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【ユーロ初出場国の真実】受け継がれた意志の力…ウェールズが58年ぶりの国際舞台へ

2015.11.15

[ワールドサッカーキング12月号掲載]

実に58年にも及んだ長い“敗北の歴史”を経て、ウェールズ代表が国際舞台への返り咲きを果たした。悲願のユーロ初出場―。今回の偉業には多くの英雄たちが紡いだ“意志の力”が宿っていた。

Bosnia and Herzegovina v Wales - UEFA EURO 2016 Qualifier

文=田島大
写真=ゲッティ イメージズ

 敗戦後にこれほど喜んだチームがかつてあっただろうか。2試合を残し、ユーロ2016出場に「あと勝ち点1」と迫っていたウェールズは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとのアウェーゲームで今予選初黒星を喫した。試合終了の笛が鳴ると、ウェールズの選手たちは何ともいえない表情を浮かべた。その顔には試合に敗れた悔しさと最終戦への決意、そして過去のトラウマが同居しているようだった。だが、他会場の結果が入ってくると、その表情はすぐに満面の笑みへと変わり、胴上げされた指揮官が宙を舞った。

 ウェールズにとって1958年ワールドカップ以来となる、58年ぶりの国際大会。実に長い雌伏の時だった。何度もあと一歩まで迫り、そのたびに失意を味わってきたが、その苦い記憶の中には受け入れられないPKや、思い出したくもないキスがあった彼らが“正規ルート”で国際大会の本戦に出場するのは今回が初めてだ。唯一経験した58年W杯の時は、実は予選で一度敗退しているのだ。だが、敗者復活のチャンスは唐突に訪れた。8チームによって行われたアフリカ・アジア予選で、複数国に対戦をボイコットされたイスラエルが“試合なし”で出場権を獲得する事態となる。これを良しとしなかったFIFAは、急遽大陸間プレーオフの開催を決定。対戦相手を決める抽選で最初に引き当てられたのはベルギーだった。だが、彼らがプレーオフへの出場を拒否したことでウェールズに声が掛かった。こうしてイスラエルを下した彼らはW杯出場を決めたのだ。

 もっとも、祝賀ムードは24時間も続かなかった。プレーオフ第2戦の翌日、「ミュンヘンの悲劇」が英国フットボール界に暗い影を落としたからだ。ウェールズ代表を率いていたジミー・マーフィーのショックは計り知れないものだった。彼は当時、マンチェスター・ユナイテッドのアシスタントコーチを兼任しており、もしプレーオフがなければ同じ飛行機に乗っていたかもしれないのだ。マーフィーは悲しみの淵から這い上がり、ウェールズをW杯でベスト8に導いたが、準々決勝でエドソン・アランチス・ドゥ・ナシメントという名の17歳のゴールによってブラジルに屈することになる。のちに“神様”と呼ばれるペレの記念すべきW杯初ゴールだった。

Sport, Football, pic: 17th November 1993, World Cup Qualifier, Cardiff, Wales 1 v Romania 2, Wales defender Paul Bodin fails to convert his vital penalty kick, costing Wales qualifying for the 1994 World Cup Finals

PKに翻弄され続けたウェールズの負の歴史

 次にウェールズが国際舞台に近づいたのは、78年W杯の予選だった。リヴァプールを3度のリーグ優勝に導いたジョン・トシャック擁するチームは、勝てば予選突破に大きく近づくスコットランドとの一戦で主審のジャッジに泣くことになる。0-0で迎えた78分、ウェールズのゴール前の競り合いでボールが“誰か”の手に当たると、主審は迷わずPKを宣告。しかし、リプレー映像で映し出されたのは青いユニフォームを着た選手の手がボールに触れるシーンだった。更にウェールズ国民の感情を逆なでしたのが、PK判定が下った後、スコットランドのFWジョー・ジョーダンが自分の手にキスするような仕草を見せたことだ。このPKを決められたウェールズは、その後に追加点を許して敗れてしまう。

 ウェールズは86年W杯の予選でもスコットランドに屈している。ここでも両者の明暗を分けたのはPKだった。イアン・ラッシュとマーク・ヒューズの強力2トップを擁したウェールズは、最終節でスコットランドに勝てばプレーオフ進出以上が決まる状況だった。だが、1点リードで迎えた試合終盤、またしてもウェールズのゴール前でハンドが発生。今度は間違いなくウェールズDFの手に当たっていた。結局、このPKによってウェールズは敗退。しかし、プレーオフ進出を決めたスコットランドにも笑顔はなかった。試合終了直前、当時の代表監督で、セルティックを英国勢初のチャンピオンズカップ優勝に導いた英雄ジョック・ステインが心臓発作で倒れ、スタジアムの医務室で息を引き取ったのだ。ちなみに、彼の後を継いでW杯本番でスコットランドを率いた男こそ、ステインのアシスタントを務めていたアレックス・ファーガソンである。

