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11年も在籍するとは想像できなかった…ベルカンプが自身のキャリアを振り返る【雑誌WSKアーカイブ】

1995年にアーセナルに加入し、3度のリーグ優勝に貢献したベルカンプ[写真]=スティーヴ・オリノ

[ワールドサッカーキング No.337(2019年1月号)掲載]

英誌『FourFourTwo』のアーカイブに、1本の貴重なインタビューがある。
デニス・ベルカンプがデビューから引退まで、自身のキャリアを語った7年前の記事。
その天才的なプレーを見たことがない人でも(すぐにYouTubeで見るべきだが)、
これを読めば、彼がファンに深く愛されてきた理由が分かるだろう。

インタビュー・文=デイヴィッド・ウィナー
写真=スティーヴ・オリノ、ゲッティ イメージズ

 このインタビューは7年前、デニス・ベルカンプがまだアヤックスのアカデミーでコーチをしていた頃に行われたものだ。取材当日は気温が恐ろしく冷え込み、スタッフはこれも“アイスマン”の仕業か、と冗談を言い合った。

 もっとも、寒波のおかげでアヤックスのトレーニングは見送られ、その日、自由の身となった“アイスマン”はアムステルダム郊外の、暖かく居心地のいいカフェに姿を現した。

 アーセナル、そしてオランダ代表で活躍していた頃、ベルカンプは理想的なフットボーラーと見なされていた。計算された知性的な動き、乱暴なタックルと無縁のフェアな態度、品性を感じさせる優雅なボールタッチ、遊び心あふれる多彩なトリック。派手なゴールパフォーマンスを嫌うのも、きっと控えめな性格だからだろう、と思われていた。つまり、誰からも愛されていた。

 プレースタイルから人間性を読み取るのは、勝手な思い込み以上のものではない。しかしベルカンプに関して言えば、彼から受ける印象は、プレーヤーとしての彼に抱くイメージと何も変わらない。

 ベルカンプの言葉には、彼の誠実さや知性、そしてユーモアが感じられる。アヤックスのコーチを退任した今、アーセナルのベンチに彼が座ってくれたら……と願うファンが大勢いるのも、全く不思議なことではない。

アヤックスでは1試合に5回は決定機があった

1986-87シーズン、クライフが指揮するアヤックスでデビューを飾り、カップウィナーズ・カップを制覇。ベルカンプ(上段右から5人目)はまだ18歳だったが、決勝戦には途中出場した[写真]=Getty Images

──現役時代、君は「監督はやらない」とはっきり言っていた。それがどうして、アヤックスでコーチをしているんだろう?

現役を引退した時点では、指導者になる気持ちなんて全くなかった。引退後はゴルフを始めて、あとは子供と過ごしていた。息子をチームの練習に連れていって、せっかくだから時々、練習に加わっていた。それがすごく楽しくてね。オランダに戻って1年でコーチのライセンスを取った。ただ、その時点でも監督になるつもりはなかった。何かに打ち込みたかっただけなんだ。ところが、ライセンスを取ったらすぐに(マルコ)ファン・バステンから電話があって「どうしてアヤックスでやらないんだ?」と言われた。それで……気づいたらここでコーチをすることになっていた(笑)。もしかすると、誰かが背中を押してくれるのを待っていたのかもしれないね。

──アヤックスは君が少年時代を過ごしたクラブだ。当時憧れていた選手は?

グレン・ホドルだ。テクニックに優れた選手で、どちらの足も使えて、タッチは柔らかくて正確だった。あとは、トップチームの監督だったヨハン・クライフにも憧れた。ユース時代のある日、私たちのところに彼が来て、練習を見てくれたことを覚えているよ。

──興奮しただろう?

いや、怖かった(笑)。あれほどのビッグネームが練習を見に来たら、普通の子供はそう思うよね。でも、彼は優しく声をかけてくれて、「自分らしくプレーして、フットボールを楽しむんだ」と言ってくれた。その数年後、私をトップチームに引き上げてくれたのは彼なんだ。クラブの中には、私がトップチームでやっていくにはまだ未熟だと思っていた人もいたらしいけど、クライフが説得してくれたんだよ。

──アヤックスのアカデミーはエリート養成機関だ。新しい生活に慣れるのは大変だったろう?

いや、当時のアカデミーはそれほど組織化されていなかった。週に2日、ただフットボールを楽しんでいればよかった。だから適応するのも難しくなかったよ。もちろん、試合では必ず勝利することを求められたけど、それでも厳しいとは思わなかったな。

──君がいつも落ち着いてプレーできるのは、これまでのトレーニングの成果なのかな?

