が大事だと語る時だ。09年の決勝を前にしたインタビューで、彼はそのことに触れている。「チャンピオンズリーグの決勝ともなれば、どのチームも敗北の恐怖に支配され、慎重にプレーしがちになる」と。だが彼は、イニエスタ、ダニエウ・アウヴェス、アビダル、ラファエル・マルケスなどの主力を欠きながらも、勝ちにいくことを約束した。そして、自らが率いるバルサのプレーを「大胆不敵」と表現した。

 グアルディオラを駆り立てるのは自らの哲学ばかりではない。スポーツ界はもちろん、広く一般社会の思想や大義にも関心を持ってきただけに、昨今の経済危機に苦しむファンのために戦おうとの思いも強い。「ファンのためだと思えば、すべての努力や計画、集中、規律が意味をなす。今シーズンの我々の戦いぶりは、苦境の中でもチケットや有料テレビの視聴料を払ってくれているファンへの敬意の表れなんだ」

 グアルディオラはまた、単なる勝利では満足せず、勝ち方にもこだわっている。レアル・マドリーとの最近9試合の対戦成績は、バルサの6勝2分け1敗。合計スコアは20対5だ。就任以来、グアルディオラは3度のリーグ優勝と2度のチャンピオンズリーグ制覇を果たし、そのサッカーの質でファンを酔わせた。彼を監督に据えたジョアン・ラポルタ前会長が「生まれ変わるならペップになりたい」と語ったのも、それほど不思議ではない。

■「黄金の場所」からスタートした波乱万丈のサッカー人生

 監督就任のお披露目となった08年8月、グアルディオラは集まったファンに向かってこうスピーチした。「どのタイトルを取るとは約束できないが、我々は挑戦を続けます。決してあきらめません。シートベルトを締めておいてください。このアトラクションは、きっと楽しいものになりますからね」

 振り返れば実に予言めいた言葉だが、予言者は時に生まれ故郷で冷遇される。グアルディオラのバルセロナにおける長い旅もまた、栄冠と同じぐらい、茨に満ちた道だった。

 ペップ・グアルディオラはカタルーニャ地方の農村、サントペドルで生まれた。彼の後のキャリアを考えればできすぎた話だが、サントペドルとは「黄金の場所」という意味だ。車で1時間ほどの距離にあるカンプ・ノウには、まずボールボーイとしてデビューした。85年のリーグ優勝や、その1年後のチャンピオンズカップ決勝進出決定での殊勲の選手の写真には、興奮してピッチを走り回るペップ少年の姿が写り込んでいる。

 初めて選手としてお呼びがかかったのは11歳の時だったが、彼は生家を離れ、カンプ・ノウに隣接した石造りの寮(ラ・マシア)に入るのを躊躇したという。それでも彼の母親によれば、「毎朝目覚めると、寮の窓からカンプ・ノウのスタンドが見える」ことが決め手となって、グアルディオラは入団を決意した。

 だが、すぐに不吉な論争が鎌首をもたげてくる。後にはチャビ、イニエスタ、セスク・ファブレガス、メッシを巡っても交わされた論争、すなわち「体格が小さすぎるのではないか」だ。

 古株のクラブの役員、カルロス・ナバルは、当時のペップ少年を「小柄だが、神のごとくプレーする子だ」と、推薦した。「彼は他の選手には見えないものを見て、次に起こるすべてのことを予測していた。ところが周囲の者たちはこう言うんだ。『そんな選手がいるはずはない。たかだか11歳なんだぞ。サッカーの世界に奇跡などない』とね」

 グアルディオラの潜在能力を信じ、若くしてトップチームに昇格させたのはヨハン・クライフだった。グアルディオラによれば、そこにはミケランジェロが描く『アダムの創造』の絵の中で、神とアダムが手を触れ合わせ、稲妻を生みだすのにも似た何かがあった。現役生活の晩年になって、グアルディオラは当時のことをこう振り返っている。「私は20歳でバルセロナのレギュラーになった。それはクライフが監督だったからであり、彼の信奉するプレーができたからだ。もし私が今20歳でバルサにいたら、プロ契約もおぼつかず、3部リーグでアマチュアとしてプレーする程度だっただろう。私のスキルの問題じゃない。サッカーがハイペースになり、フィジカルを重視する方向に変わったからだ。今、4バックの前でプレーする選手は、パトリック・ヴィエラのようにボール奪取能力に長けたタックラーでなければならない。パスが出せるなんていうのは、ほんのオマケみたいなものさ」

