2014.06.01

【プレイバックW杯】「ブルガリア 冒険譚」1994年 アメリカ大会

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地区予選最終節、残り30秒の劇的な逆転弾に、前回王者ドイツを粉砕したダイビングヘッド。1994年W杯でまばゆい光を放ったブルガリアの軌跡を追う。

 ブルガリアの冒険譚はパリでスタートした。1993年11月17日、パルク・デ・フランス。地区予選の最終節、ブルガリアが本大会の出場権を得るには、アウェーで勝利を挙げる必要があった。厳しい条件ではあるが、それでも1カ月前にフランスがはるか格下のイスラエルに敗れたことで希望が残された、という状況だった。

 試練は重なった。メンバーを招集した時点で、リュボスラフ・ペネフとエミル・コスタディノフが、フランスへの入国に必要なビザを所持していないことが発覚。最短でも10日かかる手続きを踏んでいては間に合わない。そこで役に立ったのは、ゲオルギ・ゲオルギエフとボリスラフ・ミハイロフがフランス東部のミュルーズでプレーしており、審査が緩い検問所を知っていたことだ。ビザを持たない2人はチームとは別行動を取って「国境越え」に成功した。

 試合は1-1のまま膠着状態に入り、後半も44分をすぎたところでブルガリアのコーナーフラッグ付近でダヴィド・ジノラが倒された。あとは彼が時間稼ぎをすれば、フランスが「順当に」本大会への出場権を得ていたはずだ。だが波乱は起きた。ジノラが直接クロスを蹴り入れたおかげで、ブルガリアに最後のターンが回ってきたのだ。

 ペネフが奪ったボールを一気に前線へ。パスを受けたエミル・コスタディノフは、角度のないところからではあったが、迷わず右足を振り抜いた。シュートはクロスバーをたたいてゴールへ。その30秒後、試合終了のホイッスルが鳴った。

 ところが、この劇的な本大会出場権獲得の後も、ブルガリア代表の内部ではトラブルが続出した。選手たちはボーナスが未払いであることに抗議し、ストライキを起こすとサッカー協会を脅した。結局、闘争は労働者の勝利に終わり、選手はボーナスを受け取り、騒動の責任を取ってサッカー協会の会長が辞職した。

 さらに、本大会の開幕を前にして、新たなトラブルが噴出する。フリスト・ストイチコフが着用を義務づけられたメーカーのスパイクを履くことを拒否し、その態度に怒ったフリスト・ダノフ新会長が彼をブルガリアに送り返そうとしたのだ。この時、ダノフが帰国のチケットをストイチコフ自身に手配させようとしたことが、結果的にチームを救った。協会がチケットを買ってストイチコフに手渡していれば、彼は激情に駆られたまま本当に大会を「棄権」していただろう。

 ストイチコフは圧倒的な実力者だったが、模範的なリーダーではなかった。その後も「王様でなければ気が済まない」その態度は周囲との軋轢を生み、中でもゲームメーカーのクラシミール・バラコフとの不仲が騒がれた。

 それまで、W杯でのブルガリアは散々だった。1962年から5大会に出場しながら、16試合で未勝利。悲劇はアメリカでも続く。本大会初戦のナイジェリア戦で0-3と大敗。解任説が浮上したペネフ監督は、「ナイジェリアの映像を何度も見せたが、アフリカ人選手たちが優秀であることを、選手たちに納得させられなかった」と大敗を説明した。

 続くギリシャ戦で4得点を奪い、大会初勝利を挙げるのだが、これもブルガリア代表のパフォーマンスによるものとは言いがたい。初出場のギリシャは初戦でアルゼンチンに0-4と大敗して意気消沈していた。ブルガリアは4得点を奪ったが、1点目と2点目はともにPKで、ジャッジにも後押しされた形だ。だが、とにもかくにも1勝を挙げたことで、ブルガリアは変わることができた。

 ブルガリアは東欧諸国の中でも地味な存在で、ポーランドやユーゴスラヴィアやハンガリー、ルーマニアには実力でも実績でも大きく離されていた。しかし、飛躍の予感はあった。ベルリンの壁が崩壊してからの数年で、いち早く「西側」に選手を進出させていたのである。ストイチコフは2年前にバルセロナのヨーロッパ制覇に貢献し、1994年のバロン・ドールを受賞することになる。バラコフはリスボン、コスタディノフはポルト、ヨルダン・レチコフとペタル・フブチェフはハンブルガーSV、トリフォン・イヴァノフはベティスでそれぞれ活躍していた。彼らの多様な経験はチームの大きな力になった。