どうだろうね。私は誰にでも自分の感情を見せるタイプじゃない。感情を見せるのはチームの仲間や家族だけでいいと思っていた。だから常に感情を抑えて、一定のレベルに収めようとしていた。いいことも、悪いことも「大したことじゃない」と受け止めていた。すごく集中してね。

──それは誰にでもできることなんだろうか?

それぞれのやり方があるんじゃないかな。私が子供たちを指導する時は、「笑顔でプレーしなさい」と言っている。すると「コーチはそうじゃなかった!」と言い返される(笑)。確かに、私は“アイスマン”と呼ばれた男だからね。でも、ピッチに立っている時の私はすごく幸せで、プレーを心から楽しんでいたんだよ。

──アヤックス時代は、90-91シーズンから3年連続でリーグ得点王になった。でも、その後はゴールを量産するようなストライカーではなくなった。どんな変化があったんだろう?

私が変わったわけじゃなくて、役割が変わったんだ。アヤックスでは前線で待っていれば1試合に5回はシュートチャンスがあった。それがインテルに移籍してみたら「1試合に1回チャンスがあればラッキー」という感じだった。アーセナルでは、ゴール前よりも少し下がった位置が私のプレーエリアになったんだ。

イタリアでの馬鹿げたストーリーには参った

1994年にはインテルでUEFAカップ制覇を経験(左)。その後、95年夏にアーセナルへ移籍。当時の監督はブルース・リオッホだった(右)[写真]=Getty Images

──1993年にインテルへ移籍する時、クライフが止めようとしたというのは本当の話?

本当だけど、それは私をバルセロナに移籍させたかったからだ。クライフは私が“行くべきではない”チームを選んでいった。すると候補が次々と消えて、最後はバルセロナしか残らない(笑)。当時の私は、世界最高レベルにあったセリエAでプレーしてみたかった。それでインテルの首脳陣に会って、いい印象を持ったから移籍を決めたんだ。「我々は攻撃的なスタイルを目指している」と言われてね。

──しかし、実際は違った。

いや、「攻撃的」という言葉は嘘じゃなかった。ただ、最初の1カ月だけだったけど(笑)。それでも、イタリアは私が成長するにはいい場所だった。プロフェッショナルとはどういうものかを学び、ずる賢いDFに対応する方法も学んだ。

──インテル時代はチームメートとうまくやれなかったと言われていた。実際はどうだった?

それほど悪いものじゃなかったよ。チームには何シーズンも在籍している古株がいた。(ジュゼッペ)ベルゴミや(リカルド)フェーリ、(ニコラ)ベルティは素晴らしい選手で、私にも気持ちよく接してくれた。唯一の問題はルベン・ソサだった。2トップを組んでいたのに、彼が何をどうしたいのか、全く分からなかったんだから(笑)。もっといい関係を築くべきだったね。

──イタリアのメディアにも悩まされただろう? イングランドのメディアも褒められたものではないけど、どっちがひどいと思う?

イタリアのメディアは毎日コメントを求めてくる。試合の翌日なら分かるけど、火曜日も、水曜日も同じことを聞かれて、どうでもいいことで大騒ぎするんだ。アーセナル時代も、調子が悪ければ批判された。それは別にいいんだ。私はプレーを批判されても気にならない。だけどイタリアでは、私が髪を切ったら、「ベルカンプは不振に悩んで髪が抜けた」なんて書かれる(笑)。次々と馬鹿げたストーリーが作られる。あれには本当に参ったよ。

イングランド人選手が闘志を注入してくれた

“ベストパートナー”に選んだのはアンリ。ゴール前のシンプルなタッチでアシストする場面が多かった[写真]=Getty Images

──君のお父さんはマンチェスター・ユナイテッドのファンで、君の好きな選手はトッテナムのレジェンドだったホドル。となると、アーセナルを選んだ理由が分からないんだけど?

父はユナイテッドのファンじゃなくて、デニス・ローのファンだった。私だってホドルは好きだけど、別にトッテナムのファンじゃなかった。イングランドはいつかプレーしたいと思っていた国だ。イングランドのスタジアムの雰囲気が好きだったからね。アーセナルに移籍することになったのは、私の代理人がアーセナルをよく知っていたことが大きい。彼は当時アーセナルでプレーしていたグレン・ヘルダーの代理人でもあったんだ。アーセナルの首脳陣は「攻撃的なスタイルを目指す」と言っていて、私はインテルのことがあったから疑っていた(笑)。それでもアーセナルは魅力的な選択肢だった。イアン・ライトという素晴らしいFWがいたし、スタメンのうち8人か9人は固定されていて安定感があった。それにハイバリーという素晴らしいスタジアムもあった。ただ正直に言うと、その時は自分が11年も在籍することになるとは想像もできなかったけどね。

──1990年代前半、アーセナルには“ドリンキング・カルチャー”が残っていた。トニー・アダムスやポール・マーソン、レイ・パーラーの飲みっぷりに驚いたことはある?