 現役時代のグアルディオラは、言わばアメリカンフットボールのクオーターバックであり、現在のチャビほど高いポジションは取らなかった。だがクライフの3-4-3システムの中で、ほとんど伝説的なピボーテとなった。守備ではピンチの芽を未然に摘み取り、攻撃となれば対戦相手の嫌がるスペースを突く。バックラインからボールを受けると、攻撃の起点となって自在にパスを出し、「ドリームチーム」の攻撃を組み立てた。

 クライフの後釜となったボビー・ロブソンは、グアルディオラの「学ぶスピード」が気に入っていたと語る。「人間としてもサッカー選手としても、ペップは非常に頭が良い。戦術理解度はワールドクラスだ」

 パスの能力も卓越していた。ショートパスを連ねる現在のバルサよりも距離の長いパスを、ピンポイントで味方の足元に届けた。敵としても味方としてもグアルディオラとプレーしたことのあるマルク・オーフェルマルスは、グアルディオラは「唯一無二の存在」だったと言う。「彼は誰よりも早くプレーを見極め、その状況を最も生かすやり方でボールを操った」

 ポジション的には、現在の守備専任のMF、すなわちブスケやマイケル・キャリックと重なる。一方で、本人も認めるとおり、フランク・ランパードやスティーヴン・ジェラードほどの突進力とスタミナは持ち合わせていなかった。彼はクライフの哲学である、「自分が走るのではなく、ボールが走る」を実践していた。さらに重要なのは、自分が何をしているか、そしてチームメートが何をすべきか(あるいはすべきでないか)をしっかり理解していたことだ。

 統率力もまた抜群だった。アトレティコ・マドリーのレジェンドで、グアルディオラとともにバルセロナ五輪の金メダルを勝ち取ったキコは、かつてこうコメントしている。「ペップは生まれながらのリーダーなんだ。新生児室で他の赤ん坊に『お前はこのベッド、お前はあのベッド』と指示するペップ坊やが目に浮かぶよ」

■バルサとの別れを決断し異国の地で研鑽の日々を過ごす

 選手としてのグアルディオラは、クライフという理解者を得て成功を手にした。しかし、バルサを離れると、評価を勝ち取るための不毛な戦いを再び余儀なくされた。

 グアルディオラは01年にバルセロナを離れた。チャビに道を譲るためでもあったが、ルイ・ファン・ハールが率いたチームに幻滅したせいでもあった。高額契約の外国人選手がチームにどっと流入したことと、自身のケガが長引いたことで、グアルディオラは内省的になり、自分がバルサの哲学を表現する存在であり続けられるのかと悩んだ。映画やファッションに興味を持つ彼に対し、根拠のないゲイ疑惑がささやかれたことにも苦しんだ。

 結局、彼はバルサとの契約を更新せず、ファンやメディアにはこうコメントした。「これは4日前の敗戦から出した結論ではなく、長く真剣に考えた上での決定だ。私は異なる国、異なるプレースタイルを経験し、異なる言語を学びたい」。しかし、彼の父親のヴァレンティはこう述べている。

「多分このクラブは、バルサが負けると食事も喉を通らなくなるような選手を保持する資格がなかったのさ」

 バルサを離れた彼に、望むようなオファーは届かなかった。マンチェスター・シティーのトライアルで不合格になるというショックな出来事もあった。そして、セリエAの弱小クラブ、ブレッシャへと加入した彼を、さらなるトラブルが襲う。ドーピング検査で陽性反応が出て、禁止薬物のナンドロロンを使用したとの嫌疑をかけられたのだ。勝訴は難しいと見られたが、グアルディオラは7年間の法廷闘争の末に、自らの汚名を晴らした。彼は友人たちに、全財産を失おうとも、潔白を証明するまで戦うと語っていたそうだ。

