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カカ ミランに捧げた愛情【雑誌SKアーカイブ】

2020.04.01

[サッカーキング No.004(2019年7月号)掲載]

ミランから1億ポンドでマンチェスター・シティへ──。
フットボール史に残る衝撃的な移籍話は、結局のところ実現しなかった。
2009年1月、あのときカカに一体何があったのか。

インタビュー・文=フェリペ・ロシャ
翻訳=田島 大
写真=アフロ、ゲッティ イメージズ

 自宅でくつろいでいると、電話がかかってきた。相手は父親だった。父は不安と興奮が混ざったような口調で、「イングランドのマンチェスター・シティがお前を欲しがっている。1億ポンド(当時のレートで約146億円)のオファーだ!」と言ってきた。そしてミランがオファーを受け入れるつもりだとも言った。まさかシティが僕に興味を持っているなんて思ってもいなかった。彼らは一般的な交渉手段……つまり代理人を務める父に手回しするのではなく、ミランに「これでどうですか?」と尋ねてきた。クラブに直接話を持ち掛けたんだ。

 08-09シーズンはスクデット獲得を目標にしていた。前年にチャンピオンズリーグの出場権を逃した僕たちはリーグ戦に全力を注いだ。クラブは即戦力としてロナウジーニョやアンドリー・シェフチェンコを補強したよ。もちろん主力を売却するようなこともしなかった。「どうしても移籍したがっている選手だけを手放す」という方針だった。でもアドリアーノ・ガッリアーニ副会長が父に言ったんだ。「初めてのケースになるが、我々はこの移籍話に乗り気だ。巨額のオファーを受け入れようと思う」って。それを聞いて、唖然とした。僕は移籍を希望していなかったんだから。

 昔から父は何でも話せる存在だった。僕らは一緒にイングランド行きを検討することにした。ミランが移籍を容認したのだから、自分たちも選択肢を探ろうと思った。でも、あまりにも唐突な話で困惑していた。心をかき乱された僕の生活はめちゃくちゃになっていった……。

 サン・シーロでのフィオレンティーナ戦は酷いもんだった。僕がどれほど悩んでいるかを象徴するような試合だった。移籍話のことで頭がいっぱいで、全く集中できなかった。あのときのサポーターの叫び声は今でも覚えている。「カカ、自分を売るな。カカ、自分を売るな」

 僕は自問自答を繰り返した。ワクワクするような新しい冒険に出るべきか、愛するクラブに残るべきか──。

 ガッリアーニと当時ミランのテクニカルディレクターだったレオナルドに心のうちを明かした。もちろん家族にも相談したよ。正しい精神状態で、正しい決断を下すためには、家族の支えが必要だった。当時の妻、カロリーネとは何度も、何日も話し合った。

06-07シーズンにCL優勝を達成。その功績が評価される形で07年にはバロンドールも受賞した[写真]=Getty Images

当時のシティは冒険を始めたばかりだった

 シティの申し出には本当に驚かされた。だって大型補強がめずらしい1月の移籍市場でのオファーだよ? これがもし夏の移籍市場だったら、クラブやミラノを離れて、自分の考えをまとめる時間を持てたはずだ。でもシーズン中にそんな時間はない。重要な決断を下すのは難しいんだ。まあ、そんなことを言っても仕方がない。実際、1月にオファーがきたわけだし、僕らはシティとの話し合いの席に着いた。父は何度もイングランドに出向いてマーク・ヒューズ監督やクラブ役員と話し合った。

 当時のミランを率いていたのはカルロ・アンチェロッティだった。彼は何が起きているかを把握していたけど、僕の決断を左右するようなことは何も言わなかった。残留すべきとも、移籍すべきとも言わなかった。ただ単に「気分はどうか」、「問題はないか」、「何か助けが必要か」と優しく声をかけてくれた。カルロの思いやりはうれしかったよ。監督は、僕がちゃんと自分と向き合えるよう、そしてチームに影響が及ばないよう、うまくコントロールしてくれたんだ。フットボールの世界で最優先すべきは常にチームだ。僕もそれを理解していたし、常にそれだけは尊重してきた。