あれは全く理解できなかったね(笑)。だけど不思議なことに、トレーニング中は全く気づかないんだ。彼らは前の晩にどれだけ酒を飲んでいても、ピッチに立てば100パーセントの力を発揮していた。で、それが終わったらまた酒を飲みに行く。とても信じられなかったよ。

──彼らから一緒に飲もうと誘われなかったの?

最初だけ付き合った。「これがイングランドの文化なんだから、尊重しなくては」と思っていたんだ。すぐに無理だと分かったけどね(笑)。アーセナルに移籍して2年目にはアーセン・ヴェンゲルが来て、“ドリンキング・カルチャー”に終止符が打たれた。だけどその後、アーセナルが成功を収めることができたのは、彼らのようなイングランド人選手がいたからだ。彼らがチームに闘志を注入してくれたから、他の選手もフルパワーで試合に臨むことができた。ああいったメンタリティは、ちょっと他の国の選手とは違っているよね。

──具体的にどういうこと?

「よし、やってやろうぜ!」とか「お前はどれぐらい勝ちたいと思ってるんだ?」とか、そういうセリフを大声で叫ぶんだ。私はそういうノリが好きだった。闘争心はイングランドの戦士の伝統なのかもしれないな。私はその言葉に後押しされて、100パーセントの力を出せたんだよ。

他の人には予想できないポイントを狙っていた

──アーセナルでは素晴らしいアシストをいくつも記録した。ラストパスを出す相手として気に入っていたのは誰だろう? 個人的にはフレドリック・リュングベリとのコンビネーションが印象に残っているんだけど。

確かに、リュングベリはパサーにとって最高の選手だったね。いつも絶妙なタイミングで視界に飛び込んできた。そういう意味ではアシュリー・コールもおもしろかった。視野の端から飛び出してくる。それも、どんどんスピードを上げてペナルティエリアに入ってくるんだ。50メートルも駆け上がってくる選手をDFがつかまえるなんて不可能だろう? アシュリーは自分でゴールするためにオーバーラップしてきた。イメージとしてはアメフトに近いかな。だったら、完璧なパスを送ってタッチダウンさせてやりたいと思うじゃないか(笑)。

──ゴールとアシストではどちらが好きだった?

私にとっては、アシストもゴールと同じように喜びだった。パズルを組み立てるような感覚と言えばいいのかな。常に一手、二手先のことを頭の中で思い描いて、他の人には予想できないポイントを狙っていた。そこにかなりの楽しみを見出していた。

──君のベストパートナーを選ぶとしたら誰だろう?

私はパートナーのリズムに合わせることを常に意識していた。それが簡単だったのは(ニコラ)アネルカかな。常にシンプルに、スピーディに動くFWだったから、呼吸を合わせるのは難しくなかった。それでも、もし1人だけを選ぶならティエリ(アンリ) だろう。彼とは長く一緒にプレーしたし、無敗優勝のシーズンでもコンビを組んでいた。ティエリはあらゆるスキルを備えているだけじゃなく、無駄なことをしなかった。スキルを見せびらかすようなプレーは一切なかった。すべての動きにゴールを奪うための意味があって、私はそれを読み取るだけでよかったんだ。

──アンリは同じ質問をされて君の名前を挙げている。もし2人が一対一で勝負したら、どちらが勝つだろうね。

一度も試したことはないな。でも、スピードで勝負したらティエリには勝てないよ。一対一をやれと言われても、私はティエリを引きつけて、誰かにパスを出してしまうだろう(笑)。いや、冗談ではないよ。私にとってフットボールは1人でやるスポーツじゃない。誰かと一緒にプレーしたいんだ。

──では、対戦したDFで最も厄介だったのは誰だろう?

