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木場昌雄(元G大阪)「日本と東南アジアをつなぐ架け橋」

2012.09.29

Jリーグサッカーキング10月号掲載】

 

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回ご登場いただいたのは、Jリーグ開幕当初からガンバ大阪でプレーし、キャプテンとしても活躍した木場昌雄さん。

 

G大阪を離れた後、JFLを経てタイへ渡った彼は現在、Jリーグアジアアンバサダーという立場で日本と東南アジアをつなぐ架け橋となっている。そんな彼の現役生活とセカンドキャリアを追った。

 

インタビュー・文=高村美砂

 

写真=吉田孝充

 

引退はサッカー以外のことにチャレンジできるチャンス

 

「目の前のことに対して、他人のせいにしたり、責任を押し付けたりするような、自分と向き合えない人間は、生き残っていけない」

 

 これは彼が選手時代も、そして新たな人生を歩き始めた今も常に心にとどめていることだ。選手時代には試合に出られない時期も味わった。ケガに苦しんだり、思うように前に進めず立ち止まったこともあった。今もそうだ。すべてが順風満帆なわけではない。慣れない仕事に落ち込むこともあるし、思い描くとおりに事が運ばないことも多い。自分はしっかり仕事をしているつもりでも、それが相手に届かないことも、物足りなく感じられてしまうこともまだまだある。それでも自分を見失わず、現実から逃げないこと。それを続けてきた結果、今の自分があると信じられるからこそ、現役時代と変わらないスタンスで今も戦っている。

 

 木場昌雄のプロサッカー選手としてのキャリアは、ガンバ大阪から始まった。Jリーグが開幕した1993年、滝川第二高から加入したての頃はサテライトに甘んじることも多かったが、2年目のシーズンからチャンスをつかむと、以降はコンスタントにピッチに立った。チームメートからの人望も厚く、2001~03年にはキャプテンに就任。気がつけば12年ものキャリアをG大阪で積み上げた。だが、それは本人にも予想外のことだったようだ。

 

「現役時代はとにかく毎日が必死でしたから。長いスパンで物事を考えることはなく、目の前の試合に出場すること、そこで活躍することだけを考えていた。そうやって自分には何が足りないのか、どうすればもっと成長できるのかを日々自問自答し、それを積み重ねてきた結果、気がつけば12年もたっていました。それは今の仕事も同じで、毎日、目の前のことに真摯に向き合い、学ぶことを忘れなければ、いつか結果はついてくると思っています」

 

 現在の仕事に触れる前に、G大阪を離れて以降のキャリアについて補足しておこう。04年でG大阪との契約を終了した木場は、翌年にアビスパ福岡へ移籍。だが、前年度に手術をした左ひざの状態が芳しくなく、思うようにプレーできない時間が続く。当時の年齢は30歳。選手として、年齢的なハンデを感じたことはなかったが、この頃から少しずつ自身の人生について考える時間が増える。

 

「獲得してもらったにもかかわらず全く戦力になれない自分がもどかしく、また、アビスパに対しても申し訳ないという気持ちも強くて。その中で、人生において前に進むとはどういうことなのかということを考える時間が増え、『引退』にたどり着いた。そういう意味で、僕にとっての『引退』は大きな一歩を踏み出したという感覚。実際、そうやってポジティブに決断できたからこそ、しっかりと前に進むことができたんだと思う」

 

 だが、引退後、大阪に戻り、その後の人生を考え始めた木場に、初めて声を掛けてきたのは当時、北信越リーグに所属していたヴァリエンテ富山。皮肉にも『選手』としての打診だった。

 

「引退を決めて白紙の状態でしたが、自分としてはサッカー以外のいろいろなことにチャレンジできるチャンスと捉えていました。当時はちょうど地域リーグからJリーグを目指すチームが増え始めていた時期で、富山もその一つだったのですが、そのチャレンジがどういうものかを純粋に知りたいという思いもあって加入を決めました。自分がJリーグで培った経験を伝えていける場があるということにも面白味を感じていたところもありました」