 ストイチコフは言う。「我々の世代が世界大会で活躍するラストチャンスだった。俺たちはチームとしてまとまっていた。俺の言葉に全員が耳を傾けてくれた。目標は大会初勝利を挙げることだったが、ギリシャに勝った後はプレッシャーがなくなり、のびのびとプレーできた」

 そしてグループリーグ最終戦。ドーピング検査によりディエゴ・マラドーナを失ったアルゼンチンに、ギリシャとナイジェリアを一蹴した勢いはなかった。ストイチコフ、そしてナスコ・シラコフの2得点で勝利し、ブルガリアはグループリーグ2位通過を決めた。
 決勝トーナメント1回戦ではメキシコと対戦。この試合はシリアのジャマル・アル・シャリフ主審により振り回された。ストイチコフのPKで先制するも、前半のうちに同じくPKで追いつかれる。その後、エミル・クレメンリエフとルイス・ガルシアが後半開始早々に退場処分を受けた。試合はそのまま決着がつかず、PK戦に突入。ここではキャプテンのミハイロフが、マルセリーノ・ベルナルとホルヘ・ロドリゲスのPKを止める大活躍を見せた。

 ブルガリアは個性的なサッカーで、多くのサッカーファンにとってのお気に入りのチームとなった。全員が労を惜しまずに走り、イングランド的な強烈な接触プレーも辞さず、無難なプレーに走らずチャレンジを続け、それが必要な場面とあれば高度なテクニックを披露した。大会を通じて22枚のイエローカード、2度の退場処分を受ける荒っぽいチームではあったが、それを気づかせないほど彼らのパフォーマンスは衝撃的だった。

 準々決勝前日、前回王者のドイツとの対戦を前にして、チームはリラックスしていた。練習は調整程度にとどめ、プールで泳いで日焼けを楽しみ、夜にはレチコフの誕生日パーティーを行った。レチコフは言う。「僕たちは大会を最高に楽しんでいた。いいヤツばかりで、自然と良いチームになっていったよ」

 しかし、そのドイツ戦では試合を優勢に進めながらも、ロッカールームには不穏な空気が流れていた。ハーフタイムの仲間割れを演じたのはストイチコフとバラコフだ。バラコフは語る。「お互いのプレーを巡って言い争った。監督が後半の戦術について話す時間もないほどにね。監督からの指示は、『ピッチで君たちがやらなければならないことを、とにかく全うしろ』という一言だった」

 後半開始早々、レチコフがペナルティエリア内でユルゲン・クリンスマンを倒し、ローター・マテウスにPKを決められて先制を許す。しかしストイチコフは「自信を失ってはいなかったし、前を向いてプレーし続けた」と言う。「だからFKで同点にすることができた」

 ゴールから向かって右寄り、約22メートルの距離から左利きのストイチコフがボールを蹴る。ユルゲン・コーラーの老獪なマークに苦しんでいた彼は、このチャンスを生かそうと心に決めていた。

 左足で強烈にこすり上げられたFKは鮮やかに壁を超え、最短距離を通ってゴールのニアサイドに突き刺さった。ピッチ脇まで走ったストイチコフが小さく飛び跳ねながら拳を突き上げる。一度は熱狂したスタンドの観客は、スクリーンにリプレイが映し出される間だけ沈黙し、完璧な軌道を確認して2度目の歓声を上げた。

 3度目の歓声はその直後だ。ズラトコ・ヤンコフが右サイドから入れたアーリークロスにレチコフが反応する。逆サイドからペナルティエリア中央に走り込んだ彼は、体を投げ出してスキンヘッドで完璧なゴールを決めたのだ。

 その後の準決勝では、ストイチコフが得点王に輝く大会6得点目を決めたものの、スペクタクルな2得点を決めたロベルト・バッジョの前に屈した。3位決定戦のスウェーデン戦では、緊張の糸が切れており、長距離移動のハンディも重なって、0-4と大敗している。

 3位決定戦でそれまでのパフォーマンスを求めるのは無理というものだ。彼らは目の前の試合にすべてを注ぎ込み、その瞬間だけ鮮やかな輝きを放つチームだった。3位決定戦だけではない。2年後のヨーロッパ選手権では不調が続き、1998年のフランスW杯では1分け2敗でグループリーグ敗退。チームは1994年のスタイルを貫いたが、当時のイメージと老いていく自分たちのパフォーマンスのギャップに戸惑った。そして彼らが引退した後のブルガリアは、2002年以降のW杯出場からも遠ざかっている。