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エミレーツに降臨したチリのワンダーボーイ…アレクシス・サンチェス

2015.06.19

[ワールドサッカーキング7月号掲載]

心に炎を、脚に稲妻を宿した男、アレクシス・サンチェスはわずか1年でエミレーツ・スタジアムのヒーローになった。シャイな青年はどのようにして世界的スターへと上り詰めたのか。チリの最奥地から始まった果てなき冒険をたどる。

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文=マーティン・マズール
翻訳=田島大
写真=ゲッティ イメージズ

 精巧に作られた繭の中で生きるスーパースター。アレクシス・サンチェスにはそんな表現が適している。シャイで控えめな彼は、メディアの取材に快く応じるタイプではない。話すスペイン語が同じチリ人にさえなかなか通じないことも、彼を取材嫌いにさせた理由なのかもしれない。とにかくサンチェスは、ピッチ外での話題に極めて乏しい選手だ。

 チリのサンティアゴからブエノスアイレス、ウディネ、バルセロナを経てロンドンへ。サンチェスは過去8年間、いろいろな町を渡り歩いてきた。だが、彼のライフスタイルが変わることはない。練習後は自宅に帰って健康的な食事をとり、派手なナイトライフとも無縁。彼が“ニーニョ・マラビジャ”(ワンダーボーイ)と呼ばれてピッチで活躍できるのも、そうした節制生活のおかげだ。

 これまでクラウディオ・ボルギ、ディエゴ・シメオネ、ペップ・グアルディオラ、更にはマルセロ・ビエルサやアーセン・ヴェンゲルなど、全く異なるサッカー観を持つ名将たちが、彼のプレーに恋心を抱き、チームの中心に据えてきた。その理由はいたってシンプル。指揮官たちはすべてを破壊する“鉄球”のようなプレースタイル、飾り気がなく常に真正面から挑んでいく彼のプレースタイルに魅せられてきたのだ。

 この1年間でアーセナルのファンが実感したように、サンチェスはアーミーナイフさながらの多様性を備えている。彼はウインガーであり、MFであり、FWでもある。その純度の高いインテンシティに嘘偽りはない。大半の選手は「負けるのが嫌いだ」と口にするが、サンチェスにはそんな言葉さえ不要だ。そのプレーを見れば負けず嫌いであることは明白。だからこそ名将たちは彼にほれ込み、チームメートは感化され、サポーターは魅了されるのだ。


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素足でボールを追ったストリート時代

 そんなサンチェスの“素顔”を垣間見られる場所が2つある。1つはピッチの上、そしてもう1つは彼の故郷である。チリの首都サンティアゴから北へ1600キロのところにある山と荒野と海に囲まれたトコピージャ。この小さな町でサンチェスは生を受けた。

 彼はトコピージャについて「ビニャ・デル・マールを小さくしたような場所」と話したことがあるが、保養地として名高いビニャ・デル・マールと埃ほこりっぽい沿岸の町トコピージャには「海」以外に共通点はない。起伏の激しいこの土地を訪れると、目に入ってくるのは切り立った崖やデコボコの細い道、そして今にも崩れそうな家屋だけ。世界でも有数の乾燥地帯であるこの地方は、チリの人々から「悪魔地帯」と呼ばれている。

 風景を要約すると、湾と港、そして黒い煙を吐き出す火力発電所の巨大な煙突が2本。2007年に地震の被害に遭って以来、この地域ではいまだに復旧作業が続いている。震災のダメージは町の至る所でうかがえる。サンチェスの母や叔母の家を含むほぼすべての住宅が、震災の影響をもろに受けたのだ。

 だが、贅沢や名声とはかけ離れたこの場所に戻ると、サンチェスは周囲の人々に心を開く。町中のバーに足を運んで地元の人たちと会話を楽しんだり、親戚や知人を訪ね、友人たちとサッカーに興じたりもする。

