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【スペシャル対談】岡田武史×又吉直樹 ~異色の初対面で互いの過去を語る~

2016.06.23

 日本代表監督として2度のワールドカップ出場を経験し、現在はFC今治のオーナーとして経営者の道を歩みながら、日本サッカー協会の副会長も今年から務める岡田武史さん。

 お笑い芸人『ピース』のボケ担当として様々なメディアで活躍する一方、2015年に出版した小説『火花』が芥川賞を受賞し、日本で大ベストセラーとなるなど、文筆にもその才能を発揮する又吉直樹さん。

 岡田さんは読書家であり、又吉さんは高校時代までサッカー部で活動したという共通点もある両者に、今回『サッカーキング』では、初の顔合わせとなった異色の対談を実現。全3回にわたってお届けする。

『岡田武史×又吉直樹、マラドーナを語る』はコチラ→https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20160622/459325.html

『岡田武史×又吉直樹 ~多分野で活躍する両者、海外進出の可能性も?~』はコチラ→https://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20160624/460397.html

インタビュー=小松春生
写真=野口岳彦


今回、お二人は初顔合わせということで、まずは共通の話題からうかがいます。岡田さんは又吉さんが高校時代に指導を受けた大阪の北陽高校サッカー部、野々村征武さんをよくご存じとうかがいました。

岡田武史 もちろん知っていますよ。大阪で知らない人はいないくらいの方なので。僕が高校生の時、北陽高校と初芝高校が大阪では強かったんです。どちらもすごく厳しい先生が指導されていた。僕は高校2年生の時、大阪選抜に入ったことがありますが、周りは有名な選手たちばかりで、すごく怖かった(笑)。それでも最後は可愛がってもらって。誰も僕には絶対手を出しませんでした。眼鏡かけていたから、割ったらダメだと思ったのか(笑)。社会人になってからも食事に行くなど、懇意にしていただいて。今はだいぶ丸くなられましたけど、当時はかなり恐かったですね。

又吉直樹 たしかに恐かったです。いまだに一番、尊敬していますし、恐ろしい存在が野々村監督ですね。今もお会いすると、ずっと背筋を伸ばした体勢になります。「又吉が楽にしてくれな、俺も楽しめんから楽にしてくれよ」と言われるんですけど、「はいっ!」と答えて、姿勢は崩さず。監督はやさしい方なんですけどね。

岡田武史 もう、身に染みついているよね。僕が知るノノさんにお世話になったという人はみんなそう。

高校時代は多感な時期ですし、そこでの経験は大きいですね。

又吉直樹 そうですね。1996年から98年まで北陽高校で過ごしましたけど、ちょうどフランスW杯の時でした。その時、一度だけ野々村監督が僕らに、岡田監督の話をされたことがあって、「すごく根性がある」ということをおっしゃっていて、僕らの世代からすると岡田さんは知的なイメージだったので、「プレースタイルはそんな感じなんや」という印象で覚えているんです。

岡田武史 僕はDFで相手を潰すのが得意だったけど、申し訳なさそうな顔をするから、絶対イエローカードはもらわなかった(笑)。

又吉直樹 (笑)。

又吉さんも高校時代に大阪選抜の経験がありますね。

又吉直樹 高校2年生の時ですね。ポジションは左のウイングバックをやっていました。監督にかわいがられていたというか、高校1年生の時からAチームに入れていただいたりもしました。当時から「又吉、その木に登って校歌歌え」みたいなボケの役割を任されていましたね。

岡田武史 中学校はどこで?

又吉直樹 寝屋川でした。中学1年生の時に、2つ上の先輩が大阪の大会で、ガンバ大阪の下部などに勝って優勝したんです。その代から北陽高校に特待生で入った先輩がいて。つながりもあって、中学の先生が「1人根性あるやついますよ」と野々村監督に推薦してくれたこともあり、北陽高校に進学しました。

岡田武史 それから、木に登って校歌を歌った。

又吉直樹 はい(笑)。

岡田武史 面白い(笑)。

お二人はこれまで直接お会いしたことがなかったとのことですが、岡田さんから見て又吉さんの印象はいかがですか?

