2012.12.11

吉田麻也「成功するまで帰れない」、未来を誓った12歳の夜

[サムライサッカーキング 12月号掲載]
12歳で故郷の長崎を離れ、名古屋へ旅立った吉田麻也。その時感じた“家族の優しさ”と“親のありがたさ”。「成功するまで帰れない」と誓ったあの夜の自分との約束を果たすべく、吉田は邁進し続ける。

Text by Yuki NISHIKAWA Photo by Masashi ADACHI

 明るく、社交的な“表”の部分と、非常に客観的に物事を判断できる“裏”の部分――。

 こう書いてしまうと、なんだか二重人格のように誤解されるかもしれないが、決してマイナスな意味ではなく、吉田麻也という人間には素晴らしい二面性が存在しているように感じる。温かさと、冷静さ。それらは巻頭のロングインタビューからも伝わってくるものだった。改めて、彼がこの24年間、どのような経験を積んだことでそうした人格が形成されたのか、そして一人のサッカー選手として成長してきたのかを、ここで振り返っていきたい。

 1988年8月24日に長崎市で生まれた麻也。3人兄弟の末っ子として誕生した彼は、年の離れた二人の兄やその仲間から常に可愛がられながら育っていった。 吉田家には、常に人が溢れていた。快活で気風のいい性格の父・有(あり)さんがたくさんの人たちを自宅に招き入れ、息子の友達たちも寄せ集めて食事をするなど、麻也にとっては幼少期から常に年上の人間と接する環境がそこにはあった。

「小さい頃から、うちの兄弟はなぜか友達の家に外泊するのは絶対にダメで。母親からも『それならば友達をうちに連れてきなさい!』とよく言われたものです。だから自然と僕の家にはいろいろな人が集まるようになっていった。もうまさに“たまり場”でしたよ(笑)。子供の頃に一人でいた記憶はほとんどないですね」
 そうした一風変わった家庭環境が、麻也の性格のベースには深く関わっているという。

「常に父親の知り合いとか、高校生の兄の友達とかの中に、自分もいた。自然と大人の世界に馴染んでいったと思うし、普通の子供なら遭遇しないことも見聞きしてきた。今の社交的な性格は、間違いなくその頃に養われたものだと思います」

 一方で、同じく冷静さもその頃から備わっていったようだ。よく二人の兄が喧嘩をしていたが、そうした状況でも末っ子の麻也は一人、冷静な態度でその一部始終を見ていた。「もうくだらないことで喧嘩するんですよ、本当に(笑)。自分は大人の世界によく触れていたし、でも兄たちとは年が離れているので、一歩引いたところでいろいろ見ていたところはあった。それは同年代の子供たちに対しても同じだったと思います。感じ悪いですよね(笑)」

 当時の自分を“ませガキ”と表現する。そんな大人びた少年が、中学に上がる際に一つの決断を下した。親元を離れ、大好きなサッカーに打ち込む環境に身を置く。長崎から遠く離れた、名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)のU15に入ることを決めたのだ。

 両親も麻也の決断に反対することなく、彼の背中を押した。当初は本人も含め「家族全員がセレクションに受かるとは思ってもいなかった」と麻也は話すが、それでも合格が決まってからは全員が協力して、彼を送り出してくれた。

 さすがに中学1年生の少年を遠く離れた土地に一人で行かせるわけにはいかず、福岡で一人暮らしをしていた兄がともに暮らしてくれることになった。愛知で始まった新たな生活。とはいえ、やはり初めはホームシックにかかってしまった。

「常に人がたくさんいた環境から、いきなり兄と二人だけの静かな生活に変わった。やっぱり親や友達のことがすごく恋しくなりましたね」

 一人、泣き明かすこともあった12歳の麻也少年。しかし、ここで彼は精神的なたくましさを身に付けるとともに、一つのターニングポイントを迎えることとなった。

 生活に必要な家具や電化製品など一式を、母親と買い揃えていた時に感じたことは、今でも忘れていない。

 「家賃などを含めても、決して安くはない金額が僕にかかったわけで。母親といろいろ買い揃えていく中で、やっぱり子供ながらにその金額が目に飛び込んできた。『ああ、中途半端にサッカーを諦めて、帰るわけにはいかない。ここで絶対にプロにならないといけないな』と、その時に思ったことは忘れません」

 あどけなさの残る12歳。それでも麻也は、同年代の少年が決して触れることのないような思いに直面していた。彼の頭の中で、その冷静な思考が働いた瞬間。麻也の人生における、最初の大きな転換点だったに違いない。

 名古屋グランパスU 15でのプレーが始まってからは、学校、練習、兄との共同生活というサイクルの下で日々が進んでいった。

 小学生の頃から大きな体格で、背の順でも一番後ろが指定席。その体格を生かし、FWのポジションで点を取ることにサッカーへの楽しみを見いだしていた麻也だったが、中学生以降は少しずつプレーの位置を下げていくことになった。