 この町でのサンチェスの愛称はアルディージャ(リス)を略した「ディージャ」。裸足でストリートサッカーに夢中になっていた少年時代、民家の屋根に上がってしまったボールを素早く駆け上がって取りに行っていたことがその由来だという。元気で活発だったアレクシス少年は、町のみんなに知られる存在だった。

 サンチェスはあるTV番組のインタビューで、「子供の頃は幸せだった」と答えている。「質素どころかかなり貧しかったけど、あの頃に戻れるのならすべてを捨ててでも戻りたいよ。僕は世界一幸せな子供だったと思う。だからこの町に戻って来るのがいつも楽しみなんだ。ここには家族、友達、そして素晴らしい思い出がある。海も大好きだね。ここの海は一番のお気に入りだ。海さえあれば、僕はハッピーなんだ」

 彼の父はサンチェスが生まれる前に町を出てしまった。代わりに父親の役目を務めてくれたのは、4年前に他界した叔父のホセ・デライグだった。そのためアレクシスや兄のウンベルト、姉のマルジョリー、妹のタマラは、親に迷惑を掛けることができなかった。近くの町で魚を売って生計を立てていた母を助けるため、サンチェスは墓地に止められた車を磨いたり、盗難に遭わないように見張ったりして小銭を稼いで家計を助けた。2013年のインタビューではこう話している。「お金を稼ぐのは簡単じゃなかったよ。母親には『心配しないで。僕がサッカー選手になったらすべてうまくいくから』と言っていた。友達にも車や家を買ってあげると約束していたんだ。母は笑っていたけどね」

 サンチェスは6歳の時に、地元クラブのアラウコでキャリアをスタートさせた。「よく覚えている。彼はすごい才能を持っていたからね。入団した時から、他の誰よりも素早かった」。そう語るのは当時の監督アルベルト・トレドだ。トレドは当時の練習風景の写真を片手にこう続ける。「他の町へよく遠征したもんさ。アレクシスは落ち着きがなく、いつもソワソワしていた。彼が毎試合出場することに不満を持つチームメートもいた。アレクシスはストリートサッカーを続けていて、クラブの練習にはあまり顔を出さなかったからね。でも、彼は試合になるといつも決定的な仕事をしてくれた」

「特に記憶に残っている試合がある。彼は自陣ボックス内でボールを拾うと、ドリブルを始めて相手チームの選手を全員抜き去ってしまったんだ。ヘトヘトになって敵陣ゴール前にたどりついた時、相手GKの危険なタックルで倒された。でも彼は炎天下の中、声も出ないほど息を切らしながら、ベンチを見つめていた。GKに蹴られた個所を気にする様子もなく、自分にPKを蹴らせてほしいと訴えていたんだ。それがアレクシス・サンチェスという男だよ」

 自分よりも2歳年上の子供たちを相手に1試合で8ゴール決めたこともあった。ある時には特別に許可をもらって同時に2つの大会に出場し、両方の大会で優勝したこともある。だがそんな逸話さえ、近所で毎日のように汗を流したストリートサッカーに比べたら大したものではなかった。「裸足でサッカーをしていたおかげで今の僕のプレーがある。石を避けるために飛び跳ねながらドリブルしていたからね」。もちろん、その頃はポジションや戦術とは無縁だった。「監督に右ウイングでプレーしろと言われたことがあったんだけど、僕は『それはどこですか?』と聞き返してしまったよ」

 初めて自分のスパイクを手に入れたのは15歳の時だった。アラウコをサポートする町長がサンチェスの存在を知り、リーボックのスパイクをプレゼントしてくれたのだ。「芝生用のスパイクだったけど、あまりにうれしくて道路で履いてプレーした」とサンチェス。実はそれまで自分のスパイクは持っておらず、試合の時だけ母親が借りてきてくれていたのだ。