 これだけははっきりさせておきたい。イタリアで過ごした時間は本当に幸せだった。だから移籍なんてこれっぽっちも考えていなかった。ミラノという街、イタリアという国に満足していた。これ以上ないほど僕は満たされていたんだ。

 それじゃあ、なぜイングランドへの移籍を検討したのかって? それはミランがオファーを承諾したからだ。あれですべてが一変した。もしミランが断っていてくれたら、そこで話は終わりだった。クラブが「カカは売らない。金額の問題ではない」と言ってくれたら、どんなに楽だっただろう。勝手にオファーを断られたとしても、僕は怒らなかったはずだ。だって、ミランで幸せだったんだから。でもクラブが「悪くない話だ」と受け入れたのなら、選手だって考えを変える。クラブやファンとの関係性は素晴らしかったのに、「移籍していいよ」と言われてしまったら……。ミランでのキャリアは終わりだと告げられたような気分だった。6年も在籍していたら、そういう日がきてもおかしくない。でも、とにかくタイミングが最悪だった。クラブにとっても1月の補強や売却は理想的じゃない。選手にも同じことが言える。言語や文化の違う海外リーグへの移籍となればなおさらだ。

 正直言って、当時はシティについてほとんど何も知らなかった。ただ、シェイク・マンスールに買収されたあと、世界のトップ選手をかき集めているのは知っていた。数カ月前にはロビーニョを獲得していたしね。シティがイングランドのビッグクラブに成長するのは分かっていた。でも当時はまだ、世界有数のクラブを目指す冒険を始めたばかりだった。彼らは手始めに大物の獲得を目指していて、その最初の一人が僕だった。光栄なことではあったけど、僕はシティに対して確信を持てずにいた。

 シティの真意を知りたいと思った。世界最高のクラブを目指すという野心をどうやって実現するのか? 他に誰がこのプロジェクトに参加するのか? 移籍に興味を示す選手が他にもいるのか? 短期的、そして長期的な目標は何なのか? そういったことを明確にしながら、慎重に交渉を進めた。

08年夏、アブダビ・ユナイテッド・グループがマンチェスター・Cの経営権を取得。ロビーニョ(中央)をレアル・マドリードから獲得するなど大型補強へと舵を切った[写真]=Getty Images


 話し合いは細かい数字を協議するところまで進んで、あとは僕が決断するだけだった。提示された給料は、ミランのそれよりはるかに高かった。そういう状況に置かれると、誰だって将来を想像するものだ。神に祈る機会も増えた。人生における正しいバランスを見つけるためにも祈りは大切なんだ。何より、自分の決断のなかに“心の安らぎ”を見いだせる。

 交渉が最終局面を迎えたとき、再び電話が鳴った。僕はミラノの自宅にいて、相手はやはり父だった。外にはミランのサポーターが何百人も集まっていた。そろそろ結論が出ると知った彼らは、それが自分たちにとっても極めて重大なことだと伝えにきたんだ。あの頃、サポーターはいろいろな形で愛情を示してくれた。

 今でもミランのファンは僕を愛してくれている。そして僕も彼らを愛している。相思相愛なんだ。あのとき、サポーターが自宅の前に集まらなくても、僕の決断は変わらなかっただろう。でも、あの状況でファンの愛情を再確認できたのは大きかった。彼らが僕をどれほど気にかけていて、どれほど一緒に戦い続けたいのか、それを改めて感じることができた。道端にあふれ返ったサポーターは合唱していた。僕が電話で話している間ずっとだ。父はシティの最終的なオファーの詳細を告げて、「話し合いは終わりだ」と言った。「あとはお前次第だ」

