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【コラム】始まりは2004年秋…ルヴァン杯を制した湘南、その裏にあった笑顔と涙のドラマ

2018.10.28

湘南をルヴァン杯制覇へ導いた曹貴裁監督 [写真]=J.LEAGUE

 すべてはこのひと言から始まった。

「うってつけの男がいます」

 株式会社湘南ベルマーレの代表取締役社長に、眞壁潔が就任して半年ほどが経った2004年秋。セレッソ大阪のチーム統括ダイレクターを辞し、ベルマーレの強化部長に就任した大倉智が、アカデミー組織の再建を託すことのできる指導者はいないかと尋ねられた時だった。

 先にベルマーレのフロントに入っていた水谷尚人とともに、絶対の自信をもって眞壁へ推薦したのが、セレッソのコーチを務めていた曹貴裁(チョウ・キジェ)だった。早稲田大学ア式蹴球部において曹は大倉のひとつ先輩に、そして水谷のふたつ後輩に当たる。

 特に大学卒業後も日立製作所(現柏レイソル)でチームメイトとなった大倉は、毎日のようにサッカーについて熱く語り合ってきた曹に「いつかはどこかのチームで、監督をするんだろうな」と畏敬の念を抱いてきた。果たして、セレッソとの任期を満了した曹は翌2005年に、ベルマーレの一員になる。

 実はこの時、曹はコーチ就任のオファーを受けていた2つのJ1クラブに断りを入れている。なぜJ2に降格して久しいベルマーレの、それもトップチームではなくてアカデミー組織の指導者なのかと周囲は首を傾げた。しかし、曹自身は指導者としてのサッカー人生に危機感を募らせていた。

 森島寛晃や西澤明訓、そして大久保嘉人(現ジュビロ磐田)ら個性的な選手がそろっていた2004シーズンのセレッソで、自分が発する言葉が響かないと曹は痛感していた。川崎フロンターレU-15の監督を務めた、2001年からの3年間で手応えを得ていた曹は、もう一度原点に戻る決意を固めていた。

 そこへベルマーレからオファーを受けた。2005年はジュニアユース、2006年からはユースの監督を務めながら、眞壁や大倉と交わした約束を無我夢中で現実のものにしていった。それは「サッカー人と同時に、人を育てる」――。熱いまなざしは、他チームの選手にも注がれる。

 例えば、横浜F・マリノスユースとの練習試合。PKを誘おうとペナルティーエリア内でダイブしたように映った相手選手を試合後に呼び止め、ピッチの上で「将来世界へ出ていきたいならば、あの場面で倒れずに前へ抜け出さないとダメだ」と訴えかけた。負けた腹いせで相手チームの監督が怒っていると、マリノスのサポーターの間でちょっとした騒ぎになった一件。しかし、チームの垣根を越えて曹の指導を受けた齋藤学はマリノスのトップチームに昇格しても、そしてフロンターレの一員になった今も、ベルマーレと対戦する時には曹のもとへ挨拶に訪れている。

 そして、古林将太(現ベガルタ仙台)、菊池大介(現浦和レッズ)、そして遠藤航(現シント・トロイデン)ら、曹の指導を受けたアカデミー出身の選手たちが、招集された年代別の日本代表でキャプテンを務めるケースが多くなってきたことを受けて、眞壁と大倉は大きな決断を下す。

 ベルマーレを10年ぶりのJ1昇格へ導いた、平塚時代のOBでもある反町康治監督(現松本山雅FC監督)が電撃的に辞任した2011年のオフ。ヘッドコーチとして反町を3年間支えてきた曹を、トップチームを率いた経験がないことを承知の上で、新監督として迎えたいとオファーを出した。

 青天の霹靂にも映るオファーに、曹自身も一時は逡巡した。ベルマーレは2010シーズンのJ1でわずか3勝しか挙げられず、再び降格したJ2でも14位に低迷した。責任の一端を感じる一方で今現在も変わらない思いも頭をもたげ、オファーを受ける決意を下す。

湘南ベルマーレというチームを愛することにかけては、誰にも負けない自信がある」

 そして、新体制でスタートしたベルマーレは壮大なチャレンジをスタートさせる。それは「90分間を通して、ノンストップで走り続けるサッカー」――。当時のやり取りを、眞壁はこう振り返る。

「ヨーロッパのように走り続けるサッカーを、ウチがやらなきゃいけないと大倉や曹は言ったんです。それじゃ体が持たない、向こうは気候が低いからだと言われるけど、小クラブながらも日本のサッカーを強くするんだ、と。経営でお荷物のクラブが育成でもお荷物になれば、それこそ存在意義がなくなると僕自身も考えました」

 遠藤や菊池、古林に加えて、フロンターレU-15で曹の薫陶を色濃く受け、ベルマーレで偶然にも再会した永木亮太(現鹿島アントラーズ)、今シーズンのチームキャプテンを務める高山薫らがピッチで暴れ回った2012シーズンは、最終節での逆転劇で2位に滑り込む劇的なフィナーレを迎える。

 躍動感と爽快感がこれでもか、と伝わってくるサッカーは、シーズンの途中から「湘南スタイル」と呼ばれ始める。仕掛け人は、実は曹監督だった。ある試合後の会見で「我々の湘南スタイルが――」と言及した部分が、ファンやサポーターの間へ瞬く間に浸透していった。

[写真]=J.LEAGUE

「わかりやすく語呂もいい言葉は、選手にも見ている人たちにも大事だと考えたので」

 世代交代の過渡期にあるベルマーレを世間へ知らしめるためにも、キャッチーな言葉が必要だった。そして、その後のベルマーレの歴史は「湘南スタイル」の変化と、幾度となく流されてきた指揮官の涙によって彩られてきたと言っていい。

