2013.05.24

川淵三郎「日本人にとってサッカーは非常に相性のいいスポーツ。20年が経過した今、それを確信している」

川淵三郎(公益財団法人 日本サッカー協会 キャプテン[最高顧問])

Jリーグサッカーキング7月号 掲載]
今から20年前の1993年5月15日、日本サッカーは大きな一歩を踏み出した。誰もが願ったプロリーグの発足―。その実現を目の当たりにして、“仕掛人”としてプロジェクトを推し進めた川淵三郎は、その感慨に浸る余裕もなく走り回った。Jリーグはなぜ誕生し、わずか20年でなぜここまで成長したのか。20年前の記憶を呼び起こしながら初代チェアマンが語る。
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インタビュー=岩本義弘 協力=Jリーグメディアプロモーション 写真=兼子愼一郎

去る5月15日、Jリーグは開幕から20周年という大きな節目を迎えました。今日は、発足当時にリーダーとして国内リーグのプロ化をけん引した川淵さんに、当時のことはもちろん、さらにJリーグの現在と未来についてもお聞きしたいと思います。まずはJリーグの発足に際して、プロ化構想が浮上した経緯について教えてください。

川淵 さかのぼれば、もともとはJSL(日本サッカーリーグ)事務局内における若い関係者らの議論が発端ですね。日本サッカーを強化する目的でJSLがスタートしたのに、人気は低迷し、日本代表はアジアの予選すら突破できない。どうすればJSLが活性化するのかを考えるところから始まったんです。

確かに、1980年代後半のJSLはスタンドで閑古鳥が鳴く状態が続いていました。

川淵 68年のメキシコオリンピック以来、代表チームは結果を出せず、一般の人々がサッカーに関心を持てない状況にあった。20年以上もオリンピックのアジア予選を勝ち抜けなかったことがそれを象徴していますね。60年から68年にかけて日本サッカーを指導してくれたドイツ人コーチ、デットマール・クラマーさんは、世界の檜舞台で活躍するためのチーム強化、あるいは選手強化の方法としてJSLを提言したわけです。しかし、それが全く機能していなかった。それをもう一度真剣に考えるために設置されたのが「活性化委員会」でした。

川淵さんは当初からのメンバーではなかったとお聞きしました。

川淵 そうです。第1回の活性化委員会が88年3月から5月まで6回開催されて、そこで導き出されたのが、プロリーグを意味する「スペシャルリーグ」という結論だった。僕はこの年の8月にJSLの責任者である総務主事に就任したんだけど、正直なところ、当初はプロ化に対して「できるわけがない」と思っていました。ただ、結論としてそれしか方法がないということであれば、活性化委員会を継続し、将来性について議論し続けることが大切だと思いました。それでこの年の10月に第2次活性化委員会をスタートさせ、僕自身も日本のサッカーをいかに発展させるかについて真剣に考え始めました。

そうして生まれたいくつものアイデアを実行に移したこと。それが川淵さんの最も大きな功績であると私は思います。

川淵 そうかもしれませんね。JSLには評議会という組織があって、これには各企業の代表、つまりJSLに加盟していた実業団の代表者が参加していました。しかしこの組織を構成するメンバーは、主に企業の決定権を持つ責任者で、いわゆるサッカーの現場の人間ではない。つまりサッカーのことをあまり深く知らない人たち。低迷し続けるJSLをプロ化しようということに対してほとんど否定的で、反対者の声が大きすぎるあまり、賛成意見がなかなか吸い上げられない状態でした。僕は、そういった状況で議論をしていても何も始まらないと判断し、活性化委員会の議論をJSLではなく、日本サッカー協会に移すことにしたんです。今振り返れば、その決断が“第一の成功”と言える気がしますね。

つまり、当時の評議会という組織の下ではプロ化は実現できないと判断されたということですね。

川淵 そうですね。もちろんその後も反対意見は多かったけど、何度も繰り返される議論の中で、何とか僕の持論が通るようになっていったということです。長沼(健)さんや岡野(俊一郎)さんの後ろ盾も大きかった。

そう考えると、川淵さんのプレゼンテーション能力がなければ、Jリーグ発足は10年以上遅れてしまったかもしれません。

川淵 その直後にバブル経済が弾けてしまったことを考えると、10年遅れていたらプロ化そのものが立ち消えになっていた可能性もあると思います。たまたまチャンスに恵まれたということもありますが、あのタイミングをおいて他にはなかったと僕は思っています。その後は僕をサポートしてくださる方も少しずつ増えてきて、言い方は悪いかもしれないけど、僕は彼らを隠れ蓑に話を進めることができました。

そうした動きの中で、プロ化が実現すると感じた瞬間はいつだったのでしょうか。

川淵 91年11月1日に社団法人日本プロサッカーリーグを立ち上げましたが、その時ですら成功するかどうかの確信はありませんでした。僕が考えていたのは、とにかくこのプロジェクトを前に進めることだけ。ちょうどその頃から、日本に新しいプロスポーツが誕生するということで、マスコミの扱いがものすごく大きくなっていって、92年5月に参加10団体のユニフォームとマーチャンダイジングの発表会を開催したんですが、スポーツ紙が一斉にカラー1面でこの模様を報道した。それを見て、「いけるかもしれない」という思いを強くしました。

開幕前年の92年、Jリーグヤマザキナビスコカップの成功も、その後の風潮を大きく変える要因となった気がします。

川淵 そうですね。やはりそのあたりでようやく、ある程度のイメージが沸いてきたと言えるかもしれません。Jリーグの持つ華やかさ、例えば茶髪の選手が何人もいるということも、当時は新しさ、華やかさとして受け止められましたからね(笑)。そうした“斬新さ”が、世間の耳目を集めたんだと思います。