 僕は力を込めて「父さん」と呼んだ。「シティに伝えてほしい。今は行けないと。将来的にどうなるかは分からないし、そのときはそのときで考える。でも今はミランに残る。それが僕の最終決断だ」

移籍に反対するサポーターが、カカの自宅やミランのオフィス前に集結。警察も出動する騒ぎになった[写真]=Getty Images

ミランを選択したことに後悔はしていない

 僕はようやく決断できた。シティに行くのは今じゃないと思ったんだ。チーム作りに関して少し不透明な部分を感じたし、うまく機能する保証もなかった。今の安定したシティからオファーをもらった選手は、10年前の僕のように頭を悩ます必要はないだろう。僕だって全く違う決断をしたはずだ。そう断言できるよ。

 でも残念ながら当時は状況が違った。あの頃の僕は、ヨーロッパで最も輝かしい歴史を持つクラブから、新しいプロジェクトに乗り出したばかりのクラブへの移籍を問われたんだ。僕がシティの最初の大物選手になるという話だった。今振り返っても、ミランに残るのが最善だったと思う。ミランは欧州有数のクラブであり、常にCLに出場していた。そして僕は、そんなクラブで主力として、みんなから評価されていた。

 今でも聞かれることがある。僕が自宅の窓から身を乗り出して、大勢のサポーターたちに笑顔でミランのユニフォームを披露したことを。実は、あれは無意識のうちにやっていたことなんだ。混乱やプレッシャーといったすべての感情から解放されて、気づいたらああしていた。父に残留の意思を告げたあと、ミランにも自分の決断を伝えた。するとクラブが広報を通じて声明を出したんだ。それをマスコミが一斉に報じたものだから、自宅の外に集まったサポーターにも伝わった。瞬く間にファンの歓喜の雄たけびと歌声が鳴り響いたよ。気づけば僕はミランのユニフォームを手に取り、サポーターと一緒に喜びを分かち合っていた。歌ったり、踊ったり、発煙筒を焚いたり……あんなに激しいお祝いは見たことがなかったよ(笑)。

 ミランを選択したことに後悔はしていない。人は重大な決断を迫られたとき、答えを出せずに永遠に迷い続けることがある。でも僕は決断を下すことができたし、その後の人生やキャリアに満足している。選手として、人として、今の自分を誇れる。人生における数々の決断を経て、そう思えるようになった。イタリア、スペイン、そしてアメリカでもいろいろなことを学んだ。今の僕があるのは、そうやって歩んできた過去の僕のおかげだ。

ミラン・サポーターにとってカカは特別な存在。カカ自身も今でも「相思相愛」と語る[写真]=Getty Images


 あの移籍話から数カ月後、結局ミランを離れることになった。レアル・マドリードへ移籍して、自分の夢を叶えることになった。いつかミランを出る日が来きたらレアルへ行くと決めていたんだ。人生は何が起こるか分からない。あの冬、声をかけてくれたのはレアルじゃなくてシティだった。今思うと、僕はシティのオファーを断ったことで、お金がすべてじゃないことを証明したのかもしれない。夏に他のクラブからオファーが来ることは分かっていた。ミランが一度は移籍を認めたことが知れ渡っていたからね。そして僕も移籍を検討するようになった。レアルが興味を示してくれたら素敵だな、と考えていた。

 プレミアリーグでプレーしていたら素晴らしい経験ができたと思う。現役を引退した今なら何とでも言える。これまで下した決断の結果を知っているわけだからね。別に後悔しているんじゃない。僕は自分のキャリアを誇りに思っている。ただ、もし自分で好きなようにキャリアを計画できたなら、一度はイングランドでプレーしただろう。

 決断を下すとき、大切なのは落ち着いて“心の安らぎ”を見いだすことだと思う。そしてあのときの僕にとっては、ミランに残ることが“心の安らぎ”だった。シティに「移籍はしない。でも、ありがとう」と伝えることがね。

※この記事はサッカーキング No.004(2019年7月号)に掲載された記事を再編集したものです。

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