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【インタビュー】ヤン・コレル「最高のチーム、最高の記憶」

2017.02.09

ドルトムントの前線の柱として5年間にわたってプレーし、加入1年目の01-02シーズンにはリーグ制覇にも大きく貢献。ヤン・コレルは当時のドルトムントを象徴する選手の一人だった。2011年の現役引退後、モナコで充実した日々を送るコレルを訪ね、現在の仕事、プライベート、そしてドルトムント時代の思い出を聞いた。

インタビュー・文=小川由紀子
Interview and text by Yukiko OGAWA
写真=小川由紀子、ゲッティ イメージズ
Photo by Yukiko OGAWA, Getty Images

[ワールドサッカーキング3月号「BORUSSIA DORTMUND プライドと狂気のフットボール」]

 真冬でも昼間の気温は15℃と暖かく、まぶしい地中海の太陽がさんさんと降り注ぐモナコ――。瀟洒なコンドミニアムが林立する街並みを「ここで動き回るにはこれが一番!」とスクーターですり抜けてきたヤン・コレルは、現役時代と少しも変わらない引き締まった体つきをしていた。

 それもそのはず。毎週日曜日にアイスホッケー、週に3、4回プロのコーチにテニスを習い、日帰りスキー、ビーチサッカー、フットサルと、5年前に現役を退いた後も彼の毎日はスポーツ三昧だ。一方で古巣のスカウティングを手伝い、祖国チェコの少年サッカートーナメントをオーガナイズするなど、今なおフットボールの世界にも深く関わっている。

 2001-02シーズン、ドルトムントのブンデスリーガ制覇に貢献した大型ストライカーは、今も充実した毎日を送っている。

2011年の現役引退後、モナコで充実した日々を送るコレル

古巣スパルタ・プラハのリクルーターをしている


まずは近況からうかがいます。つい昨シーズンまでアマチュアリーグでプレーしていたそうですね。
昨年までモナコのCチームに在籍していた。2011年にカンヌで現役を引退した次のシーズンから、5年間プレーしたかな。とにかくサッカーを続けたくて引退後も楽しむためにプレーを続けていたんだ。

モナコのCチームには、どういった経緯で加入したのですか?
監督が元選手で友人だったから彼に誘ってもらってね。5年間で昇格を2度経験した。ただ、レベルが高くなって、マルセイユのほうとか、250キロも離れた場所まで遠征するようになった。それで年齢的に「ここらが潮時かな」と思って昨シーズンで終わりにしたんだ。もう43歳だしね。

今は何をされているのですか?
ようやく競技からは完全に引退して、今シーズンから古巣スパルタ・プラハのリクルーターをしている。フランス担当のね。主にリーグ・ドゥ(2部)の試合を視察して将来獲得できそうな選手を探すのが僕の使命だ。

古巣のモナコの試合はよく観戦しているのですか?
モナコやニースの試合には時々足を運んでいる。今シーズンは両チームとも好調だからね。モナコはすべてのコンペティションで勝ち残っているし、フロントが知的な運営をしていて選手の補強もうまくいっている。(レオナルド)ジャルディム監督の指導も機能しているようだ。つい4年前まで2部にいたのに、今やリーグ・アンで優勝を争っているのだから見事だよ。若い選手の育成にも力を入れている。個人的に彼らのような育成型クラブが好きなんだ。自国の代表選手の成長にもつながるからね。

黄金期のチェコ代表にはコレルのほかにもポボルスキー、ネドヴェド、ロシツキー、チェフなどそうそうたるタレントがそろっていた

代表と言えば、あなたがプレーしていた頃のチェコ代表にはパヴェル・ネドヴェド、カレル・ポボルスキーなど、そうそうたるタレントがそろっていました。これには何か理由があるのですか?
僕らが育った時代、チェコはまだ社会主義国で、僕らにとってはフットボールが一番、それ以外は何もなかった。だから少しでも上達するようにと、来る日も来る日も集中して練習に励んだ。“軍隊教育”とでもいうのかな、そんな感じだった。代表の仲間の多くとスパルタ・プラハで一緒にプレーしたけど、僕らはとにかく成功したいと一心に考えていた。今の時代とはその辺が違うし、メンタル的に当時の僕らはより訓練されていたと思う。それが代表が強かった一つの要因かもしれない。でも、ここ最近はかなりレベルを落としてしまった。スロヴァキアと分裂した当時はチェコのほうが断然強かったのに、今や良い選手はスロヴァキア側から輩出されている。国内で最強を誇るスパルタ・プラハにしても、チャンピオンズリーグ(CL)にはもう10年ぐらい出場できていない。