岡田武史 ほぼイメージ通りです。『火花』も読ませていただきました。ちなみに、何部売れたんですか?

又吉直樹 250万部くらいです。

岡田武史 すごい!ノノさんにかなりおごらないと。

又吉直樹 でも、いつもご馳走になってばかりで。

岡田武史 北陽高校のサッカー部だったことを聞いてから本を読みましたけど、こういう本を書くのかとびっくりしました。

又吉直樹 今の若い人はわからないと思いますけど、当時の関西に住んでいる人から見ると、北陽高校は、ちょっと悪い高校だったんです。なので、岡田さんもそういった印象をお持ちになったのかと思います。

では逆に、又吉さんから見た岡田さんの印象はいかがですか?

又吉直樹 野々村監督が「根性があった」とおっしゃったときから、その後の印象は変わっていません。現役時代のプレースタイルも厳しく行っていたとおっしゃいましたし、根本には“熱さ”みたいなものを持っている方なんやろな、という印象です。

岡田武史 サッカーは熱いところがなかったらできないしね。

又吉直樹 そうですね。

又吉さんは小学校3年から高校まで約10年間サッカーをされてこられましたが、現在への影響はありますか?

又吉直樹 芸人になってから30歳になるまで、テレビに出られない時代があって、金銭面でも精神面でもキツい時がありました。そういう時に一度視点を変えてみて、北陽サッカー部の時の自分のマインドにしてみたら「今日は練習休みやと思ったらわりと余裕やな」って(笑)。

岡田武史 (笑)。

又吉直樹 嫌なことも恐いことも何もないと思えるんですよ。それはたぶん高校の時のしんどい練習を耐えたからやろな、というのはありますね。

岡田武史 高校卒業後もサッカーを続けようとは?

又吉直樹 中学生の時から芸人になりたいって思っていまして。

岡田武史 『火花』の登場人物と一緒だね。

又吉直樹 野々村監督は面倒見がいいので、入学時は100人くらいサッカー部に入部するんですけど、卒業する時は10人足らずになっているんです。残った人間で、Aチームのメンバーは大学にサッカーで進学したり、サッカー関係で就職をしたり。それが監督の方針やったんです。でも、僕は1年生の時から「父親の仕事を継ぐので進学と就職は大丈夫です」と、本当はお笑い芸人になりたいのに、監督に諦めてもらうためにも嘘をついていたんです。それで、卒業後は吉本興業に入りました。

岡田武史 何で芸人になりたいと?

又吉直樹 小学校の頃、赤ずきんとかの劇をやる時、大阪でも標準語でやるんです。その標準語でやっていることに違和感があって、小学校2年か3年の時に全部、関西弁で書き直してやらせてくれと言って、自分で台本を書き直してみんなに配ったんです。そうしたらすごいウケたんですよ。「こんなにウケんねや」と気持ちよくなって。そこからお芝居を書いたり、コントを考えたり、漫才を作ったりして。あとは当時、ダウンタウンさんとか吉本新喜劇とかをテレビで見て、もろに影響を受けました。もちろんサッカーもすごく好きだったので、両方やりたいと思いながらも何となくお笑いのほうに。

岡田武史 ユニークだなぁ、それは。

岡田さんはサッカーから離れずに続けています。

岡田武史 僕も辞めよう辞めようとしたけど、なぜかサッカーに戻ってくる。サッカーを始めたのは中学校で、当時の大阪は野球しかなかったんです。「南海ホークスこどもの会」というところで、北陽高校の岡田(彰布、元阪神)と一緒に野球をやっていて、彼はリトルリーグに入りましたけど、僕は軟式しかやらせてもらえなくて(笑)。中学に進学する時、サッカー部を見たら、試合中に倒れたらプロレスごっこが始まる様子があって。「めっちゃ、おもろいやんコレ!」と思って、眼鏡をかけているのにサッカー部に入りました。やり始めると、サッカーは手でやるスポーツではないから、上達するのは大変だけど、やればやるほどうまくなるから、どんどんハマって。

又吉直樹 そのまま高校へ?

