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「ヨコハマ・フットボール映画祭」を見に行こうよ!~映画祭の実行委員がすすめる『オフサイド・ガールズ』はどんな映画?~

2015.01.07

ツイッターから流れてきたゲストの名前

 ツイッターを眺めていたら、平日の昼にサッカーキングがやっている情報番組の告知が届けられていて、そこには「ニコ生ハーフ・タイムでは、オススメのサッカー映画特集をお届け!ゲストの福島氏の」という文が流れて来たから、最後まで文字を目で追っていくと「おすすめの一は『オフサイド・ガールズ』です」と綴ってあった。

 番組を見ていない人のために少し説明すると、サッカーキングからのツイッターに記されている「福島氏」とは、「ヨコハマ・フットボール映画祭」の実行委員の福島成人さんのことで、この映画祭は名称の通りフットボールに関わるテーマを題材にした映画を世界中から探し出して、日本の横浜市で開催した映画祭で2011年から始まり今年で5年目になる。

 昨年まで横浜市だけで行われていた映画祭は、今年から新潟(1月17・18日)を出発点に全国8道府県8都市で開催されることになり、日本では劇場初上映の作品も含まれていて、是非とも劇場や会場に足を運んでほしいと思っているし、それに福島さんには今回の映画祭について語ってもらった話をまとめた記事が近くアップされるからこの話題はここまでにして、福島さんがおすすめのひとつだと言った『オフサイド・ガールズ』について話していくことにしよう。

【映画】
『オフサイド・ガールズ』
製作、編集、監督/ジャファル・パナヒ
脚本/ジャファル・パナヒ、ジャドメヘル・ラスティン
撮影/ハマムード・カラリ
キャスト/シマ・モバラク・シャヒ、サファル・サマンダール、シャイヤステ・イラニ、M.キェラバディ他

【ストーリー】
 イランでは、女性が男性のスポーツを公共の場で観ることを禁じている。そうした規制の中、登場人物の少女たちが、サッカーのイラン代表よるドイツW杯アジア最終予選の本戦出場を懸けたバーレーン戦を、スタジアムで見ようと孤軍奮闘する様子を描く。監督は『チャドルと生きる』でベネチア国際映画祭金獅子賞に輝いたジャファル・パナヒ。イランの女性問題というシリアスな題材と、サッカー観戦への熱情を表現したハートフル・ドラマだ。

監督が仕かけたいくつかの伏線

 映画監督は、観客に自分の作品のテーマを理解してもらうために、作品の中に伏線となるいくつもの仕掛けを置く。『オフサイド・ガールズ』を撮った監督はジャファル・パナヒというのだが、彼も同様に作品の中で機知に富んだ仕かけを行う。

 1つ目の仕かけは、映画の冒頭シーンの年配者のセリフから始まる。サッカーイラン代表のサポーターたちは、バスに乗って試合会場に向かう。そうした中で、サポーター同士がちょっとした喧嘩をする。その様子を見ていたバスの運転手は、あまりの幼稚な内容に呆れて仕事を放棄する。

 サポーターたちは、やっとのことで運転手をなだめる。そのときにリーダー格のサポーターが、喧嘩相手のおじいさんにこんなセリフを吐く。
「年寄りがどうしてスタジアムに行くんだ?」
 質問を受けたおじいさんは答える。
「普段の生活では言えない、罵声や汚い言葉を吐くためにスタジアムに行くのさ」
 彼の話を耳にした一人の少年は、大声で叫ぶ。
「そんなことのためにスタジアムに行くなんてバカだな!」
 しかし、リーダー格のサポーターは少年の言葉を制した。
「そうか。すばらしいことだ!」
 と、言ってリーダー格のサポーターとおじいさんは抱擁する。

 スタジアムでは男性が「罵声や汚い言葉を吐く」場所である、ということをセリフで言わせている。つまり、スタジアムでサッカーを観られるのは男性だけであって、スタジアム観戦は「女人禁制」であると直接的なセリフを使わないことで、逆に男性の特権的な権利を言い表している。

 2つ目の仕かけは、映画で取り上げている試合時間と上映時間を同じにしたことだ。2005年6月8日、ドイツワールドカップへの出場をかけたアジア最終予選でのイラン対バーレーン戦。この試合は、ロスタイムを入れて92分間の死闘が演じられた。監督は、試合時間と映画の上映時間を同じにすることよって、観客にスタジアムの臨場感とワールドカップ出場を決める試合の緊迫感を示そうとする。

 3つ目の仕かけは、ピッチでの選手のプレーが画面に映るのはほんの一瞬だけということだ。試合の展開のほとんどは、テレビに映る画像と会場警備に当たった兵士による即興の実況で語らせる。

 これは次のような理由がある。

 女人禁制のスタジアムに、少女たちがいろんな工夫をして潜り込もうとする。しかし結局、彼女たちは捕まってしまい、スタジアムから鳴り響く歓声しか聞こえない場所に隔離される。彼女たちが感じる「居たくもない場所に居させられる」という閉塞感。また「どうしても見たい試合なのに絶対に見ることができない」という断絶感。そうした彼女たちの思いを表現するために、実際に選手が行うプレーをあえて映さなかったのだ。