 奇跡のJ1昇格をもぎ取った2012シーズンの最終節は全身の力が抜け、気がついた時にはピッチに突っ伏して号泣していた。J1で苦戦を強いられていた2013シーズンのある時。練習試合を組んだあるJ1クラブの監督から、「お互いにいい選手がいなくて苦労しますね」と言われた時には選手の前で悔し泣きした。

「決して選手がいないとは思わない。そう言わせる自分が悪い」

 勝ち点101を獲得する独走でJ2を制し、再び挑んだJ1で8位に躍進。悲願の残留を果たした2015年10月のFC東京戦後には、公式会見の席で思わず感極まって声を震わせた。実はこのシーズンをもってベルマーレでの仕事がひと区切りついたと考え、退団する意思を固めていた。

 しかし、長く苦楽をともにし、2014年からは取締役社長を務めてきた大倉が電撃的に辞任。福島県社会人リーグのいわきFCの代表取締役として、新たな夢を追いかけ始めた事態を受けて翻意する。

「ベルマーレが最も自分という人間を必要としてくれた。それがすべてです」

 続投を決めた理由をメディアに対してこう説明したが、もうひとつ理由があった。大倉とともに、強化部テクニカルディレクターの田村雄三(現いわきFC監督)も退任。クラブが大混乱に陥っていた状況で、自分までもが去ればベルマーレには何も残らない、と判断した男気が熱く脈打っていた。

 代表取締役会長の眞壁、後任の社長に就いた水谷のもとで指揮を執った2016シーズン。永木や遠藤らの主力が去ったチームは、セカンドステージで泥沼の10連敗を喫した。それでも「引いて守って、その場をしのいでも何も残らない」と訴える指揮官に、意を唱える者は誰もいなかった。

 2016シーズンのオフには、U-18日本代表監督就任へのオファーも受けた。しかし、再びJ2を戦うベルマーレを再建する道を優先させた。迎えた2017シーズンの序盤。監督を引き受けてから何度も自問自答を繰り返してきた問題に、図らずも答えを見つけ出した。

「ただ単にスタイルを出せばいいのか、というところで何度も(心が)折れていた。スタイルを出させないチームに対して何も出せないのに、そのスタイルを貫くことがクラブのカルチャー作りのために必要だ、と言っても説得力がないので」

 1点だけでなく2点、3点を奪いにいけと指示を飛ばしても、実際にプレーする選手たちの反応がどうにも鈍い。いつしか「湘南スタイル」のなかで、ボールを奪ったら人数をかけて縦へ素早く攻める、という部分だけが独り歩きしていることに気がついた。

 自ら発案した「湘南スタイル」の定義は「ピッチとスタンドが同じ価値観を共有して、これがベルマーレのサッカーなんだと胸を張れること」にある。選手たちの内面に耳を傾け、原点に戻った曹監督は「簡単に失点しないために何をするべきか、という練習をこの2年間は多く課してきた」と振り返る。

 その成果が、枠内に飛ばされるシュート数が占める割合の少なさとなる。例えば今シーズンのJ1ではワースト2位となる449本ものシュートを打たれながら、枠内に飛ばされたシュートが占める割合は18チームのなかで2番目に低いと曹監督は胸を張る。

「シュートを打たれても枠には飛ばさせない、という姿勢はウチの十八番になっている。目に見えない戦術的な約束事であり、それができなければ例えどんなに上手い選手でもピッチには立てないので」

 縦への速さと勢いに加えて、泥臭さも「湘南スタイル」の中で際立たせながら勝ち進み、到達したYBCルヴァンカップ決勝の舞台。リーグ最多得点を誇る横浜F・マリノスの強力攻撃陣を、ルーキー坂圭祐(順天堂大学卒)を中心とする3バック、同じくルーキーのボランチ金子大毅(神奈川大学中退)らが体を張った守備で封じ込める。

「優勝しても絶対に泣かない、と今日は心に決めていたんですけど。本当にギリギリのところでやってきたなかで、選手たちが報われたことがよかったと思いを馳せたら……」

曹貴裁

喜びを爆発させる曹貴裁監督 [写真]=J.LEAGUE

 大会初優勝を告げるホイッスル直後から、埼玉スタジアムのピッチに突っ伏して号泣した曹監督が照れくさそうに理由を明かす。一方で表彰式後に指揮官に続いて胴上げされた眞壁会長は「僕にとって、ある意味で非常に象徴的な相手だった」と2004年秋をあらためて振り返る。

「当時大倉と約束したのが、何年かかってもいいからJ1へ上がることと、育成をちゃんとやること。夕方に平塚駅から電車に乗るとマリノスのスクールのバッグを抱えた子どもも乗ってきて、茅ヶ崎、藤沢と進むにつれて増えていく。地域に密着しますと言っているクラブなのに、地域の子どもが喜んで横浜に通っていることは放置できないというか。僕なりのライバル心から、マリノスに勝ちたかった思いが正直あって」

 クラブ創立50周年の記念すべき年に、名称が湘南に変わった2000年以降で初めての、前身のベルマーレ平塚時代を含めれば1994年度の天皇杯を制して以来のタイトルを、少なからず因縁のあるマリノスを撃破して手にした。日本中に感動を届けた戴冠の舞台裏には、ベルマーレを心から愛する男たちによって2004年秋から紡がれてきた、笑顔と涙が散りばめられたドラマがあった。(文中一部敬称略)

湘南

[写真]=兼子愼一郎

文=藤江直人

By 藤江直人

スポーツ報道を主戦場とするノンフィクションライター。

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