「練習は厳しかったし、周りに技術的に上手いやつも多かった。それでも自分は徐々にみんなのまとめ役みたいなことも任されていったし、結構コーチから怒られる役にもなっていました(笑)」

 当時の指導者陣も、麻也が持つ人を惹きつける力や集団を牽引する才能に目をつけていた。彼のプレースタイルだけでなく、パーソナリティーの部分を考慮した上で、よりチームの中心になることができる後方のポジションでプレーさせた。そしてそれが、麻也自身の成長にもつながっていった。

 いつしか同年代の中で、彼を中心にした輪ができ上がっていった。たくましさを増した少年は、グランパスU18への昇格も果たし、いよいよプロサッカー選手に向けた階段を上っていくこととなった。

 高校入学を前に麻也は周囲とは異なる、ある選択をする。彼はクラブが提携する私立高校ではなく、地元の公立高校への進学を選んだ。理由は、何とも彼らしい。

「もちろんサッカーだけに集中できる環境に行くほうが楽だし、効率的だったかもしれない。でもグランパスのユースということだけで特別視されない環境で勉強したかったし、特に英語を真剣に学びたかった」

 今年のロンドン・オリンピック前に、母校で麻也の壮行会が開かれた。壇上で彼は後輩たちに向かって、当時の選択についてこう語った。

「グランパスの寮から自転車で30分かけて登校していた。サッカーと勉強の両立も含めて本当にしんどいと思ったことは一度や二度ではなかった。でも、僕はこの学校を選んで今でも良かったと思っているし、当時から将来は海外でプレーすることを目標にしていたので、特に英語の勉強に力を入れていた。皆さんも何か一つでもいいので、目標にしているものに力を注いでほしい」

 決して周りの仲間には流されない選択をし、それが今の自分に脈々とつながっている。こんなところでも、当時から麻也の冷静さは際立っていたのだった。

 兄との3年間の共同生活が終わり、高校1年生からはグランパスの寮に住み始めた。トップチームの若手選手が暮らす環境であり、またプロの一線で活躍をする偉大な先輩も時折顔を見せてくれるなど、麻也にとっても刺激的な日々となった。

「アキさん(秋田豊)や(藤田)俊哉さん、それにユースからトップに昇格した先輩の(山口)慶君とかが、寮に来ることが結構あって。もちろん最初は緊張したけど、身近でプロの人たちの行動を見ることができたことは、自分にとって確実にプラスになりました」

 一方、プレー面では新たなポジションに挑戦することに。当時、グランパスう 18の監督を務めていた朴才絃氏は、麻也を将来世界で戦える現代的な選手にするべく、体格を生かした強さ、高さだけではなく、そこに上手さも植え付けようとした。そして、ポジションをワンボランチ、つまりアンカーに据え、まさにチームにおける攻守の中心としてプレーさせていった。

 麻也がトップチームの練習に参加するようになった頃、彼と練習をする機会が多かった秋田氏も、こう振り返る。

「クラブ全体で麻也を育てようという空気があった。だから将来的にはセンターバックでプレーさせようとしていたのだろうけど、今のサッカー界は足元も上手くなくては厳しい。だからユースではアンカーをやらせてパスさばきを磨かせたのだろうし、トップの練習に参加する時は、センターバックの先輩である僕とコンビを組ませることもしていたと思う」

 こうして、徐々に周囲からの期待を一身に受けることになった麻也。チームでも主将として絶大なるキャプテンシーと、彼特有の陽気な性格を生かし、周囲の選手をまとめていった。

 高校時代のハイライトは、3年時の高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会(現高円宮杯U-18サッカーリーグ)。グランパスU 18は快進撃を続け、見事決勝の舞台にまで進んだ。結局、最後は滝川第二高校に敗れ、準優勝に終わったが、麻也が全国レベルで初めて高みに近付いた経験でもあった。そして、その経験と才能を買われ、麻也は晴れてトップチームへの昇格を果たす。中学1年生の頃に抱いた決心。「絶対にプロにならないといけない」。その思いを、自らの手で実現させたのだった。

 念願のプロでの生活。麻也はそこで、ある行動を取った。若い選手は、何かと同世代の選手同士で固まりがちになる。麻也が昇格した2007年は、同じくユースからの昇格組や大学からの新卒組を含め、新加入選手が総勢7名となった。その中で、彼はいち早くチームに馴染むべく、そしてプロとしての自分の意識を高めるべく、あえて先輩選手と多く過ごす時間を作っていった。

