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ドイツサッカーを伝えるという使命 鈴木良平(サッカー指導者、解説者)

2015.04.13
鈴木良平

「あの頃も今も、絶対にあり得ないことじゃないかな。特に今の時代なんか、どんなに親しくてもあそこまではやらせてくれない。とんでもない財産ですよ」

 今から40年以上も前、はるかなる異国の地ドイツで経験したことを、鈴木良平さんはそのように振り返った。

「コーチングスクールを手伝った経験が、運命を変えた」

 鈴木さんはドイツサッカー連盟公認のS級ライセンスを保持し、近年はドイツサッカーに関する豊富な知識と自らの実体験を生かし、サッカー解説者としても活躍している。ブンデスリーガやUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)の中継での的確かつ冷静な分析には定評がある。

 しかしサッカーとの出会いは意外にも遅く、小学生の頃は野球、中学では水泳部に所属と、少年期は別のスポーツに親しんでいた。そして顧問の先生の影響から体育教師になりたいという夢を持つようになり、水泳の推薦で都立駒場高校の保健体育科に進学したが、そこでは数奇な運命が彼を待ち受けていた。

「入学してすぐに耳の調子が悪くなり、ドクターストップがかかって水泳を諦めなければならなくなったんです。転校することも考えたんですけど、その時にサッカー部のキャプテンが『今からでも大丈夫だから、サッカー部に入らない?』と声をかけてくれて。それがサッカーとの出会いです」

 高校生の時にようやくサッカーと関わるようになった鈴木さんだが、ドイツサッカーと巡り会うのはさらに先のことだ。

 教師になるという当時の目標を果たすべく東海大学の体育学部に進学したものの、大学のサッカー部は「入りたいと思ったけど、見学に行ったらちょっとイメージと違った」ため、入部を回避してしまう。そんな時に千葉の検見川でFIFAが主催する第1回アジアコーチングスクールが開催されたこと、日本サッカー協会(以下JFA)で勤務する駒場高校サッカー部の先輩がその運営に携わっていたことが、鈴木さんの運命を大きく動かしていく。

「先輩から『手伝ってくれ』と言われたんですよ。大学の教授に相談すると、大半の方は『いい機会だから行ってきなさい』と言ってくれた。それで3カ月間、コーチングスクールの手伝いをしたんです」

 一介の大学生の手伝いなど、労力としてはたかが知れているが、鈴木さんの目の前にはとてつもない光景が広がっていた。

「スクールでは“日本サッカーの父”として知られるデットマール・クラマーさんが指導していて、JFAの中心的人物だった岡野俊一郎さん、長沼健さん、平木隆三さんといった方たちが講師をされていた。受講生の中にも加茂周さんを始め、有名な指導者が参加していた。そして期間中、日本代表が2度ほど合宿に来たんですよ。先輩からはそちらの手伝いもしてくれと言われて、代表チームのマネージャーみたいな仕事も同時にやるようになって。当時の代表には釜本邦茂さんや杉山隆一さんなど、メキシコ五輪で銅メダルを取ったメンバーがほとんど残っていた。我々にとってはスーパーヒーローですよ。そんな彼らのそばにいて、マネージャーみたいなことをやる。最初は『お前は誰だ?』みたいな感じでしたが、次第に個人的に親しくさせていただくようになりました」

 この経験を通じて、鈴木さんの中ではある考えが芽生えていった。体育教師になるのもいいけど、サッカーの指導者も魅力がある。こういう仕事に就きたい――。

「森孝慈さんが、ドイツへの道を切り開いてくれた」

 プレーヤーとしての実績がなく、大学でサッカー部に入ってもいない鈴木さんが指導者を目指すというのは無謀にも近い挑戦だったが、そんな時にコーチングスクールの手伝いをした経験がモノを言った。

「代表チームの選手たちと親しくなった縁で、三菱重工の森孝慈さんに相談したんですよ。すると『お前みたいなのが指導者になりたいんだったら、ウチの監督に相談して、ドイツに行って勉強するのが一番いい』ということで、当時の三菱重工の監督をされていた二宮寛さんを紹介していただきました」

 二宮氏にはボルシアMGとの間に太いパイプがあり、毎年、若い選手を派遣してトレーニングに参加させるなどの交流をしていた。そんな二宮氏の厚意により、大学在学中は三菱重工の練習や遠征に参加して経験を積み、卒業を待って1973年1月、ボルシアMGにコーチ留学。当時、監督を務めていたヘネス・ヴァイスヴァイラーに師事することとなる。

