2018.06.09

【インタビュー】宮本恒靖「いろいろな世界大会の中でもワールドカップは別物」【前編】

宮本恒靖
[写真]=コラソン齊藤友也
朝日新聞記者を経てブラジルに移住。南米で600試合を取材し、現在はガンバ大阪を追いかける。

 日本代表として2002年の日韓大会、2006年のドイツ大会と2度のワールドカップ出場経験を持つ宮本恒靖氏。選ばれし者だけが出場できる4年に1度の“サッカーの祭典”は自身のキャリアにどのような影響を与えたのか。

 インタビュー前編ではワールドカップの思い出、そして自国開催の日韓大会について語ってもらった。

インタビュー・文=下薗昌記
写真=コラソン齊藤友也、ゲッティイメージズ

■マラドーナの影響は非常に強かった

宮本恒靖

[写真]=コラソン齊藤友也

――幼少期の頃、初めてワールドカップご覧になった時の記憶や印象についてお聞かせください。
メキシコ大会の時に父親がVHSのビデオデッキを買ってきたんです。その大会を録画して見るために買ってきたのを覚えていますね。その録画している大会が「サッカーのワールドカップという大会なんだ」ということが分かりました。ディエゴ・マラドーナの活躍ぶりを知っていったのは決勝トーナメントに入ってからだったと思います。

――1986年のメキシコ大会当時はまだ9歳でした。
サッカーはまだ本格的にはやっていなかったですね。サッカーを始める前にワールドカップと出会った感じです。マラドーナ、マラドーナと当時は騒がれていましたし、(イングランド戦の)独走ドリブルや神の手シュート、優勝後のパフォーマンスなどは印象に残っています。そのシーンが表紙を飾ったサッカー専門誌も大会後に買いましたね。それがきっかけでサッカーにはまっていき、自分でもプレーしたいと思うようになりました。

――メキシコ大会のマラドーナで最も記憶に残っていることは何ですか?
やっぱり、イングランド戦のドリブルですね。アルゼンチン対西ドイツの決勝は試合として微妙だった気がするんですけど(笑)。勝ち切った後にマラドーナが肩車されている姿とか紙吹雪の中で表彰台に立っていたことは覚えています。「一個人が活躍して優勝しちゃうんだな」という記憶もありますね。

――サッカー少年時代は自室にマラドーナのポスターを貼っていたともお聞きしましたが。
そこからはほとんど毎号のように専門誌を買っていましたし、読者プレゼントにも応募していました。そういえば当選したのにプレゼントが届かなかったんですよ。「応募のハガキには必ずマラドーナ選手へのメッセージを書いてください」と書いてあったのですが、今思うと「何の意味があったんやろう」っていうメッセージもしっかり書きました(笑)。10通りのメッセージも書いて送ったところ、次の次の号ぐらいで当選者発表のところに『大阪府・宮本恒靖』って載っていたのですが、待てども来ないということがありましたね(笑)。ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)のポスターを貼っていたこともありましたが、スタートはメキシコ大会でした。

――メキシコ大会がサッカーを本格的に始めたきっかけと言ってもいいのでしょうか。
間違いなくそうですね。マラドーナの影響は非常に強かったですし、当時『マラドーナナポリ』というスパイクも買いました。

――サッカー少年だった当時、一番思い出に残っている大会や選手をお聞かせください。
イタリア大会が記憶に残っています。当時はサッカーも始めていて中学2年生ぐらいでした。まだマラドーナもプレーしていましたが、優勝した西ドイツにはアンドレアス・ブレーメとかがいて。すごく組織というものを感じた大会でしたね。NHKが衛星放送で試合を中継していたので、それを友人に録画してもらって見たのを覚えています。名勝負が多かったようにも思うんですよ。西ドイツ対オランダ、ブラジル対アルゼンチン、スペイン対ユーゴスラビアとかね。その次のアメリカ大会ではもうガンバ大阪ユースの活動をしていてあまり見ることができなかったので、やっぱりイタリア大会が印象に残っています。大会のCDを買ったりもして、ハマっていましたね。選手として印象に残っているのはピクシーの上手さであったり、開幕戦のアルゼンチン対カメルーンでヘディングシュートを決めたエミリオ・オマンビーク、カルロス・バルデラマ、サルヴァトーレ・スキラッチ、ロベルト・バッジョなんかは記憶に残っています。

――アメリカ大会当時はG大阪ユースでプレーされていましたが、将来はワールドカップでプレーしたいという思いも抱かれていましたか?
いや、全然なかったですね。ドーハの悲劇があって、1994年のアメリカ大会を迎えましたが、まだ「自分が出たい」という大会ではありませんでした。まだ日本も出場していませんでしたし、少し遠いところにある大会というか。ただ、日本が2002年の開催地に立候補するという新聞記事がメキシコ大会の翌年に出ていて、「ワールドカップを見に行ける」ということを父親と話した記憶はあります。

――1998年のフランス大会には日本が初出場を飾りました。当時の思い出はありますか?
あの時は少し自分に近いところにあった感じはしました。1998年の最初に岡田(武史)監督が若手選手の合宿をしていて、その合宿に呼ばれはしましたが、まだ代表に選ばれるには力不足だとは重々感じていました。ヒデ(中田英寿)とか(楢崎)正剛とか同じ年齢の選手も選ばれていたということもあって、「次こそは」という気持ちは持っていました。

