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知っていたらプレミア通? アーセナルとマンUでプレーした5人の男たち

2017.05.07

アーセナルとマンチェスター・U、ライバル同士の両クラブでプレーした選手たちとは… [写真]=AMA/Getty Images

 7日に開催されるアーセナル対マンチェスター・U。今シーズンは両クラブともに満足のいくシーズンではないが、世界的なビッグクラブ同士の対戦ということもあり、今もなお注目される一戦であることは言うまでもないだろう。

 さて、この両クラブの関係性には様々な特徴があるが、その一つが「移籍」に関することだ。

 移籍が日常茶飯事のサッカー界では、有名選手がライバルクラブの間を行き来することも決して珍しくないが、ことアーセナルとマンチェスター・Uにおいては意外にも少ない。

 100年以上に及ぶクラブの歴史の中で、これまでに両クラブ間で発生した移籍ケースは15例。ライバル色が強まった1990年代以降に焦点を絞ってみると、数えられるほどしか存在しないというのは驚きだ。

 両クラブを愛するサポーターであれば、そらで言えるかもしれないが、その事例を順に振り返ってみよう。

■アンディ・コール
アーセナル:1989~1992
マンチェスター・U:1995~2001

A・コール

アーセナルのユース出身で、後にマンUで活躍したアンディ・コール [写真]=Getty Images

 前述の通り、ライバル意識が強まった1990年代に入って初めて発生した移籍が、アンディ・コールだ。だが、プレミアリーグ通であっても「アンディ・コール?」というリアクションが大半かもしれない。それもそのはず。彼は、アーセナルのユースで育ったものの、トップチームにおけるリーグ戦出場試合数はわずかに「1」しかないためだ。

 しかし、当時を知るアーセナルサポーターは「何故、もう少し辛抱できなかったのか」とクラブの決断を悔やんでいることだろう。1992年にブリストル・シティに安値で売却された後、1993年に加入したニューカッスルで爆発。1995年1月にはマンチェスター・Uに電撃移籍を果たし、プレミアリーグを代表するストライカーとして名を馳せたのは有名は話だ。

 最終的にマンチェスター・Uでは2001年まで活躍し、プレミアリーグでは195試合で95得点を記録。もはやアーセナル時代の“それ”と比較する必要はない。

■デイヴィッド・プラット
マンチェスター・U(下部組織):1982~1985
アーセナル:1995~1998

 先ほどのアンディ・コールとは完全真逆のパターンがデイヴィッド・プラット。1985年までマンチェスター・Uの下部組織に身を置いていたが、トップに引き上られることはなく、当時4部のクルー・アレクサンドラに移籍。そこで、後の彼の最大の武器となる「ゴール嗅覚」と「ダイナミズム」を会得して飛躍し、名門アストン・ヴィラへ。着実にステップアップを遂げると、1990年のワールドカップにもイングランド代表の主力として参加した。

 その後は、当時「世界最高峰のリーグ」として幅を利かせていたセリエAに挑戦し、バーリ、ユヴェントス、サンプドリアを転々とするが、プレミアリーグ時代のようにはいかず、予想以上に苦戦。「プラットに迫力がなくなった」と言う声も聞こえるようになった。

 しかし、そんな彼を救ったクラブが存在した。それがアーセナルである。1995年に監督に就任したブルース・リーオクの“補強第一号”としてチームに迎えられると、すぐにチームの主軸として活躍。アーセン・ヴェンゲルが指揮官になってからは、若きパトリック・ヴィエラとセントラルミッドフィルダーを構成し、1997-98シーズンの“ダブル”にも貢献した。

■ミカエル・シルヴェストル
マンチェスター・U:1999~2008
アーセナル:2008~2014

 ここの数年の間にサポーターとなった方でも、そろそろ話題についてこれるかもしれない。続いては、元フランス代表DFミカエル・シルヴェストルだ。

 インテルでは不甲斐ないパフォーマンスに終始したが、1999年にマンチェスター・Uに移籍すると、プレミアリーグの空気がそのプレイスタイルに合っていたのか、移籍初年度からレギュラーとして活躍。名手デニス・アーウィンが長く君臨していた左サイドバックのポジションを奪うだけではなく、時にはセンターバックとしてもプレー。ヤープ・スタム、ローラン・ブラン、リオ・ファーディナンドら歴戦の勇士たちと守備陣を支えた。その後、ネマニャ・ヴィディッチ、パトリス・エヴラが加入してきた2006年頃から出場機会が減少。結局、退団を決断し、ヴェンゲル監督に口説かれる形で2008年にアーセナルへ移籍した。

