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広島市は、サッカースタジアム建設に明確な回答を。石橋竜史・広島市議 2015年12月議会一般質問


写真提供:石橋竜史(以下同)

スポーツマーケティングナレッジ編集部です。今回は急きょ予定を変更し、8日に行なわれた石橋竜史・広島市議による2015年12月議会一般質問の模様を、同市議の許可をいただいてお届けいたします。

先日掲載の「広島にサッカースタジアムが建設されないのはなぜなのか?(前編後編)」は、大きな反響を頂戴しました。今回の記事はある意味その続編でもあります。れっきとした当事者の1人である石橋市議が、広島市議会で行なった一般質問の原稿を、特別に全文掲載させていただく機会をいただきました。

本文は、6600文字前後あります。長いです。が、これはそれだけ石橋市議が本気でこの問題に取り組んでいること、議会質問の文字量一つとってもこれだけの熱量にあるという証左だとお考えください。なおサッカースタジアム建設に関わる部分は4ページ目からになります。これは異例なお願いとなりますが、読み飛ばさずにぜひ、前半からすべて順を追って読んでください。広島市に「なぜ」サッカースタジアム建設が必要なのか、改めて理解できるかと存じます。

なお掲載に際し、改めて編集部より念押しで強調させていただきます。石橋市議は以前よりこの問題に関し誰よりも熱心に取り組まれており、多額の税金をかけることを要求しているのではなく、各委員会等を通じ何度もあらゆるスキームを用い、大手コンサルなどとも連携して作成したプランを提示、提言してきました。決して、「多額の税金をかけてスタジアムを作れ」と迫っているのではありません。文章を読めばお分かりいただけますが、「広島の未来のために、まずは決断を」という内容となっております。

石橋市議の原稿を全文掲載させていただいた経緯上、一部表記がサイト他記事と異なります、ご了承ください。また文中のすべての強調(ボールド)はスポーツマーケティングナレッジ編集部によるものであり、それによって万一不備が生じた場合の責任はすべて同編集部にあることを記させていただきます。

広島市の都市戦略について

はじめに、「広島市の都市戦略」について、お伺い致します。

まずもって、各担当局が所管する個別の多岐にわたる施策に言及するのではなく、なぜ大きな「都市戦略」との括りにしたかと申しますと、今後、人口減少や超高齢化社会、市場経済の縮小と、幾つもの現実に対応して行かなければならない本市にあたり、全ての根幹となる「我々が立ち戻る原点」が、近年は「希薄化しているのではないか?」との懸念が拭えないがゆえ、今一度、広島市のアイデンティティを再認識する意味も込め、こうした言説を用いたモノであります。

只今、申し上げました希薄化との表現は、あくまで私の主観によるモノですが、そこを裏付ける一例として、先ずは直近の「本市における取り組み」に目を向けると致しまして、私が所属する常任委員会や特別委員会では、先月「広島大学・旧理学部1号館の保存・活用」、また「広島西飛行場・跡地の活用」について、今後の活用策を検討して行くにあたり、一般市民の方々や民間事業者からアイディアや提案を募集する運びとなりました。

しかしながら、例えば「広島西飛行場の跡地活用」についても、「スポーツ・レクリエーション機能」や「新たな産業・雇用・にぎわい機能」とのテーマは定められておりますが、全ての出発点となる「現行の都市基盤を総合的に勘案しては、観音エリアと他のエリアを結び、連動性を持たせ、如何に機能配置しては、最終的な都市のグランド・デザインに寄与させるのか?」こうしたコンセプトの部分が、全く前景化して参りません。

つきましては、改めて原点に立ち返る意味でも、戦後から今日を迎えるまでの「本市の近代史」を再確認するとして、本市では、今から66年前となる昭和24年に「平和記念都市建設法」が制定されました。

戦後における本市の再建にあたっては、財政的にも逼迫した状況が続く折、用いられる、あらゆる手段を駆使しては復興を遂げなければならない。

そこで、当時の市長、職員、市議会、地元選出の国会議員が一丸となり、国へ働き掛け、紆余曲折を経ては、衆参両議院を通過させ、憲法第95条に基づき、地方公共団体として日本初となる住民投票まで行った後、実現、制定されたのが、この平和記念都市建設法でもあります。

こうした一連の背景には、「この地上から、戦争の恐怖と罪悪を根絶しては、真実の平和を確立しよう」「永遠に戦争を放棄して、世界平和の理想を地上に建設しよう」との広島市民が世界へ向けて発信した当時の平和宣言が揺らぎなき信念として、難航を極める法制定への道程を後押しした事は、ここに強調するまでもありません。

ゆえに、平和記念都市建設法は枝葉を省き、本市が世界へ向けて取り組む指針を明確に示すべく“わずか七条”から形成されており、その第一条には、「恒久平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設する事を目的とする」とあります。

重ねて、法制定の実現へ向け、誰もが一丸となって邁進すると時を同じくして、世界各国からも、広島の再建に多大な関心が寄せられ、何百にも上る要望が本市へ届けられました。

当時、アメリカでは、政治家や文化人より「広島ピース・センター建設委員会」が組織され、同委員会では、記念塔、平和記念館、図書館、科学研究所、音楽堂、劇場、児童文化会館、体育場、ホテル、その他の、各種、模範となる社会事業施設を「出来るならば広島市の爆心地付近に設置して頂きたい」との構想を打ち出され、また都市計画に関する専門家らは、異口同音に「広島は、全世界の注目を引いた事実を認識すべきで、すなわち広島は建設的にせよ、破壊的にせよ、新たな時代の到来を最初に世界へ告げた土地として、今後、永久に訪問者の興味をひくであろう」「世界平和へ向けた広島市の復興は世界的にも絶好の機会である」と唱えられました。

その他にも、海外の新聞や雑誌からは「各種の平和運動会議は是非とも広島で開催すべきである」と幾多に上る要望が寄せられるなど、平和を希求する世界の人々より「広島の戦災に対する恐怖や同情を越えて、広島を世界平和の発祥の地として、また聖地として、それに相応しい都市を建設し、もって広島を永遠に記念しなければならない」との声が高まりウネリとなっていたのは、まがう事なき事実です。

こうした世界規模に及ぶ人類が熱望する声に触れ、「平和記念都市建設法案」が上程された国会では、広島選出の「山本・ひさお」衆議院議員が、提出者の趣旨説明として次の様に述べられています。

「世界の世論に応える事は、いち広島市民のみならず、戦争を放棄した我々日本国民全体の義務であり、また同時に、世界人類に対する最大の貢献でもあります」と。

また、昭和24年5月、衆参両議院を誰一人が異議を唱える事も無く通過した後、最終的には法の施行までに広島市での住民投票が行なわれるのですが、その投票日を前に、当時の浜井市長は次の様に市民へ訴えられます。

「焼野原の上に、新たな平和都市を建設する事は、より一層の意義があるばかりでなく、そうする事により、我々は初めて戦争犠牲者の犠牲を意義、あらしめる事が出来ると考える」「この法律が示す様に、平和記念都市としての広島市の建設が成功した暁には、市民諸君の幸福は勿論、政治的にも経済的にも、国家、並びに世界人類に絶大な貢献をする事が出来る事を信じて疑いません」。

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