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目の前の試合よりも、大事なものがある 山本浩(元NHKアナウンサー、法政大学スポーツ健康学部教授)

2015.06.02
山本浩

 サッカー中継を楽しみに見ているファンにとって、試合を演出する実況アナウンサーは大切な存在だ。2004年までNHKのサッカー中継で実況の第一人者として活躍し、現在は法政大学スポーツ健康学部の教授を務める山本浩さんに、サッカーに生きた過去のこと、そして今の思いを語っていただいた。

第一志望ではなかったアナウンサーの道

 島根県出身の山本さんがサッカーと親しくなったのは、小学4年から中学2年まで、サッカーどころとして知られる静岡県浜松市に居住したことがきっかけだった。しかしプレーすること自体にのめり込むことはなく、大学時代は学内のオーケストラに所属してトランペットを担当する“音楽青年”だった。就職活動時にはマスコミを受験したが、希望した業種はアナウンサーではなく、記者だったという。

「当時は大学ごとに受験用の応募用紙の枚数が決められていたのですが、じゃんけんで負けて一度はNHK記者の道を断たれました。その後、商社やメーカーを受けていた時に再びNHKの応募用紙が回ってきたのですが、そこには『アナウンサー』の文字が印刷されていたのです」

 一度は断たれたNHKへの道だったが、再びチャンスが訪れるとは、なんという運命の巡り合わせだろうか。さらに偶然は続く。

「マスコミは他にも受験していて、NHKのアナウンサー職と民放の記者の最終試験日程が重なってしまったんです。私としては当然、記者の試験を受けるつもりだったんですが、担当者に『NHKに行った方が良いぞ』と言われてNHKを受けることにしたんです。『アナウンサー』と印刷されてはいましたが、しばらくしたら記者に変われると聞いていましたからね。もし初めから民放の記者を選択していたら、サッカーの実況はやっていなかったでしょうね」

 サッカーアナウンサーの草分け的存在でありながら、元々はアナウンサーになるつもりなどなかったという。様々な偶然が重なった結果、山本さんはNHKアナウンサーとしての第一歩を踏み出すこととなった。

“サッカーアナウンサーのカリスマ”が生まれるまで

 NHKに入局後、最初の赴任先は福島放送局だった。音楽青年だっただけに、当初は「音楽番組をやりたい」という思いを持っていたが、ローカル局では何でもできるアナウンサーが必要とされたため、スポーツ実況も担当することになる。本格的にサッカーと関わるようになるのは松山放送局に赴任してからで、この時には「山本はスポーツ担当だ」と言われていたため、空き時間を利用して当時のJSL(日本サッカーリーグ)2部、帝人松山の練習を見に行ったり、県の高校総体予選の取材をしたりして、サッカーへの造詣を深めていった。

 初めて全国放送でのサッカー中継の実況を担当したのも、松山放送局在任時だった。

「1982年に全国中学校サッカー選手権が愛媛県で開催され、その決勝戦、静岡観山中学と岡山の宇野中学の試合が初の全国放送での実況でしたね。解説は花岡英光さん(現・帝京大学サッカー部監督)。花岡さんは当時、日本代表のコーチで、彼から日本代表監督の森孝慈さんを紹介していただき、急激に代表チームとも近くなっていったんです」

 1983年、ロサンゼルス五輪予選を戦う日本代表が松山で合宿を行い、臨時コーチとしてベルティ・フォクツが来日した。そのフォクツにインタビューしたことで、サッカーアナウンサーへの道が広がっていくこととなる。

「1974年の西ドイツ・ワールドカップの時に、大学の夏休みとも重なる3カ月間を使ってインターン生として現地の新聞社に行っているんですよ。当時、出場していたフォクツの印象も残っていました。そのフォクツが松山に来ることを新聞で知った時、自分で手を挙げて取材に行ったんです。花岡さんに『フォクツがいるから来なよ』と言っていただいたことも後押しとなり、合宿に行ってフォクツにインタビューしました」

 本格的にサッカー担当のアナウンサーになったのは、1985年に行われたメキシコW杯アジア1次予選から。当時、解説を務めていた加茂周さんや松本育夫さんから多くを学び、サッカー界の関係者とも親しくなっていった。そして同年10月26日、アジア最終予選の韓国戦において、日本サッカー実況史に残るあの名文句が生まれる。