 練習、試合、ピッチ外のプライベートと、彼は大人の選手たちの中で揉まれていき、徐々にプロフェッショナルの感覚を吸収していく。もともと、大人びた性格の少年だったが、ある時期になると先輩たちからも『若年寄』や『おっさん』といった愛情の込められたジョークを投げ掛けられるほどだった。麻也の積極的なスタンスを、周りの先輩選手たちも好意的に受け止め、それがいつしか信頼関係へと昇華していった。

 プレー面では1年目からその潜在能力を買われ、セフ・フェルフォーセン監督の下、4バック、3バックのどちらでも徐々に起用されていき、トップレベルでの場数を踏んでいった。ヘディングで各クラブのFW陣に負けるシーンもほとんどなく、自分の武器である高さが通用する手応えを感じ、少しずつ自信を手にしていった。

 ただし、やはり未熟さも痛感させられた。特に外国籍助っ人との対決となると、力のなさを露呈した。浦和レッズのワシントンには力で屈し、川崎フロンターレのジュニーニョにはスピードでぶっち切られるなど、センターバックとして個人で相手と渡り合うレベルには、まだ達していなかった。

 プロ2年目の08年、チームは新体制となった。監督に就任したのは、グランパスの伝説とも言える、ドラガン・ストイコビッチ。最初は未知数だったピクシーのサッカーだったが、前年以上に攻撃的かつ魅力的な戦いをピッチで繰り広げていった。そして麻也も増川隆洋、新外国籍選手のバヤリッツァとのポジション争いを演じながら、徐々に首脳陣の信頼を勝ち取り、センターバックのポジションをつかんでいった。

 チームの躍進、そして出場機会の増加にともない、徐々に“グランパスの吉田麻也”という名前がサッカー界に浸透していった。そしてその夏、麻也は北京五輪日本代表のメンバーに選出された。予選を1試合も戦っていないだけあって、まさに本人の言うとおり「滑り込んだ形」での吉報であった。

 しかし、本大会では辛酸を舐めることとなった。大会直前の練習試合で、「委縮したプレーをしてしまった」ことでミスを連発。ポジションを他の選手に奪われ、五輪では第1戦、第2戦をベンチで過ごした。チームもその2試合で連敗し、予選リーグでの敗退が決定。自らの力をチームのために生かす機会すら、得ることができなかった。

 迎えた第3戦のオランダ戦。麻也はようやく先発を言い渡された。敗退が決まっているため、消化試合となるこの一戦。それでも麻也は、これまでの自分の消極的なプレーを封印することを心に決め、ピッチに出た。

 対峙したのは、当時オランダのA代表でも活躍していたストライカー、ロイ・マカーイ。麻也は高さと強さで世界基準を体感しながら、決して後手を踏むことなく相手と渡り合い、最後まで封じ込めることに成功した。そして、この時のプレーが、ゆくゆく訪れる欧州移籍のきっかけにもつながっていった。

 09年は完全にチームの主軸としてプレーすることになった。背番号も1年目から付けていた『34』から、DFとしては看板番号の一つである『4』に変わった。「4番は何か強いだけではなく、上手いDFというイメージもあるじゃないですか。それが好きで」と、当時の麻也は自分の番号を気に入っていた。

 このシーズンは、クラブとしてアジアの舞台で戦う機会を得た。初めてアジアチャンピオンズリーグ(以下ACL)に出場することになり、麻也も北京五輪以来の国際舞台に高い意気込みを持っていた。

 迎えた第1節、アウェー蔚山現代(韓国)戦。1点ビハインドの後半、反撃の狼煙を上げる得点を決めたのは麻也だった。クラブとしても記念すべき、ACL初得点。その後、立て続けに2得点を奪い逆転勝利を飾ると、そこからチームはこの大会でどんどん波に乗っていった。

 麻也は準々決勝第2戦の川崎F戦で貴重なヘッドを決めるなど、攻守に活躍。チームのベスト4進出に大きく貢献した。守備だけに留まらず、大事な場面で得点も奪う。麻也が思い描く、理想のセンターバック像が少しずつ現実の姿となっていった時期でもあった。

 そして、ついに目標でもあった欧州挑戦のチャンスを得ることになった。グランパスの先輩でもある本田圭佑も所属した、オランダのVVVフェンロから正式オファーが届いた。前年、北京五輪オランダ戦のプレーをクラブの会長がスタンドで観戦。その時、マカーイを抑え込む麻也のプレーに注目していた会長は、五輪以降も彼のことを注視。その結果、獲得の意思を示してきたという。麻也は自分の夢を実現すべく、移籍の意思を固めた。一方で、それは長らくプレーしたグランパスとの別れを選ぶことでもあった。