 当時のボルシアMGは、ヴァイスヴァイラーが志向する超攻撃的なスタイルでドイツサッカー界を席巻しており、1974-75シーズンにはブンデスリーガとUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)制覇を達成。ブンデスリーガでは同シーズンから3連覇を果たしている。選手として絶頂期にあったギュンター・ネッツァーを始め、ユップ・ハインケス、ヴェルティ・フォクツ、ライナーン・ボンホフ、アラン・シモンセンなど、錚々たるメンバーがそろっていた。

 鈴木さんはそんなスターたちとともにトレーニングに励み、試合にも同行して、深い関係を築いていった。指導者としてバイエルンにブンデスリーガ、DFBポカール、CLの3冠をもたらしたハインケスやボルシアMGの副会長を務めているボンホフとの関係は今なお続いており、渡独時には常にコンタクトを取って旧交を温めているという。

 何の実績もない日本人の青年が、ドイツのスーパースターたちと過ごした濃密な日々。それを表したのが、冒頭の鈴木さんのコメントだ。

「あれは例外中の例外だったと思うし、二宮さんとヴィスヴァイラーのつながりがなかったら、こんなことは誰もできなかった。あの頃も今も、絶対にあり得ないことじゃないかな。特に今の時代なんか、どんなに親しくてもあそこまではやらせてくれない。とんでもない財産ですよ」

 やがてドイツ語に不自由がなくなると、指導者ライセンスの受講も開始。ケルン体育大学のゲロー・ビーザンツ教授の授業でB級ライセンスを、ヘネフにあるスポーツシューレ(総合スポーツセンター)でのカリキュラムでA級ライセンスを取得すると、6カ月間という長丁場のカリキュラムを修了し、試験も見事にクリアして、1975年10月にS級ライセンスの所有者となる。ドイツに渡ってから2年10カ月での目標達成だった。

鈴木良平

「ドイツとはサッカー界における友人関係を築いてほしい」

 帰国後、鈴木さんは念願だった指導者としてのキャリアをスタートさせる。ドイツに戻ってビーレフェルトのヘッドコーチを務めたり、女子日本代表の専任監督として女子サッカーのレベルアップに尽力したりと様々な経験を積んでいた頃、テレビ業界から声がかかった。

「1990年頃だったと思うんですけど、日本で初めて、CS放送でブンデスリーガの中継をやることになり、その時に解説者として声をかけていただきました。その後、2000年には日韓W杯の欧州予選が始まったんですが、フジテレビがCSで中継することになり、そちらでの解説の仕事も増えていきましたね。すると今度はスカパー!やJ SPORTSからも声をかけていただくようになり、自然とテレビの仕事の割合が増えていきました」

 期せずして引き受けることになった解説の仕事だが、鈴木さんは特にブンデスリーガの解説に関しては、大きなプライドを持って取り組んでいるという。

「ヴァイスヴァイラーの下で学んだ3年間が、指導者としてもサッカー人としても僕の原点なので、ドイツサッカーを日本に伝えることが、自分に与えられた使命だと思っています。今、自分以上にドイツサッカーを伝えられる人間はいないだろう、という自負もありますし」

 選手としての実績がなかったにもかかわらず、溢れんばかりのバイタリティーを武器に単身、ドイツに渡って指導者としての道を切り開き、その経験を元に解説者としても存在感を示す鈴木さん。ドイツサッカーからあらゆることを学び、ドイツサッカーの魅力を伝える使命を帯びた人間として、最後にドイツサッカーを愛する人たちへのメッセージを送ってくれた。

「ドイツサッカーと日本サッカーの交流は60年ぐらいの長い歴史があるので、それを感じてほしいです。ドイツにも日本のサッカーが好きな人が本当にたくさんいるし、日本人に対する親近感も持ってくれています。ドイツから学ぶだけではなく、サッカー界の友人として、親しい関係を続けていきたいですね」

インタビュー=道端勇太(サッカーキング・アカデミー
写真=小林浩一(サッカーキング・アカデミー

●サッカーキング・アカデミー「大阪スクール 編集・ライター科」の受講生がインタビューを、「カメラマン科」の受講生が撮影を担当しました。
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サッカーキング・アカデミー

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