社会主義政権は1989年まで続きました。
社会主義政権が終わったのは僕が16歳の時だった。僕らの世代にとってはちょうどいいタイミングだったんだ。僕らはすぐにこう感じた。「きっと良いチャンスが巡ってくる」ってね。実際にネドヴェドもポボルスキーも(ウラジミール)スミチェルも、みんなビッグクラブへ巣立って行った。マレク・ヤンクロフスキ、ズデネク・グリゲラ、トマーシュ・ロシツキー、ミラン・バロシュ、ペトル・チェフといった面々もね。

あなたが最初に向かった先はベルギーでした。
最初に所属したのはロケレンだった。チェコにいてはこれ以上の成長は望めないと思っていたから、ベルギーに行けたのは願ってもないチャンスだったね。ロケレンはとにかく修行の場だった。たくさんのことを学ばせてもらったクラブには本当に感謝している。当時監督だったヴィリー・ラインデルスが僕の可能性を引き出してくれた。ベルギーでの最初の1年は勉強、そして違った文化になじむ順応期間だった。そして次の年からはゴールを挙げられるようになった。彼は今もスポーツディレクターとしてクラブにいるんだ。僕の人生において、とても重要な人物の一人だよ。

ドルトムントでの5年間は最高に素晴らしかった


加入1年目から2桁得点を挙げ、マイスターシャーレの獲得に大きく貢献。キャリア最高の瞬間を味わった


その後、あなたはアンデルレヒトを経て、2001年にドルトムントへ移籍しました。ドイツ行きの経緯を教えてください。
アンデルレヒトでプレーしていた時に、ドルトムントとプレミアリーグのフルアムから誘いがあった。ジャン・ティガナが監督だった頃のフルアムだよ。気持ちはフィフティ・フィフティでかなり迷ったけど、最終的には欧州カップ戦の常連だったドルトムントを選んだ。

プレミアリーグでのプレーも魅力的だったのでは?
アーセナルとドルトムントのチョイスだったら迷わずアーセナルを選んでいたかもね(笑)。イングランドでプレーするのは僕の夢だったから。アーセナルやリヴァプール、マンチェスター・ユナイテッドのようなビッグクラブでプレーしてみたかった。でも残念ながら、これらのクラブからはお誘いがなかった。

ドルトムントを選んだことに後悔はなかったのですか?
ドルトムントを選んで本当に良かったと思っている。ドルトムントでの5年間は最高に素晴らしかった。加入1年目でブンデスリーガを制して、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)の決勝にも進めた。決勝で負けてしまったのは残念だけど、あの5年間は美しい思い出だ。

ドルトムントでのデビュー戦を覚えていますか?
もちろん覚えている。開幕戦の相手はニュルンベルクだった。ホームで2-0で勝利したんだ。僕自身はゴールを決めることができなかったけど、たくさんのチャンスを作ることができた。

サポーターの熱狂ぶり、スタジアムの雰囲気はどうでしたか?
いやあ、すごかったね。8万人の大観衆の前でプレーしたことなんてなかったから、試合前はさすがに緊張してしまったよ。あの熱狂的なスタジアムの雰囲気には本当に興奮した。

ドルトムントでの移籍後初ゴールはデビュー3試合目のヴォルフスブルク戦。意外にも直接FKからのゴールだった

初ゴールを覚えていますか?
デビューして3試合目だったかな。直接FKを蹴ったらグラウンダーの低いボールになってしまったんだけど、それが壁の間をすり抜けて運良く入ってくれた。

狙ったわけではないと?
「狙った!」と言いたいところだけど偶然だ。たまたま入った(笑)。でもファンはものすごく盛り上がってくれてクレイジーだった。最高の気分だったよ。マティアス・ザマー監督が率いたチームはエキサイティングでした。

彼はどんな監督でしたか?
彼は当時、まだ35、36歳ぐらいだったんじゃないかな(実際には34歳)。とても優秀でキレ者だった。バイエルンに引き抜かれたぐらいだからね。人間としても良い人だった。選手と近しい存在ではあったけど、なれ合いになるようなことはなくて、選手を統率するという部分は徹底していた。何より彼はバロンドールを取ったほどの素晴らしい選手だった。全員から尊敬されていたよ。