岡田武史 いや、高校に進学する時、「ドイツに行ってプロになる」と僕が言い出したんです。すると、親父が焦って。大阪の産経新聞に当時勤務していた賀川浩さんのところへ連れて行かれて、「この時代にそんな勇気ある子がいるんやったら、(ドイツへ)行かせてやろうと思ったら、メガネをかけてヒョロっとした君が入ってきた」と言われ、考えを改めるようすごく説得をされて。結局、高校でも必死になってサッカーをやったけど、チームは強くないし、「もういいや」と思って。

 大学進学の時は、五木寛之さんの「青春の門」が流行っていて、どうしても出身校の早稲田大学に行きたかったんです。僕は高校の時にサッカーで国体に出場していたこともあって、教育学部体育専攻を受けなさいと早稲田から言われたんですよ。でも、当時は実態がよく分かっておらず「体育専攻だと、サッカーをやりに行くことになるのかな?」「授業料を払ってサッカーをするなら、誘われている実業団でお金をもらってやりたい」と思って受けなかった。そして難関校だけを受験したら落ちてしまって。

 当時、日本ユース代表に選ばれてクウェートに行っていて合格発表が見られず、帰ってきたら「落ちています」と言われて。すると、早稲田の政治経済学部の教授だったサッカー部の部長先生から手紙が来て、「君は合格最低点の半分にも満たない。1年間どれだけやっても無理です。来年は体育専攻を受けなさい」と。だから、頭に来て。絶対に体育専攻は受けてやるかと思いながら勉強して、同志社大学とかに合格したから、「もうそっちへ行こう」と考えたんです。でも、早稲田の政経も合格して。早稲田に入学した時は、浪人生活を経て高校卒業の時から10キロ太っていたから、サッカーを真面目にやるのは辞めようと思って、同好会で遊んでいたんです。

 すると日本サッカー協会の人に見つかって、「何のためにユース代表に連れて行ったと思っているんだ!」と怒られて。まだ当時は純粋だったから(笑)、すごく悪いことしたと思って、翌日に入部願いを出して。大学卒業する時も、学生結婚していたこともあって、マスコミへの就職を希望して、集中していたんです。でも、古河電工からの誘いがあって、「落ちたら行きます」と話していたら、マスコミ関係は落ちて。

 そうやって何回もサッカーから離れようとしていたけど、他に行くところがなくなって戻ってきてしまう。古河電工の時も、社会人として仕事も頑張っていたから、引退してからは真剣に社長を目指しもしたけど、当時の監督からどうしてもコーチやってくれと頼まれて。コーチになると通常の仕事ができなくて、そこからサッカー漬けになってしまった。もうしょうがないかなと思って。

又吉直樹 自然とそういう流れになっていったんですね。

岡田武史 性格的にジッとしていられず、新しいチャレンジをしていないと気が済まなくて。フットワークが軽いから「面白そう」と思ったら行ってしまう。行ってしまってから「やっぱり大変だから戻ろう」と思うけど、その時にはいつも戻れない。「大変だし、辞めようかな」と思ったら、仕事を辞めてまでついて来てくれた人間とか、僕のことを信じてくれているスポンサーの方もいる。すると辞めるに辞められなくなって、前に行くしかなくなる。そういうケースが多いですね。

又吉直樹 引退後、普通にお仕事しようとしている中、コーチとして呼ばれたわけですけど、それはご自身でも何となく、現役時代から監督業に向いていると感じていたんですか?