 ホーム最終戦となった豊田スタジアムのスタンドには、麻也への思いが託された横断幕が飾られた。それを見た彼は、心を揺さぶられたという。そして、グランパスでの最後の試合となった、10年元旦の第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝ガンバ大阪戦。試合後、真っ赤に染まるスタンドの前に立った彼の目は、涙で溢れていた。

「僕は自分の夢のために挑戦する。でも、グランパスの代表としても世界で戦ってきます」

 12歳からスタートした、赤いジャージを着て戦う日々。その生活にピリオドを打ち、麻也は力強く新たな歩みを進めた。

 ついに到達した、欧州の舞台。しかし、麻也を待っていたのは、試練だった。1月、チームのトルコキャンプに合流すると、その数日後の練習中に左足を負傷。すぐにオランダに戻って手術を受けるも、状態が思わしくない日々が続いた。日本で再検査を受けたところ再手術が必要と診断され、再び長期離脱を余儀なくされてしまった。

 この頃の心情を、麻也はこう振り返る。

「これまでのサッカー人生の中でも、一番辛く厳しい時期でした。再手術と言われた瞬間は『嘘でしょ……』とかなりショックでした。それに自分の存在が世の中から段々忘れ去られてしまうのではと、すごく焦ってもいました。でもそこでサッカーから離れて、改めて考え直せたこともあった。もちろんプレーできるありがたさもそうだし、ファンから応援されるありがたさもそう。これが挫折かどうかは分からないですけど、この経験で人間的にも精神的にもたくましくなれたことは間違いないと思います」

 ケガを克服した麻也は、これまでの鬱憤を晴らすかのように、プレーに邁進していく。そしてオランダで復帰を果たしてから数カ月後、11年1のアジアカップ日本代表のメンバーに選出された。すでに1年前にA代表初選出を果たしていたが、当時は若手主体のチーム編成だった。本格的にチームに合流するのはこの時が初めて。待望のA代表参加を前にしても、麻也はいつもどおり冷静さを忘れていなかった。

「初めから完璧なプレーをしようと思っても無理だし、余計に空回りしてしまう。でも吉田麻也=こういう特長を持った選手、ということだけは、監督や周りの選手に植え付けたいと思っています」

 はたして、麻也はこの大会で様々な局面で注目を集めることになった。 初戦のヨルダン戦、何と自分のオウンゴールで相手に先制を許してしまう。しかしロスタイム、そのプレーを相殺するかのように値千金の同点弾をヘッドで決めてみせた。代表初ゴールは、大事な場面で点を取るという自身の理想像そのままのシーンだった。

 また準々決勝カタール戦では、後半に2枚目の警告を受け退場処分となってしまう。更にそこで与えたFKから失点してしまうなど、麻也にとっては最悪のケースとなってしまった。それでも日本はそこから逆転勝利。ロッカールームで年の若い麻也がグランパス時代同様、「散々いじられた……(笑)」ことは、言うまでもない。

 更にオーストラリアとの決勝戦では延長を含め120分フル出場。何度もピンチにさらされながらも、体を張った守備で応戦し、見事日本の優勝に貢献した。

 そして全国区の注目を集めることになったのが、この年の9月。ワールドカップアジア3次予選の北朝鮮戦で見せたロスタイムの決勝弾である。それは自身が理想像に近いと話していた選手、田中マルクス闘莉王を彷彿させるような勝負強さを発揮した瞬間でもあった。この活躍により、一躍代表の看板選手にまで成長した。その後は記憶に新しいロンドン五輪での活躍や、オランダでの2年半のプレーを経て、今シーズンからプレミアリーグの舞台に立つことになった。今では、その一挙手一投足が注目を集める存在にまで上り詰めている。

 欧州に舞台を移してからの数々の経験も、当然今の麻也の血肉となっている。オランダでは、海外での一人暮らしを経験したことでまた人間として新たなことを学び、プレー面でもこれまで以上にタフな要素の必要性を痛感し、その習得に取り組んできている。

 ただし、現在の吉田麻也という選手、そして人間性を形作ってきたのは、間違いなく日本で出会ってきた人々や経験してきた出来事の影響によるものが大きい。と同時に、彼がそこで養ってきた冷静さや客観性といったものは、今後も間違いなく彼の人生の核となっていくのではないかと感じるのである。

 最後に、彼が十代の頃から取材させていただいている私は、これまでも常にプレーの成長や、素敵な大人になっていく彼の姿を感じさせてもらってきた。ただし、一つだけ変わらない印象がある。18歳、普通なら社会の常識もモラルもまだあまり分からないような年齢の頃の吉田麻也も、そして現在日本を代表する選手となった吉田麻也も、誰よりも思慮深く、クールであることに一切の変わりがないのだ。

 温かさと、冷静さを併せ持つ青年。そう、彼は今も昔も、非常に魅力的な男なのである。