 こうした監督の仕かけは、映画の中で見せる「遊び」の一種に過ぎない。

 スタジアムの中で捕まった少女たちは、あの手この手で「サッカーを見せてくれ」と監視役の兵士に訴える。彼ら彼女らのやり取りは、確かにユーモアあふれるものだ。しかし、ユーモアを持って描く映画には、逆にユーモアを持ってしか描けない事情が深層に隠されていると考えた方がいい。

ユーモアでしか描けない厳しい現実

 ジャファル・パナヒ監督は、1995年の処女作『白い風船』で少女を主人公にして作品を作った。当時のイラン映画は、少女をメインにする作品が多い。その理由は、全身をすっぽりと覆う民族衣装の「チャドル」や髪を隠すベールの「ヘジャブ」をかぶらないといけないから、大人の女性がそれらの布を外して素顔のままで表に顔を出せない、という宗教上の理由によって少女を主人公にした映画が多かった。

 2000年に撮った彼の出世作『チャルドと生きる』は、大人の女性が数名登場するオムニバス形式の作品である。21世紀になってやっと、大人の女性が素顔のままで、主人公となった映画を撮れるようになる。しかし、パナヒの作品は本国イランでいまだに劇場公開されていない。しかし、インターネットの普及によって一部のイランの人々は、画像を観られるようになってきたという。2013年の調査によれば、イランのインターネット普及率は約32%であり、日本は約90%近い普及率にある。

 イスラム教社会の中で、イランは人口7千500万人の内の3分の2が、イスラム原理主義を唱えるシーア派に属する。したがって、女性に対する宗教上の戒律はとても厳しい。

 イラン社会の女性に対する厳しさは、アザール・ナフィーシー作の『テヘランでロリータを読む』(白水社)に詳しく述べられる。この作品は2006年に翻訳されたもので、2014年にナフィーシーの最新作『語れなかった物語: ある家族のイラン現代史』(白水社)が翻訳された。

 このコラムでは、『テヘランでロリータを読む』について述べたい。
 著者の彼女は、イラン革命後に自国の大学を追われアメリカに亡命した学者だ。本のタイトルにある『ロリータ』とはウラジーミル・ナボコフの作品で、12歳の少女に一目惚れした男が、彼女を生涯拘束しようとする内容だ。周知のことだと思うが、『ロリータ』は1962年にスタンリー・キューブリック(1928-99)によって映画化されている。

 ナフィーシーは、イラン革命で監視下にあったとき、イランでの禁止書『ロリータ』の読書会を女性だけ集めて開催した。その回想録が彼女の著書『テヘランでロリータを読む』である。

 彼女は拘束された『ロリータ』の少女と彼女自身を対比して、自分たち女性は「自由を奪われ、厳しい道徳や規制を強制され苦しんでいた」と言う。彼女の発言は、文化における性差別の克服をテーマにした「フェミニズム」にあたる。

 しかし、日本のような戦争がない国に生まれた僕たちが、イランと日本では文化的な背景がまったく違うし、イランでの女性たちが不自由な生き方を強制させられているからと言って、どちらが重要なのかと問題の軽量を問うことは間違っていると思う。なぜならば、どの国に生まれようとも、女性という「性」に関して優越をつけて問うことで、間違っていると思われる事柄が改善されるわけではないからだ。

なぜ、映画はあるのか?

 このコラムが社会派のようなテイストになってしまったが、書き手の僕は、そうした社会派から遠い場所に身を置いて、ピッチで行われるサッカーを語りたいと望んでいる。つまり、サッカーイデオロギーとはかけ離れた思考をもってサッカーを観たいのである。

 ただ、『オフサイド・ガールズ』もそうなのだが、映画という作品を世に送り出す監督は、何らかのメッセージをもっているから作品にする。だから、社会がどうなのかという問題を考えたくなくても、映画には監督が含ませたメッセージが詰っている。そのメッセージを読み解こうとする行為に、僕はスリルを感じてしまう。だから、僕は「この映画をこう読み解きました」という見方を書こうとするのだ。

 なぜ、この世の中に映画という作品があるのかを考えてみる。

 僕たちの普段の生活は、そんなに劇的なドラマに溢れてはいない。誰にも辛いことや苦しいことはあるし、自分のことではないことに力を貸さないとならないこともある。日常に追われると、旅行だって簡単には行けないし、もしかすると突然、病魔に襲われてしまうことだってある。

 もしも、映画が非日常の世界を僕たちに提供してくれるツールのひとつならば、僕たちは、普段生きていて経験できないことや見ることのない世界に連れて行ってくれるのが映画という作品だと言えなくはないか。

 『オフサイド・ガールズ』を観て、読者のあなたはどのように感じるのだろうか。僕は、女性とはどんな存在なのかと考えた。きっと女性とは、「愛されるためだけに存在する」のではない。女性は「理解されるためにも存在する」のだと、僕は、自分の愛する人のことを想ってパソコンのキーボードを終らせよう。

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