「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」

アナウンサーとしてのキャリアを積んできたからこそ発することができたフレーズだと思っていたが、実況としてのキャリアが浅いうちに生まれたものだったというのは意外だった。

 その後は86年メキシコW杯でのディエゴ・マラドーナの5人抜きを実況するなど、数々の名場面をその言葉で彩っていく。1993年のJリーグ開幕当時は福岡放送局に在籍し、スポーツのみならず、ニュースや芸能番組など多方面で活躍するアナウンサーとなっていたが、サッカー中継がBS放送の看板番組になるという予測を受けて東京への人事異動が決まる。この頃には既に「サッカーアナウンサーの山本」として知られた存在となっており、その実績と実力が評価されての異動だった。

山本浩

物事を三つの方向から見てほしい

 アナウンサーとしてのキャリアを通じて500以上の試合で実況を担当し、2004年を最後に一線から退くと、2009年3月にNHKを退職する。そして同年4月から、法政大学スポーツ健康学部教授として第二の人生をスタートさせることとなった。大学では「コミュニケーション論」と「スポーツメディア論」を担当しており、これまでとは異なる視点からスポーツを見て、論じている。

「学生には政治的な側面、経済的な側面、社会的な側面の3つの方向から物事を見てほしいと思っています。たとえばスタジアムやアリーナを建設したいとなった場合、自分たちが望むものを、理想どおりに建てられるわけではありません。建築基準法や都市公園法に照らし合わせる必要がありますし、予算や経済効果も考慮に入れなければならない。その建物が周辺の家屋や商店に及ぼす影響も考えなければなりません。学生は経験が少ないので、『どうにかできるんじゃないか』と思いがちですが、そう簡単ではないんだ、ということを学んでほしいですね」

 長年にわたってスポーツ実況に携わり、培ってきた知識と経験、そして視点。それを若い世代に伝え、日本のスポーツ界をさらに発展させていくのが、今の山本さんの使命と言えるだろう。

今のサッカー中継への思いとファンへのメッセージ

 Jリーグの特任理事や日本陸上競技連盟の理事、総合型クラブ育成のアドバイザーや日本ソフトボール協会の評議員選定委員など、大学教授以外にも多方面で活躍している山本さんは、現在のサッカー中継や実況アナウンサーについてどう思っているのだろうか。

「アナウンサーのレベルはかなり高くなっています。理由はよく勉強していること、情報が多いことなどが挙げられますが、視聴者がサッカーをよく理解している時代に入っていることも大きいと思います」

 一方で、今の中継スタイルにやや物足りなさも感じているという。

「アナウンサーの個性が出せない時代になったな、とも感じています。これはテレビの構造が変わり、EVSというシステムが導入されたことと関係があります。EVSは簡単に言うと、収録しながらVTRを再生できるシステムです。次々とリプレイ映像が流せるので、プレーとプレーの間を以前のようにアナウンサーのしゃべりだけでつなぐ必要がなくなった。するとどうなるか。アナウンサーの判断で話しの流れを決められなくなり、説明に費やす時間が多くなるのです。視聴者を画面に引きつけやすくなるかも知れませんが、アナウンサーはやりにくいと思いますね」

 時代とともに、実況アナウンサーの役割も、放送技術も、ファンの見方も変わっている。山本さんはそんな時代を生きている日本のサッカーファンに対し、次のようなメッセージを送ってくれた。

 「目の前のプレーももちろん大事ですが、それよりも大切なものがある、という観点で見てもらえればいいな、と思っています。監督であれば、なぜクラブが彼を選んだのか。選手がミスをした時にどう対応するのか。どのような選手を起用するのか。選手であれば、なぜシュートを放ったのか、あるいは放たなかったのか。調子が悪いのは心身に問題があるのではないか。そういった部分を考えながらサッカーを見ると、評価もかなり変わってきます。『何で決定力が低いんだよ』とただ短絡的に批判するのではなく、『試合直前のシュート練習が違うのではないか』とか『子供の頃にどんな練習をしてきたのだろう』とか『シュート直前、ゴールの枠の確認がおろそかなのではないか』などと疑問を持ちながら見ていけば、より深くサッカーを楽しめると思います」

インタビュー・文=伊藤孝宏(サッカーキング・アカデミー
写真=葛城敦史

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