 イタリア語には不自由しなかったし、所属したブレッシャやローマとの関係も悪くはなかった。だが、サッカー文化の違いにはストレスを募らせた。スペイン紙のコラムに、彼はこう書いている。「イタリアでプレーしていた頃は、『パスサッカーは忘れろ』とよく言われた。理由は、『スペースが少ないから』。私には理解できなかった。ピッチのサイズは同じなんだから」

 セリエAでの戦いを終えた時にも、レベルの高いリーグからのオファーは届かず、彼は高給を提示したカタールに渡った。そこは彼の異文化への興味とともに、穏やかな生活への願いを満たしてくれる地だった。

 彼はカタールで、ペースが遅く、緊張度の低いサッカーを楽しむ一方、大いにゴルフをやり、長い自由時間を英語の勉強に当てた。しかし、彼がカタールで何より痛感したのは、サッカー界に留まる必要性だった。コーチの資格を取らなければならない。サッカー界から離れるには、本人曰く、「あのボールをあまりに愛しすぎていた」のだ。

■チームマネジメント術の極意は“鉄の拳”と“ベルベットの手袋”

 07年、グアルディオラはバルセロナのBチームで、初めて指導者の職に就いた。クラブのスポーツディレクターであり、“ドリームチーム”時代の僚友でもあるチキ・ベギリスタインがクラブ首脳陣に強く推薦してくれた結果だった。

 当時、グアルディオラはこう語っている。「指導者として何の実績も持たない私に、こんな機会を与えてくれたことを感謝したい。私は勝たなければならない。成功すれば認められ、ダメならクビになる。それが“ベンチの掟”だ。選手には、このクラブの価値を伝える一方で、一定の自由も与えたい。ただし私は、ボスが全権を持つべきだと信じている。そして今や、私がボスだ」

 ライカールトは一度頂点を極めた後、高い意欲を維持できなくなっていた。チームは緩み、そのまま再浮上することはないように思えた。そんな中、バルサBを率いるグアルディオラは3部リーグ昇格に成功。フロント陣は結果を認めただけでなく、その戦術や人心掌握術、ベンチワークやビジョンにも心酔した。

 シーズンを通してバルサBを取材したあるジャーナリストは、グアルディオラのやり方を次のようにまとめている。「彼は多彩な手を駆使し、信頼と敬意を勝ち取った。団結を何より重視し、食事はチーム全員が一緒に食べる。良い結果を出した後なら、ペップのおごりだ。一方で、遅刻や退場、あるいは以前なら見過ごされていた小さな違反にも罰金を科し、規律を整え直した」

 もちろん、反対意見がないわけではなかった。バルサBでしか監督経験のない37歳の“若僧”にトップチームを任せるのが、大きなリスクであったのも事実である。そして、実績を重視する者は、その後に当時チェルシーを解任されてフリーだったジョゼ・モウリーニョを推していた。

 しかし、実際にライカールトの座を引き継いだグアルディオラは、規律重視の姿勢を打ち出してチームを掌握した。「私が37歳だから君たちに甘くするだろうなどと考えているなら、それは大間違いだ。私の誇りと野心はとてつもなく大きい。はっきり言おう。君たちにはしっかり働いてもらうぞ」

 グアルディオラ就任後、練習開始時間には、ただそこにいればいいだけでなく、着替えを済ませてスパイクの紐を結んでおくところまで済ませておくものだと認識が改められた。1秒でも遅れれば、容赦なく罰金が科された。

 練習中のグアルディオラは、独裁者というよりは説明屋で、しばしば選手の動きを止めては、細部を修正させたり、コンセプトを確認し直したりする。だが、ピケも証言する通り、「怒り出したら誰にも止められない」一面も持っている。就任当初にはアビダルが激しく叱責され、「僕は大人だ。そんな言われ方をされる筋合いはない」と反発する一幕もあった。そのアビダルが、2011年5月のチャンピオンズリーグ決勝の後に優勝トロフィーを受け取る役目を任されたのは、ペップ・バルサが歩んできた道のりの縮図にも思える。