 アーセナルには2シーズン在籍。主にバックアッパーという扱いではあったが、DFでは珍しく、2シーズン連続でプレミアリーグで得点もマークするなど、記録よりも記憶に残るプレーヤーとして人気を集めた。

 なお、彼は、(他クラブを間に経由したり、契約満了を迎えずに)マンチェスター・Uからアーセナルに“直接移籍した”パイオニアとしても有名だ。

■ロビン・ファン・ペルシー
アーセナル:2004~2012
マンチェスター・U:2012~2015

ファン・ペルシー

アーセナルからマンチェスター・Uへ移籍したファン・ペルシー [写真]=Getty Images

「両クラブの間に、最も話題を呼び、最も遺恨を残した移籍」となれば、ロビン・ファン・ペルシーの一択だろう。

 オランダのフェイエノールトで注目の若手として耳目を引くと、2004-05シーズンにアーセナルへ移籍。移籍当時は精神面の未熟さもうかがえ、その将来性を疑う声も少なくなかったが、ポジションを左ウィングから中央に移すコンバートにも成功し、秘められた能力が覚醒した。瞬く間に、チャンスメイクとスコアリングをハイレベルにこなす稀有なタレントへと成長すると、自他共に認めるガナーズの主砲に。最終的には、8シーズンの所属で194試合96得点と栄えある実績を残した。

 そして、30ゴールをマークしてプレミアリーグ得点王を受賞した2011-12シーズン終了後に突如、“事件”が起こる。マンチェスター・Uへ電撃移籍を果たしたのだ。

 この移籍については、後に「自分の中にいるもう一人の自分に聞いたんだ。そうしたら、彼はユナイテッドに行くべきだと叫んでいた」と本人は振り返っているが、叫びたかったのはサポーターも同様。“エースの裏切り”とも受け取れるこの行為に、アーセナルの一部のサポーターは、「ファン・ペルシーのユニフォームを燃やすパフォーマンス動画」をこぞってSNSにアップするなど、各方面で騒動を起こした。

 なお、マンチェスター・Uでは、移籍初年度こそ26得点を挙げてプレミアリーグ2年連続得点王に輝くが、2年目から失速。12点、10点とシーズンを追うごとにかつての凄みは薄れ、結局は3シーズンの在籍で86試合48得点という結果に。「高額の移籍金に見合う活躍であったか」と問われると、少々答えに困る移籍に終わってしまった。

■ダニー・ウェルベック
マンチェスター・U:2008~2014
アーセナル:2014~

ウェルベック

マンUから移籍したアーセナルで現在もプレーするウェルベック [写真]=Getty Images

 今回の移籍例の中で唯一、現在も“進行中”なのがダニー・ウェルベックだ。

 マンチェスター・Uの下部組織時代から、各年代のユース代表に選出されるなど大きな期待を集め、2007-08シーズンからはトップチームに登録。翌シーズンにはプロデビューも果たした。しかし、実力者ひしめくビッグクラブでは思うように出場機会を得るには至らず、レンタル移籍を経験。プレストン・ノース・エンド、サンダーランドでプレーした。すると、この武者修行で大きなレベルアップに成功し、マンチェスター・Uに帰還した2011-12シーズンには30試合に出場して9得点と主力として活躍。翌シーズン以降も25試合以上に出場し、イングランド代表にも度々招集されるまでに飛躍した。

 そして、2014-15シーズン開幕後、ラダメル・ファルカオの加入による“玉突き人事”のような格好でアーセナルへ移籍。子どもの頃のアイドルであったティエリ・アンリが所属したチームの一員になれたことに本人も喜びのコメントを口にしていたが、度重なるケガの影響でコンスタントなパフォーマンスが発揮できず、ここまでは苦戦中の印象だ。

 いかがだっただろうか?

「誰もが覚えている」移籍から、「言われてみれば」の移籍まで、アーセナルやマンチェスター・Uのサポーターからすると、いずれも思い出の移籍だったのではないだろうか。

(記事提供:Qoly)

By Qoly

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