加入1年目のリーグ優勝を改めて振り返ってください。
チャンピオンになった瞬間はドルトムントでの一番の思い出だ。あのシーズンは最終節で優勝が決まった。レヴァークーゼン、それからバイエルンとも競っていて、優勝するためにはブレーメン戦での勝利が絶対だった。前半に0-1とリードを許してしまったんだけど、僕がハーフタイムの少し前に同点ゴールを決めて1-1に持ち込んだ。そして終了15分前にエヴェルトンが逆転ゴールを決めてリーグ優勝が決まった。

優勝が決まった瞬間はどんな気持ちでしたか?
試合後は本当にとんでもない騒ぎだった。フットボール人生であれほど素晴らしい瞬間は他にないよ。ホームのファンの目の前で、勝つべき試合に勝って優勝を決めることができたんだからね。

ドルトムント時代に仲が良かったのは誰ですか?
ブラジル人とは仲が良かった。エヴァニウソン、デデ、マルシオ・アモローゾ、エヴェルトン、それからもちろんロシツキーもね。ピッチの外ではドイツ人選手はドイツ人同士で固まっていて、僕らはもっぱらブラジル人とつるんでいた。知ってのとおり、ブラジル人は陽気でお祭り好きだけど、僕らチェコ人はお祭り好きな部分と、ドイツ人的な生真面目な気質の両方があってね。だから僕とロシツキーは適度にパーティーにも参加しつつ、という感じだった(笑)。ただ、当時のドルトムントはピッチに立てばドイツ人もブラジル人もみんなが協力して戦った。それが一番大事なことだよ。

こうして話していても、あなたには親しみやすさを感じます。
僕は誰とでも話せるタイプかな。チームを変えた時もなじむのに問題はなかった。でもフランス時代は少し苦労したよ。フランス人のメンタリティーはちょっと違っていてエゴイストが多い。全員とは言わないけど(笑)。

当時のドルトムントをシンプルに表現するなら、どんなチームだったと言えますか?
当時は多国籍軍で、ブラジル人も多かったし、僕らチェコ人や旧ユーゴ勢もいた。チームとしてまとまるのは難しい状況にあったと思う。でも、ひとたびピッチに立てば全員がチームのために戦う、そんな集団だった。エゴの強い選手もいなかったし、いろいろな国籍の、違ったメンタリティーが融合して、それがいいものを生み出していたんだ。

チームのまとめ役は誰でしたか?
ユルゲン・コーラー、シュテファン・ロイター、ヨルク・ハインリヒのベテラン3人がチームの中核で、あとは20代半ばから後半の僕らが中心だった。エヴァニウソンやデデなんかもそうだね。そこにロシツキーやセバスティアン・ケール、エヴェルトンらの若手がいて、全体的にすごくバランスが取れていたと思う。

UEFAカップでは決勝まで進みました。フェイエノールト戦を振り返ってください。
敵地での戦いでとても難しかった。しかも前半に2点を奪われ、支柱のコーラーを退場で失ってしまった。60分間を10人で戦うことになったんだ。他にも良い選手はそろっていたけど、やっぱり厳しかった。まあ、今となってはあの試合もいい思い出だけどね。

02-03シーズンのバイエルン戦では退場処分を受けたレーマンに代わってゴールマウスに立ち、その節のベストGKに選出された

02-03シーズンにはGKが退場になり、代わりにGKを務めたことがありましたね。
あの試合はよく覚えているよ。バイエルン戦だ。イェンス・レーマンが退場になって、しかも交代枠を使い切っていたんだ。

ゴールマウスに立ったのは監督の指示だったのですか?
いや、自分の意思だった。GK経験があったのは僕だけだったからね。僕は14歳の頃にGKをやっていたことがあるんだ。試合には負けたけど、僕がGKになってからは失点しなかったよ。

その節のベストGKにも選出されましたね!
そうなんだ!(笑)。しかもあの試合では前半にゴールも決めていた。攻めて、守って、一人で大忙しさ(笑)。我ながらかなりの珍事だったと思うよ。

ワールドサッカーキング2017年3月号「BORUSSIA DORTMUND プライドと狂気のフットボール」では、01ー02シーズン、ドルトムントのブンデスリーガ制覇に貢献した巨人コレルが、ドルトムント時代の思い出を語ります!

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