 グアルディオラという監督はまた、“鉄の拳”ばかりではなく“ベルベットの手袋”を携えてもいる。彼が就任した年の夏、クラブはリオネル・メッシの北京五輪出場を認めるか否かで、アルゼンチン協会やFIFA、IOCと争っていた。最終的に、ラポルタ会長はスポーツ仲裁裁判所で勝訴する。五輪はFIFAのカレンダーに組み込まれた大会ではなかったため、バルサはメッシを即座に呼び戻し、チャンピオンズリーグ予備予選のヴィスワ・クラクフ戦に出場させる権利を得たのだ。

 しかし、自身が金メダリストでもあるグアルディオラは、その意味するものの大きさを知っていた。判決を聞くと、ラポルタとベギリスタインに異を唱え、彼らの反発を押し切り、自らの責任でメッシの五輪出場を容認。結果的に、五輪チャンピオンとなったメッシから永遠の忠誠を得た。ただ、もしバルサがチャンピオンズリーグの予選で敗れていたり、メッシが五輪で故障していたりしたら、グアルディオラの運命はずいぶんと違うものになっていただろう。賢明だったのか、単に幸運だったのか。いずれにせよグアルディオラは、世界最高の選手を就任早々に味方につけた。

 その数週間後にも、グアルディオラは再び人事管理の巧みさを見せた。ロナウジーニョとデコに続き、サミュエル・エトオの放出は必至と見られていたにもかかわらず、グアルディオラはその「問題児」の練習ぶりを観察し、考えを変えたのだ。「彼の態度や頑張りを認めたんだ」と、グアルディオラは証言する。一切の不品行は許されないと警告されたその年、エトオはトレブルに大いに貢献し、チャンピオンズリーグ決勝でも貴重なゴールを記録した。だが直後の6月、今度は本当にチームを去った。監督と「心が通わなくなった」ためだった。

 もっとも、一緒に仕事をした者たちの大半は、グアルディオラへの称賛を惜しまない。彼の手でバルサBから引き上げられたブスケは言う。「ペップはバルサBの頃と全然変わっていない。飽くことなく学び、細部を準備する。僕たち選手から最大限のものを引き出し、対戦相手への備えをさせる。何時間もビデオを見ているせいもあるけど、やはり指導者としての知識と、選手としての経験のたまものだね」

 アシスタントコーチであり、幼なじみでもあるティト・ビラノバは、「自信がチーム内に感染すること」こそがグアルディオラの秘密だと言う。「彼の勝利への意志は、勝てるという信念と、どうすれば勝てるかを説明する能力に裏打ちされているんだ」

 グアルディオラはいつまでバルサで勝ち続けられるだろうか。クラブのあるスタッフは、こう証言する。「ペップはこのクラブを異常なほど愛しており、あまりに熱心に仕事に取り組みすぎている。時々、彼に肩の力を抜けと言うんだ。でないと燃え尽きてしまうから」

 実際、彼はそれほど長く今の地位に留まらないだろうと予想する声は少なくない。彼は様々な理由を付けてはバルサが提示する複数年契約を拒み、1年ごとに契約を更新している。クライフなどは昨シーズンのチャンピオンズリーグ優勝を花道に勇退すると予言していた。確かに、この先もバルサの指揮を執り続けて、さらに良いことがあるかどうかは微妙なところだ。だがウェンブリーでの勝利によって、彼の活力と仕事への情熱は一新されたらしく、グアルディオラは試合後、選手たちに「ここでは終わらない」と語っている。

 それでは、どこで終わるのか? おそらく私たちは、カンプ・ノウに君臨するグアルディオラをもう1年は見ることができるだろう。しかし彼は、自分がチームに植え付けた考え方やプレーの仕方は、監督が交代しても生き続けると信じている。だからいずれは現役時代と同じように「巣」を離れ、異なる言語や文化を味わうためにイングランドかイタリア(もしくはカタール)に渡るに違いない。そして最後はバルサに、今度は会長として帰還するのではないだろうか。

 それまでの間はシートベルトをしっかりと締め、アトラクションの残りを楽しむとしよう。

【浅野祐介@asasukeno】1976年生まれ。『STREET JACK』、『Men's JOKER』でファッション誌の編集を5年。その後、『WORLD SOCCER KING』の副編集長を経て、『SOCCER KING(twitterアカウントはSoccerKingJP)』の編集長に就任。『SOCCER GAME KING』ではグラビアページを担当。

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