岡田武史 古河のキャプテンの時、試合前のミーティングは僕がやっていて。「相手がこうだから、今日はこう戦うぞ」って。

又吉直樹 (笑)。

岡田武史 自分では「このチームは自分が動かしている」と思っていた。「監督、そんな練習ではなく、こういう練習をやりましょうよ」とか言って、すごく生意気な選手でしたね。練習が面白くなくなったら「やってられんわ」と言って帰ったりする。自分が監督だったら絶対にそんな選手は許さないですけどね。ところが、コーチになってもそれまでと変わらない気持ちで、選手の時にやりたいと思っていたことを全部やっても、チームは全くうまくいかないし、選手も伸びなくて、2年やって、もうパニック状態になってしまって。「このままではダメになるから、充電させてくれ」と言っても、会社員でもあるからなかなかそうもいかない。しょうがないから賭けに出て、ともかくそこから離れないといけないと思って、「1年間、留学させてくれ。留学させてくれないと僕は辞めます」と言って、1992年に家族でドイツに1年間行くことになって。

又吉直樹 それは何歳の頃ですか?

岡田武史 36歳くらいの時。

又吉直樹 うわ! ちょうど今の僕くらいですね。

岡田武史 そこで、今までの考え方が間違っていたと気がついて。選手と指導者では立場が違うと。それが大きな転機ですね。それで、本気でプロになってやろうと思って。自分がわからないことがたくさんあったから、悔しくて。

又吉直樹 めちゃくちゃ、興味深いですね。ドイツに1年間行くと、そんなに視点が変わるものですか?

岡田武史 僕も一応サッカー界では日本代表選手だったし、ドイツのクラブへの紹介とかはしてもらえて。でも、現地へ行ったら話も何も通っていない。こちらは家もないのに家族は来るし、子供も転校届まで出していたのに、相手は「焦るな」と。練習参加もさせてくれず、「このままこのクラブと交渉してもダメだ、早くチームを探さないと」と思って日本サッカー協会の推薦状を持って、駆け回ってようやく「今はドイツで研修を受け入れるクラブはないけど、そこまで言うなら」とハンブルガーSVに行きついて。

 ドイツにはすぐ家族が来るし、家探しもしなければいけないし、すごく苦労しました。しかも現地ではみんな日本人がサッカーをできるなんて思っていない。「お前はグラウンドの外で見ておけ」と。だから1日目はランニングを100メートルくらい後ろから追いかけて、止まって体操をしたら同じことをする。2日目は100メートルから80メートルに距離を縮めて…、ということを繰り返しました。「お前、何やっているんだ!」と言われたら終わりなので。少しずつ近づいて10メートルくらいまで接近した時に、監督と目が合って、「ヤバい!」と思ったけど、笑顔を見せてくれたから「いける」と。そこからは球拾いや、ドブに入ったボールも全部取りに行きましたよ。

「何でこんなことを」と思いもしたけど、頼るところもないから必死でやって。ある日の試合翌日の練習で人数が足りなくなったときに、ボール回しに参加しろと監督に言われて交じったら「お前、サッカーできるじゃないか」と。そこから認められましたね。ずっとそう言っていたんですけどね(笑)。それが、それまでの自分に劇的になかった経験でした。まず、家族を守らなければいけない、食べさせなければいけない、という生活をドイツ語も分からず、何が何だか分からないまま続けていく中で、そのおかげで強くなった。

 もう一つは影響を受けたのは、チームにヨルダン・レチコフという後のアメリカW杯で活躍したブルガリア人がいたんですけど、監督にいつも怒られる。ある日、レチコフが「何で俺ばかり言うんだ!」とキレた時があって、そうしたら監督が「全員集合。今からOKと言うまで、ダッシュ」と、チーム全員に罰を課したんですよ。しかも日が暮れるまで。ドイツ人はこういったことをするのかと不思議に思い、文句を言わないのか尋ねると「監督は絶対」だと。監督も選手に嫌われることを恐れないんですよね。日本では選手含めて仲良しグループになりがちだったので、監督と選手は立場が全く違う、監督の強さみたいなものを学んで。それも大きな影響を与えてくれました。

又吉直樹 やはり、世界は違うんですね。

その後の岡田さんを見ても、かなりの影響があったことがうかがい知れます。

岡田武史 サッカーの戦術はたいしたことはなかったですけど、監督の孤独さやそれに恐れないということは影響を受けましたね。

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