 トコピージャは人口2万5000人程の小さな町だが、それでもこれまで数多くのプロ選手を輩出してきた。もっとも、この地域を出て全国区の選手になった者は限られる。その数少ない一人が、リーベル・プレートでプレーし、チリ史上最高のDFとうたわれたアスカニオ・コルテスだ。そして多くの先輩たちがそうだったように、サンチェスも郷土愛が異常に強かった。13歳の時にランカグアのチームに誘われたが、地元から1200キロも離れた町で暮らすのは論外だった。プロ選手への最初のチャンスを逃したかに思われたが、この程度で彼の才能が埋もれるはずもない。新たな扉はすぐに開かれた。しかも二度目は状況が違った。彼に興味を示したアタカマ砂漠のクラブ、CDコブレロアは、実家からわずか120キロほどの場所にあった。

 前出のトレドは説明する。「アレクシスに負けないくらいの技術やポテンシャルを持った子供は大勢いたが、誰も大成しなかった。成功するためにはサッカーに専念し、道を踏み外さず、自立する必要があるんだ。貧しい環境で育った子供には、決して簡単なことではない。だが、アレクシスは絶対に成功できると確信していた。彼には、自分の夢のために必死に努力する決意があったのさ」

『ラ・テルセラ』紙の元同僚ニコラス・オレアとともにサンチェス唯一の自叙伝『アレクシス:クラックの冒険』を共同執筆したダニーロ・ディアスは、コブレロア時代のサンチェスについてこう話している。「コブレロアでのデビュー戦はよく覚えているよ。まだ16歳だった。デポルテス・テムコとの5-4の試合は有名な話さ。あまり若手を使わないことで有名なネルソン・アコスタ監督が、負けている状況で一人の少年をピッチに投入した。すると、その子がすごいプレーを見せて試合をひっくり返してしまったのさ。あの頃からアレクシスは特別だった。彼がサンティアゴで試合をする時は欠かさず見に行くようになった」

 サンチェスは圧倒的な加速力を見せた後、物理の法則に反するかのように急停止。そしてまた急発進と急ストップを繰り返すのだ。試合結果やチームの出来に関係なく、彼の動きはそれだけでスペクタクルだった。練習で彼の相手をしたベテラン選手たちは、練習が終わると決まってグラウンドに倒れ込んだ。サンチェスは磨かれる前のダイヤモンドであり、のちにどんな輝きを見せるのか誰にも想像できないほどだった。そんなワンダーボーイの評判は、すぐに国境を越えることになる。

 ボルギ監督はサンチェスをチームに勧誘するため、自ら受話器を手にした。当時コロコロを率いていた彼は、アリゴ・サッキと比較されるほどの名将で、06年には南米年間最優秀監督賞を受賞している。南米のサッカー関係者なら知らない者はいない存在。だが、予期せぬ電話に若者の思考回路は止まってしまったようだ。電話口の相手がボルギだと名乗っても、サンチェスはそっけない態度をとった。「ボルギ? 誰ですか? ボルギなんて知らないよ」

 ボルギは17歳の少年に自分が何者なのかを説明し、どうしても君がほしいと熱心に口説いた。その甲斐あって、既にウディネーゼに買い取られていたサンチェスを1シーズンのレンタルでコロコロに迎えることができた。ボルギはサンチェスの加入を「クリスマスが半年早く来たようだ」と手放しで喜んだ。ワンダーボーイもその期待に答えるようにすぐに躍動、国内タイトルを2つ獲得し、チームをコパ・スダメリカーナ決勝へと導いた。なお、この頃に初めてまとまったお金を手にしたサンチェスは、母親と兄妹のために家を建てている。

 コロコロはチリ最大のビッグクラブであり、本拠地は首都サンティアゴである。大都会に移り住んだシャイな少年は、まるで初めてニューヨークに来た『クロコダイル・ダンディー』のようだった。コロコロでの練習初日、ロッカールームにクッキーが用意されていることにサンチェスはとても感激したという。

 アルゼンチンやイタリア、スペイン時代などサンチェスのスペシャル・ストーリーの続きは、ワールドサッカーキング7月号でチェック!

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