 

 その思いのままに、富山では純粋にサッカーに向き合った。環境は決して恵まれたものではなく、選手兼コーチという立場でプレーすることの難しさを感じたことも、Jクラブでは味わえなかった問題に直面することも多かったが、いいことも悪いことも、すべての経験を新鮮に受け止めた。それは、その後、MIOびわこ草津に戦いの場を移してからも同じだった。残念ながら試合にはほとんど絡めなかったが、JFL昇格を経験するなど、新しい経験はすべて自身の財産になった。唯一心残りだったのは、全く試合に絡めなかったこと。その事実がタイでのプレーにつながったと言う。

 

「選手に戻って純粋にボールを蹴ることの楽しさを感じていたのですが、びわこ草津でのシーズン終了後にはどこか『やり切った』とは思えない自分がいて。そこでタイでのチャレンジを決めました。タイへは現地に知人がいたこともあって01年から毎年自主トレで足を運んでいたのですが、行くたびに活気のある街、人々の生きるエネルギーや文化に魅せられるようになっていましたからね。それに元G大阪ヘッドコーチのビタヤ・ラオハクルさんとの再会を通じてタイのプレミアリーグを観戦したり、現地のサッカー事情を知るようになっていたことで、前々から漠然と『ここでプレーしたら面白いかもな』と思う自分がいて、その思いを行動に移しました」

 

タイでの経験とこれまでの人脈で東南アジアと日本の架け橋に

 

「年に一度、短期間、自主トレで訪れることと、生活することは違う」

 

 これはカスタムズFCへの加入が決まり、タイでの生活が始まった木場が最初に感じたことだ。1年目は特に文化の違いに戸惑うことも多く、中でもサッカー界にどっぷり身を置いたからこそ見えてきた、レフェリーや指導者のレベル、時間のルーズさ、スケジュール管理の粗末さには苦労することも多かった。それでもタイで生活をしながらサッカーをするという経験は、見ているだけでは得られなかった多くのことを彼の心に刻み、経験として備えさせた。もとより、その手応えがあったのだろう。当初は1年と描いていたタイでのプレーは3年に及んだ。

 

「今になって振り返っても、当時はただサッカー選手として評価されたい、サッカー人生を満足いくものにしたいという思いだけで突っ走っていて、気がついたら3年の月日が過ぎていました。特に3年目のシーズンは1試合を除く全試合に出場できたこともあり、すべての試合を戦い終えた時には一切の未練も後悔もなかった。だからこそ『卒業』を決めました。僕にとってはJリーグを辞めた05年が『引退』で、その時は次の人生に向かうためのサッカー選手からの『卒業』。地域リーグやタイでプレーする間もいろいろな人に応援してもらい、支えてもらって、つながりができたこと。そして何より後ろ髪を引かれることなく選手を卒業できて、本当に幸せでした」

 

写真=吉田孝充

 

 彼が『卒業』と同時に考えなければならなかったのは、そこから先の人生だった。福岡で『引退』を決めた後、06年には大阪市内に『Ki Bar』を、10年には岸和田市に『喜場屋』という飲食店を友人とともに立ち上げてはいたが、木場にとってそれらは「サッカー仲間を含めて、いつでも気軽にみんなと集まれる場を持ちたいという思いでの事業」であり、一生の仕事という考えはなかった。木場はサッカーで生きてきた自分を自覚しているからこそ、またサッカーを通じて得た多くの喜び、人とのつながりを大事に考えるからこそ、自分の歩んで来たサッカー人生を生かしながら、サッカー界にも恩返ししていけるような仕事をしたいと思い描くようになる。それを形にしたのが、11年9月に立ち上げた「社団法人JDFA(ジャパン・ドリームフットボール・アソシエーション)」だ。ここではこれまで培った人脈を生かしながら、東南アジア初のJリーグ選手を誕生させるべく、東南アジア諸国でのサッカークリニック等々の開催や選手スカウティング、Jクラブへの提案等を行っている。