(ヤープ)スタムか(ソル)キャンベル。スピードがあってハードで、試合の流れを読む能力もあった。でも、汚く挑発的なプレーをするDFも嫌いじゃなかったな。(シニシャ)ミハイロヴィッチや(マルコ)マテラッツィみたいなタイプだね。彼らは審判に見えないように足を踏んだり、ひじ打ちを浴びせてきた。そういう時は、最高のプレーで打ち破ってやろうと燃えるんだ。「私のプレーを見て、フットボールがいかに素晴らしいスポーツなのかを思い出すといい」と思った。逆に、(マーティン)キーオンのようなDFのことは尊敬していたよ。ビッグマウスで、自分の仕事に誇りを持っていて、どんな相手にも手加減はしない。キーオンはピッチでもうるさくてね。そういうDFは好きじゃないんだけど、彼の場合はおもしろかった。「ヘイヘイ、俺を抜けると思ってんのか?」ってずっと言っている(笑)。

強い意志、貪欲さが欠けていたかもしれない

1998年W杯準々決勝のアルゼンチン戦で決めた決勝弾は、フットボール史に残る美しいゴールとして知られる[写真]=Getty Images

──君の“飛行機恐怖症”は有名だけど、これがキャリアに影響を与えたと思う? 長距離移動の時は毎回、大変だったのでは?

それは全く逆だ。飛行機に乗らなくなって、私は自由になった。それまではフライトのたびに、不安と恐怖に襲われていたんだからね。アウェーの試合に行くと、帰りのフライトが気になってプレーに集中できなかった。それで飛行機に乗ること自体をやめた。アーセナルに移籍する時、契約にそう盛り込んだんだよ。「飛行機には乗らない」ってね。自動車や鉄道での移動? 全く苦にならなかったよ!

──現役時代に決めたベストゴールと言えば、どれを選ぶ?

ベストを挙げるなら、やはり1998年のワールドカップ準々決勝、アルゼンチン戦で決めたゴールかな。あれはまさに“ベルカンプらしい”ゴールだったと思うし、大舞台で決められたことも大きい。あのゴールでオランダは準決勝に進んだ。ネットを揺らした瞬間はあらゆる感情が爆発したよ。7歳の時に「W杯でゴールを決めたい」と願った、その夢が実現したんだから。

──あのゴールを決めるまでに、いったい何が起こっていたのか説明してもらえる?

フランク(デ・ブール)とアイコンタクトをして、彼がロングパスを蹴る瞬間、(ホセ)チャモの背後を取りながらダッシュした。かなり強いパスだったから、勢いを殺すためにジャンプしながらトラップした。その時には(ロベルト)アジャラが向かってくる姿が見えていた。だから2タッチ目で内側に切り返して、同時にシュートを狙える角度にボールを置いた。最後はファーポストを狙って、アウトサイドで回転をかけたシュート。2タッチ目の時点で、「決まった」と直感したよ。自分にできるすべてのスキルを凝縮したようなゴールだった。

──君がプレーしていた時代のオランダ代表は、常に優れたメンバーをそろえて優勝候補と言われながら、結局はタイトルと無縁のまま終わってしまった。何が問題だったんだろう?

私たちには何度も優勝のチャンスがあった。だけど「絶対にチャンピオンになる」という強い意志、貪欲さが欠けていたかもしれない。特に1998年のW杯は優勝しなければならない大会だった。オランダは間違いなく大会のベストチームだった。開催国のフランスと決勝を戦えたら、素晴らしい試合になっただろうね。自国開催だったユーロ2000も苦い記憶だ。イタリアには、スコアレスドローに持ち込んでPK戦に懸けるしか方法がなかったはずなのに、まさにその展開で負けたんだから……。あの屈辱のおかげで、オランダ代表はその後、大会前に必ずPKを練習するようになったよ(笑)。

──もっとも、オランダはそれ以降もずっと、素晴らしい選手を生み出し続けている。

そうだね。でも、それだけではタイトルは手に入らない。たまに、我々はあまりにも似通っていることが問題じゃないかと感じる。オランダの選手はみんなテクニックに優れていて、効率のいいプレーをやろうとする。時にはイングランド人選手みたいに、闘志に任せてプレーする選手が必要だったのかもしれないな。

──オランダのクラブには以前ほどの存在感がないように思う。知的でスタイリッシュなオランダ流のフットボールは失われつつあるのだろうか?

質問の意味は分かるよ。フットボールは変化しているし、美しい試合は減っているかもしれない。でも、オランダ国外に目を向けてみれば、バルセロナやアーセナルのようなチームもある。1本のパスに対して5人の選手が動くフットボールだ。オランダの伝統的なスタイルそのものだよ。だから、「オランダのスタイルは生きている」と言ってもいいんじゃないかな。

※この記事はワールドサッカーキング No.337(2019年1月号)に掲載された記事を再編集したものです。

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