 それから8年後。日本がドーハの悲劇に涙し、フランスがブルガリア戦で悪夢に見舞われた94年W杯予選でも、ウェールズはPKによって運命を左右された。ライアン・ギグスやガリー・スピードの台頭もあり、ウェールズは最終節でルーマニアを下せばアメリカ行きの切符を手にするという状況。対するルーマニアもゲオルゲ・ハジやフロリン・ラドチョウを擁し、予選突破にリーチを掛けていた。試合は序盤からゲームを支配したルーマニアがハジのミドルシュートで先制。ウェールズの守護神ネヴィル・サウスオールにとっては、ボールが脇の下をすり抜ける悔しい失点となった。

 後半に入ると、真っ先に動いたのはイギリス国営放送『BBC』だった。『BBC』は当初、同時刻に行われていたイングランド戦を中継していたが、イングランドの予選突破が絶望的になると、英国4協会で最も予選突破が現実的だったウェールズの試合に中継を切り替えたのだ。同局には5分間で約3万400件もの苦情の電話が殺到したが、視聴者数は約6倍にまで跳ね上がったという。“隣人”のイングランド人も見守る中、ウェールズは61分にギグスのFKをディーン・ソーンダースが押し込んで同点。その2分後には、エリア内でスピードが倒されてPKを獲得し、これまで何度も泣かされてきたPKで勝ち越しのチャンスを得る。キッカーはそれまで代表戦で3つのPKを決めていたDFポール・ボディン。決まれば逆転、いよいよ本戦出場へのカウントダウンが始まる。ボディンはルーマニアのGKがキスしたボールを手に取ると、しっかりと拭いた後で思い切り左足を振り抜いた。しかし、ウェールズの夢はクロスバーを叩く音とともに崩れ去った。

Wales Football Training

歴戦の英雄たちが現在の代表を作り上げる

 それから更に10年の時を経て、ウェールズは再び大舞台まであと一歩のところに立っていた。ユーロ04予選でプレーオフに進出。運命の相手はロシアだった。

 スコアレスドローに終わったモスクワでの第1戦では、エースのギグスが執拗なマークに遭い、ヴァディム・エフセエフの危険なタックルをきっかけに小競り合いが生じた。エフセエフは肘打ちを受けたと言わんばかりに顔を押さえて倒れ込み、ギグスを退場に追いやろうとしたばかりか、試合後もギグスを処分するよう執拗にUEFAへ訴えた。

 最終的にギグスはおとがめなしで第2戦に出場できたが、その試合で唯一のゴールを決めたのはカーディフで誰よりも大きなブーイングを浴びていた選手だった。スコアラーは第1戦で因縁が生まれたエフセエフ。試合が終わると、彼はカメラに向かって「お前らはユーロに行けねえんだ!」とロシア語でウェールズを嘲笑した。

 何とも後味の悪い争いは、試合後も収まらなかった。後日、ロシアの選手がドーピング検査に引っ掛かったことが判明すると、ウェールズはロシアの出場権をはく奪し、自分たちに譲渡するようUEFAやスポーツ仲裁裁判所に働き掛けた。しかし訴えは聞き入れられず、「ウェールズ史上最高」と言われた天才ウインガーは、国際大会に出場する最大のチャンスを逃してしまう。

 そこから更に時計の針は進み、12年後の2015年10月10日、ギグスに劣らない才能がボスニア・ヘルツェゴヴィナの地で喜びを爆発させていた。「キャリア最高の敗戦だ」。興奮しながらそう語るギャレス・ベイルは、今予選でチーム総得点11のうち7ゴールを叩き出している。中盤ではアーセナルのアーロン・ラムジーが躍動し、主将を務めるアシュリー・ウィリアムズは、持ち前の統率力で予選10試合をわずか4失点で乗り切った。クリス・コールマン監督の下、久々にそろった自慢のタレントたちが、58年ぶりとなる快挙を成し遂げたのだ。

 主役は選手たちだけではない。スコットランド戦の“ハンド”に泣いたトシャックは、04年から代表を率いて若手主体のチームへの移行を推進した功労者である。ルーマニア戦で同点弾を決めたソーンダースはトシャックの右腕を務め、同じ試合でハジにゴールを許したサウスオールはU-19代表のコーチとして若手の育成に貢献。“運命のPK”を外してしまったボディンもアンダー世代のコーチを歴任してきた。

 ゼニツァの空にコールマンが舞った夜、ウェールズ国民の脳裏には、失意の57年間でタスキをつないできた英雄たちの顔が浮かんだことだろう。しかし、ルーマニア戦でPKを獲得し、03年のロシア戦では腕章を巻いていた英雄の一人はもうこの世にいない。2010年にトシャックから代表監督のバトンを受け取り、若手を中心にエキサイティングなサッカーで母国に自信を取り戻させたスピードは、201年11月に42歳の若さでこの世を去った。彼の訃報はウェールズ国民だけでなく、サッカー界全体を悲しみの底に突き落とした。しかし、ウェールズは決して立ち止まらなかった。後任のコールマン、そして英雄たちに育てられた自慢のタレントが故人の遺志を引き継ぎ、ついに結果を出したのだ。

 予選突破後、コールマンはこう語った。「彼はほほ笑みながら我々を見守ってくれていることだろう。私はそう確信している」

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