 

「タイに身を置くことで改めてJリーグはアジアの多くの人たちにリスペクトされる存在、環境だと感じました。そのJリーグの環境をそのまま海外に伝授することは各国の文化的な背景を考えても難しいけれど、逆に選手を日本に連れてくることによって彼らが日本のサッカー文化を学び、国に持ち帰って伝授して行くことは可能だと思ったんです。僕がプレーしたタイも含め、アジア各国には高いポテンシャルを持った選手がたくさんいます。そういった選手を発掘して日本に連れてくる。そうすれば、かつて初めてカズさんがイタリアでプレーした際に、日本人の誰もがセリエAに興味を持ったように、アジアの各国の人たちも彼らのプレーを通じてJリーグに興味を持つようになるはずです。それはアジアにおけるJリーグや日本サッカー界の人気を高めることにも、アジアサッカー界のレベルアップや発展にもつながっていくと考えています」

 

 その活動の第一歩として今年の1月にはゆかりの深いタイで初めてJDFA主催のサッカー教室を開催。また、ブルネイでの「21世紀東アジア青少年大交流計画」に参加するなどしながら活動の場を広げつつ、7月には初めて、マレーシア代表選手を2人、FC琉球へテスト生として送り込んだ。また、同事業を実現するにあたり、Jリーグへとの協力体制を築いていた縁もあって、Jリーグのアジアアンバサダーにも就任。Jリーグ主導で促進するアジアサッカー界全体のレベルアップを図るための活動に参加することで、アジア各国との交流を深めている。

 

 といっても、まだ事業を立ち上げたばかりということもあり、自身の未熟さを感じることも多い。それを現実的に仕事として成立させ、利益を生んでいくことの難しさも痛感している。それでも木場は「思いを形にするべく、企画、計画して、実現させていくことは、サッカー選手としては感じられなかった面白さ」だと笑う。

 

「選手時代も練習して、出場チャンスをつかみ、結果を出すことにこだわってやってきた。ある意味、その過程はJDFAも同じかもしれない。ただ、仕事となれば自分だけではなく、多くの人を巻き込むし、おまけに試合のように90分で結果が出るものではないですから。これから先、とにかく自分の思いを信じて続けていくことでしか答えは出ないと思う。正直、そこに不安がないと言えばうそになるけど、少しずつではありますが、アジア各国に仲間も増えてきましたから。彼らとのつながりを大事にしながら、自分を見失わず、しっかりと自分と向き合いながら進んでいきたいと思っています」

 

 そう話す木場の表情には、彼の現役時代に何度も目にしてきたキラリと光る目の輝きが確かにあった。

逆襲のガンバ ~大阪の力を一つに、いざ万博蹴結~ Jリーグサッカーキング2012年10月号

逆襲のガンバ ~大阪の力を一つに、いざ万博蹴結~

 8月24日発売のJリーグサッカーキング10月号は、リーグ後半戦での巻き返しを誓うガンバ大阪を大特集! 巻頭はチームの大黒柱である遠藤保仁選手のロングインタビュー! チームが上昇するため、“常勝ガンバ”に戻るために必要なことを語ってくれました。そしてガンバの前線を担う2人のブラジル人ストライカー、パウリーニョ選手とレアンドロ選手の対談にも注目。こちらもチームに対する思い、勝利に対する2人の思いが詰まった対談となりました。また、古巣を救うべく帰ってきた家長昭博選手は、いかなる思いでガンバへ舞い戻ってきたのか、そしてガンバで挑む新たなチャレンジについて言及。チーム全選手を紹介してくれた加地亮選手はチームメートの知られざる秘密を教えてくれました。  また、今回は同じく大阪に拠点を置くなでしこリーグのスペランツァFC大阪高槻にもスポットを当てています。なでしこジャパンの丸山桂里奈選手、ヤングなでしことして活躍する浜田遥選手、8月に就任した本並健治新監督のインタビューなど注目記事が満載です。ぜひ、ご一読ください!

   
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