日本代表チームの強化は、Jリーグ発足の目的の一つでもあったと思います。

川淵 もちろん、日本代表を強化することは国内リーグのプロ化における第一義でした。だけど、僕は日本代表時代にヨーロッパに遠征して、スポーツ先進国にあるスポーツクラブのあり方を実際に見ていますから、それを具体的にイメージしてプロ化を進めていくことができた。それは、誰もが気軽にスポーツを楽しめる広い裾野の中からトップアスリートが送り出される環境。ヨーロッパでそうした光景を初めて目の当たりにした時の興奮は、今でもはっきり覚えています。

当時、一般的にはワールドカップの認知度さえも低いという現実がありました。そうした環境の中で、「地域密着」という明確な理念を打ち出されたことが、サッカー文化の浸透を図る上で非常に効果的に作用したように思います。

川淵 もっとも、当時は「地域密着」という言葉ですらなかなか理解されない時代でした。「空疎な理念」と批判されもしましたが、それも無理はない。ヨーロッパのように、地域の人々が自由にスポーツを楽しめる環境は日本にはほとんどありませんでしたからね。その理念を理解し、イメージしてもらうことについては非常に大変でした。

当時の日本はまだ、スポーツと言えば企業スポーツ。つまりアマチュアの世界が当たり前という環境でした。

川淵 クラブ名から企業名を外すということに対しても相当な抵抗がありましたね。ただ、あの時代はちょうどバブルの頂点で、企業メセナやフィランソロピー(地域貢献)ということが盛んに言われていた時代でしたから、そういった風潮がJリーグにとって追い風となったことはありますね。それがなければできなかった。“神のみぞ知る”タイミングでした。

さまざまな壁に直面する中で、なぜ川淵さんはご自身の信念を貫くことができたのですか?

川淵 何しろ当時は、「これは一生に一回あるかどうかのチャンスだ」と思っていましたからね。そのチャンスを目の前にして、妥協せずにやり遂げるという強い気持ちこそが、僕にとっての原動力になった。もっとも、妥協しなかったことが何よりのプラス要素であったと思う反面、当時はむしろ、妥協が許されない環境にあったということも言える気がします。

というのは?

川淵 Jリーグ加盟団体を募集したところ、最終的に20の応募があったわけです。我々としてはこれを厳密に審査して絞らなければならなかった。しかし、バブルの頂点だったので、みんな「落とされたら困る」となり、我々としてはむしろハードルを上げることができた。つまり、高い基準を設けて、妥協せずにプロリーグを作り上げることができたんです。

そうした基準を作る過程において、当時の川淵さんはかなり厳しい姿勢を保ちながら周囲の人を鼓舞し続けたと聞きました。

川淵 中には僕のことを怖いと感じていた人もいたでしょうね(笑)。自分の頭の中には明確なゴールが見えていて、しかしそこに至るまでの道程というのは分からない。それをいろんな人と議論しながら模索していくという作業でしたから、その過程においては何度も難しい状況に直面しました。だけど、「地域密着」という構想は想像上のものではなく、現役時代にドイツで見た現実のものですからね。単にサッカーをプロ化するのではなく、草の根とトップの両方を見据えていましたし、その両方に取り組めることに興奮を覚えていました。

そうして迎えた93年5月15日。記念すべきJリーグ発足の当日を、川淵さんはどのような心境で過ごされたのでしょうか。

川淵 まずは前日。国立競技場での開幕を迎えるにあたって、オープニングセレモニーのリハーサルを前日の夜に行いました。ところがその日の天候は雨。それだけでも不安だったのに、リハーサルの時間はたった1時間半しかない。だから、前日夜の時点では、オープニングセレモニーが成功するというイメージは持てませんでした。

しかし、当日のセレモニーは完璧な出来だったように記憶しています。

川淵 そうですね。空気を入れた人形がむくむく起き上がるという催しなどは、実はリハーサルではやっていないんですよ。そういったことも含めて、セレモニーの成功は奇跡的だったと言えるかもしれません(笑)。それから、お客さんはもちろんですが、これからピッチに立つはずの選手たちが非常に高揚していることがとても印象的でしたね。

川淵さんご自身も、それまでの苦労を思って感慨深かったのではありませんか?

川淵 いや、それが全く(笑)。なにせ感慨にふける余裕などありませんでしたから。その日はペレを始めとする世界からの来賓者を出迎えることに忙しく、ずっと接客をしていました。翌日は鹿島アントラーズ対名古屋グランパスの一戦に出向きました。今だから言えるけど、あの試合で、名古屋のゲーリー・リネカーのゴールがオフサイドで取り消されちゃったんですよ。正直なところ、「盛り上がってるんだから見逃してくれよ」って思いましたね(笑)。

Jリーグの目玉であるスター選手のゴールですから、お気持ちは十分に分かります(笑)。ただ、鹿島のジーコや名古屋のリネカーを含めて、当時のJリーグにはゴールを決めなくても素晴らしいトップスターが数多く在籍していました。

川淵 コーチとして申し出があったジーコについては少し特殊ですが、その他の外国籍選手については、Jリーグを盛り上げようとする各クラブの努力があったからこそだと思います。リネカーやリトバルスキーなど各国の有名選手を連れて来てくれたことは、本当にありがたかった。結果的に、彼らは日本人が知らなかったサッカーの魅力を十分に伝えてくれましたから。彼らが来た意味はすごく大きかったと思います。2年目以降は、94年のワールドカップに出場した現役選手が次々とJリーグに移籍してきた。Jリーグにとっては非常にラッキーでしたね。

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