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“オンリーワン”貫いた稀代のレフティ玉田圭司 「楽しいサッカー」追い求めた23年間

2021.12.14

2021年限りでプロ生活を終えた玉田 [写真]=元川悦子

 2006年のFIFAワールドカップ ドイツのブラジル戦で左45度からの強烈左足シュートを決め、世界を震撼させた玉田圭司柏レイソル名古屋グランパスセレッソ大阪V・ファーレン長崎の4クラブで23年間にわたってプレーした41歳のレフティが今季限りでユニフォームを脱いだ。

 12月5日の松本山雅戦でラストプレーを見せてから1週間。11日には長崎で報道陣とサポーター300人を前に引退会見を実施。


「松本戦の笛を聞いた瞬間は安堵感と寂しさが半々くらいだったかな。(名古屋時代の盟友・)田中隼磨選手が僕のことを思ってくれて、一周せざるを得ない状況を作ってくれた。一生忘れない光景になりました」としみじみと感動の瞬間を振り返った。

 爽やかなルックスで切れ味鋭い左足のドリブルや豪快なシュートを見せ、人々を魅了してきた玉田。だが、10代の頃からスター街道を邁進してきたわけではなかった。習志野高校時代は当時U-16日本代表だった吉野智行(現ガイナーレ鳥取強化部長)をはじめとした優秀な同期がひしめき、「日の丸なんて全然考えたことはなかった」と本音を漏らす。

 それでも、柏から熱烈オファーを受け、99年からプロキャリアをスタートするとグングン成長。ブルガリア代表の名レフティ、フリスト・ストイチコフや韓国代表のレジェンドである洪明甫たちから刺激を受け、高度なレベルを渇望するようになる。左足のテクニックは明らかに非凡で、秘めた才能は西野朗、マルコ・アウレリオら柏の歴代指揮官に高く評価された。

 日本代表監督だったジーコも放っておくはずがなく、2004年3月のドイツW杯アジア1次予選のシンガポール戦で抜擢。そこでデビューを飾ると、玉田は続く4月のハンガリー戦で初ゴールを奪う。さらに反日ムード一色の中国で開催された2004年のアジアカップではギリギリの緊張感の中、延長までもつれ込んだ準決勝のバーレーン戦で値千金の2ゴールを叩き出し、強烈なインパクトを残した。

 名実ともに日本代表の看板アタッカーの1人となった男は冒頭のブラジル戦の歴史的ゴールを生み出し、2010年の南アフリカW杯にも出場。国際Aマッチ72試合出場16ゴールという偉大な数字を残すに至った。

「『代表レジェンド』って言われるのは正直、違和感しかない。自分の中では自分が一番だと考えてるけど、上には上がいる。レジェンドって現役中に言われた時には『終わった選手』みたいな気がしていましたよね」と玉田は苦笑したが、代表から離れた後が本当の意味でのサッカー人生のスタートだったのかもしれない。

 2010年には名古屋で初めてのJ1制覇を達成。悲願のタイトル獲得を決めた11月の湘南ベルマーレ戦では決勝弾を叩き出した。

「柏の頃は自分が思うようにやっていて、周りが合わせてくれる形だった。だけど、年齢を重ねるごとにサッカーをいろいろな視点で見るようになった。『どうしたらチームがうまくいくのか』『組織の中で自分が生きるには何が必要なのか』とつねに考えるようになった。名古屋でのJ1制覇は自分のサッカー観が変化する大きなきっかけだったと思う」と本人も述懐する。

引退会見に駆け付けた三都主アレサンドロ [写真]=元川悦子

 確かに当時の優勝チームには楢崎正剛、田中マルクス闘莉王、田中隼磨、三都主アレサンドロ、ケネディといった強烈な個性が揃っていた。勝つために意見をぶつけ合い、時には怒鳴り合うくらい激しく要求し合うことも辞さなかった。その結果、強固な集団が生まれた。玉田はサッカーの奥深さを再認識し、30~40代のキャリア構築につなげていったのだ。

 2010年以降の10年あまりで、サッカーの戦術は目覚ましく進化し、スタイルも多様化・高度化していった。玉田は2010年前後に世界を席巻したジョゼップ・グアルディオラ監督のバルセロナに魅了されたというが、その志向をより強めたのが、2017年に復帰した名古屋で出会った風間八宏監督だった。

「風間さんからは学ぶことがすごく多かった。今の川崎フロンターレのベースを作った方だけど、人とボールが流動的に動き、全員がやるべきことを共有して戦うという理想的なスタイルを目指していた。僕自身も守って1-0で勝つより、派手な打ち合いをして4-3で勝ち切る方が好き。そういうサッカーを風間さんと一緒に志向できたのは大きかったですね」と、しみじみと語る。

 そのスタイルを追い求めつつ、技巧派レフティという自身の武器には強くこだわった。

「左足に強いこだわりを持ちながらプレーしてきました。左利きじゃなかったら、サッカー選手にもなれていなかったんじゃないですかね。日本にも世界にも左利きの素晴らしい選手がたくさんいますけど、僕は人と自分を比べたことがない。良いものを盗もうとは思ってきたけど、(中村)俊輔さんやアレックス(三都主)に関してはキックで盗めるものはない。『自分ならこうする』という考えでやってきました」とオンリーワンの生き方を貫いた。

 比類なき存在に君臨したからこそ、41歳まで現役を続けることができたのだろう。「個の武器」を伸ばすことの重要性、それを組織にうまく還元することの大切さを玉田は身を持って示してくれたと言っていい。

 こうした経験を後進に伝えていくことが、彼に託される使命だ。引退後は指導者ライセンス取得を最優先に考えている。現在JFA公認B級コーチライセンスを保持しているが、来年からは日本代表キャップ数20試合以上の元選手はA級・S級とスピーディーに取得できるようになる。早ければ2024年には「玉田監督」誕生の基盤は整うわけだ。

 一方で、本人は育成年代の指導にも興味を示している。数年後にどのような道を歩んでいるか分からないが、どの環境でも魅力的な攻撃サッカーを目指し、飛び抜けた個を生かす術を追求し続けるはずだ。

 サッカーの醍醐味をもっともっと広く伝えたいと玉田は願う。これからはその活動を率先してやってくれることを強く求めたい。

取材・文=元川悦子

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