――世代別代表の常連で様々な世界大会も経験されていますが、「ワールドカップに出場したい」という夢を描かれたのはいつ頃だったのでしょうか?
一つひとつの世代別の大会をクリアしていくことで、ワールドカップにつながるんじゃないかと思っていました。そういう意味でいうと、U-20ワールドカップ、シドニー五輪を終えたら2002年というのは意識していました。フランス大会については普段Jリーグで一緒に戦っている選手たちがどれぐらいのパフォーマンスを出せるのかは見ていましたし、通用している部分とまだまだ厳しいなという部分が見られたと思います。得点を決めるということに関してはチャンスも少なかったし、まだ日本は世界と差があるなと感じました。

■2002年に夢の舞台へ。ポジションに行くまでが“重たかった”

宮本恒靖

[写真]=Getty Images

――出場された2002年日韓大会、2006年ドイツ大会についてうかがいます。ご自身にとって初めてのワールドカップとなる日韓大会のメンバー発表で名前が呼ばれた時の心境はいかがでしたか?
「呼ばれるのではないか」という期待、確信に近いものはありました。ただ実際に名前が呼ばれて、ホスト国の一員として戦うという中では、当時Jリーグはまだ10年ぐらいの歴史でしたので「ここで下手な大会にしてしまうと日本サッカーの人気がしぼんでしまう」と思っていました。だから、「最低でも決勝トーナメントに行かなければ」というプレッシャーはありましたね。

――自国開催のワールドカップに出場できる選手はごくわずかです。やはり日韓大会は特別なものだったのでしょうか?
自分にとっては初めてのワールドカップということもあって、比較する対象がなかったので、特別なんでしょうけど、故国開催だからという特別感はそこまで感じませんでした。ただ、いざ開幕してみると、日本中の人が声援を送ってくれて、やはりホスト国なんだなと感じました。宿舎は隔離されていましたが、移動の時に宿舎から出て行くと沿道にたくさん人がいて、大阪に移動する新幹線では大勢の人が見送ってくれました。長居でのチュニジア戦の終了後、阪神高速を走っていた日本代表のバスに、高速を走っている車から皆さんが手を振ってくれたこともありましたね。ドライバーの方が走りながらですよ。それで車が高速の壁にぶつかったということもあったようですが……。あと阪神高速を走っていると道頓堀が見えるんですけど、青い人だかりができていてみんな日本代表のユニフォームを着ていたり。日本中が大騒ぎする源が自分たちなのかということについては、半信半疑で現実離れしていた感もありました。

――日韓大会では初戦のロシア戦に途中出場されました。日本代表としてワールドカップのピッチに立った時はどのようなことを感じましたか?
ベンチで見ている限りは、いつもの国際親善試合とあまり雰囲気は変わらないなと思って見ていたんですよ。でも、森岡隆三が負傷して、いざ自分がピッチに入るとなった時、空気が本当に重く感じて、自分のポジションに行くまでが“重たかった”のを覚えています。あとからVTRで見返すと(フィリップ・)トルシエ監督から何か指示を受けているんですが、何も覚えていないんですよね。うなずいてはいるんですけど。やっぱり、試合に出るとなった時はものすごく緊張したと思います。いろいろな世界大会を経験してきましたが、ワールドカップは別物でした。2対1で勝っている状況で試合に出たので「勝って終わらないといけない」という気持ちもありましたし、さらに入ってすぐに点を取られたので「どうしようかな」という気持ちの揺れもありました。

――2002年大会で最も印象に残っているシーンについて教えてください。
第2戦のロシア戦のパフォーマンスは自分の中でもいわゆる“ゾーン”に入ったような感覚がありました。試合前、観客の声もあまり聞こえず、そういう精神状態にあるなと感じながらプレーできましたし、第3戦のチュニジア戦に関してもパフォーマンスがどんどん上がっていく感じがありました。こういう大きな大会は「自分の能力を引き出してくれるな」と感じましたね。全ての読みが当たるような感覚もありましたし、大会前までの自分よりも先に先に体を動かすことでより優位なポジショニングを取って相手の攻撃の芽を摘むとか。相手に走らせないとか、そういう“境地”にたどり着くような手応えもありました。ワールドカップならではの緊張感とか高揚感、いろいろなものが高いレベルで噛み合わさって生まれた感覚だったと思いますね。

――余談ですが、日韓大会で“バットマン”として話題になったフェイスガードですが、本来は白だったのを黒ペンで塗ったともお聞きしましたが。
サインペンで塗りました。ちょっと黄色がかかったような白だったんですけど、弱々しく見えるので「黒く塗った方がいいんじゃないか」と言われて、その方がカッコいいんじゃないかと。川俣(則幸)さんというGKコーチが発案者だったんです。

宮本恒靖(みやもと つねやす)
宮本恒靖

1977年2月7日生まれ。大阪府出身。ガンバ大阪ユースから1995年にトップ昇格。レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)、ヴィッセル神戸でもプレーし、2011年に現役を引退。日本代表として71キャップを数え、2002年日韓大会、2006年のドイツ大会に出場した。2015年にG大阪に復帰し、ジュニアユース、ユース監督を経て、現在はトップチームのコーチ、J3を戦うG大阪U-23の監督を務める。


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