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【ライターコラムfrom広島】GK王国・広島の背番号「1」…最高のスタートを切った林卓人は、笑わない

2・3月のJ1月間MVPに輝いた林 [写真]=Getty Images

 2015年、明治安田生命Jリーグベストイレブンを獲得したGK西川周作(浦和レッズ)が表彰式の後、こう告白している。「ベストイレブンは、卓人さんだと思った」。

 平均失点0.88、被シュート成功率6.5パーセントとは、ともにリーグナンバー1。シーズン終盤には3本連続PKストップ。年間勝点1位であり、チャンピオンシップでも勝利した広島史上最高のシーズンは、サンフレッチェ広島の背番号1・林卓人の存在を抜きにして、語ることはできない。その彼がMVPどころか、ベストイレブンにも選出されなかった。この結果を受けて当時のJリーグ選手会長だったFW佐藤寿人(名古屋グランパス)は「選出方法の改革が必要なのではないか」と訴えている。

 表彰はともかく、プレーそのものは完全な円熟期を迎えたといっていい充実の年。だが林はそこで、まったく満足していなかった。「パフォーマンスが物足りない。もっともっと、レベルアップしないといけない」。その思いのベースには、若い頃に見てきた3人の偉大なGKの存在がある。川口能活(SC相模原)、楢崎正剛(名古屋)、そして林が広島に加入した時に最も高い壁となった下田崇(日本代表GKコーチ)。

「未だに日本のGKは、3人を超えてはいない。以前と今とではGKに求められるものも変わってはいるけれど、ゴールを守るというキーパー本来の仕事では、超えられていない」

 川口と楢崎については、説明不要の存在。そして彼らと同世代である下田もまた、元日本代表というだけではなく、日本サッカー史に残るGKだ。2003年、広島が与えた全てのPKをストップ。2005年にいたっては、当時の小野剛監督をして「シュートを打たせて下田に処理させる守備」という戦術を構築させるほどの絶対的な信頼を得ていた。

 ただこの年、アクシデントから右ひざ後十字じん帯損傷という大ケガに見舞われた後も負傷をかさねてしまい、2010年には川口や楢崎よりも先に引退を余儀なくされてしまう。だが、全盛期の彼は紛れもなく最高のGK。広島史上に燦然と輝く背番号1の姿を見て育った林にとって、彼こそが自分のレベルに対する物差しだ。

 2001年、田中マルクス闘莉王(京都サンガF.C.)や李漢宰(FC町田ゼルビア)らとともにプロ入りした時は、全くの無名。1年目は広島のトレーニングについていけない自分に「俺はこんなものなのか」と自信を失った。その林に勇気を与えたのが、下田の影でセカンドGKに甘んじていた加藤竜二(JFAアカデミー福島女子GKコーチ)の努力だった。

「竜二さんは練習の時に100パーセントの力を発揮していただけでなく、周りの甘いプレーに対して怒ったり、チームを盛り上げる声を出したり。そういう竜二さんだったからこそ、シモさんが出場停止となった試合(2001年10月31日対ヴィッセル神戸戦)で活躍して、チームを勝利に導けたんです」

 加藤の姿を見て、林自身が感じたこと。上手くなるためにはとにかく、トレーニングするしかないというシンプルな結論だ。練習すれば試合に出られるかというと、それは違う。しかし、練習しないとベンチにも入れない。何かあった時に準備ができていなければ、チャンスすらつかめない。

 実際、林卓人のトレーニングは、鬼気迫るものがあった。いつまでもいつまでも、加藤寿一GKコーチが蹴るボールを受け続けた。地面に転がり続け、芝が汗まみれの肌にベットリと張り付き、シャツは泥にまみれた。グラウンドから引きあげるのはいつも最後。そこで話を聞こうとしても、息がまったく整わない。そういう日常が若き日の彼を支えた。

 2002年の天皇杯、林は下田の負傷からチャンスをつかみ、ビッグセーブを連発して、J2降格が決まったチームを準決勝に導く。翌年、アテネ五輪を目指す年代別代表に選出され、そこでポジションをつかんだ。だが、国際舞台でいくら活躍しても、チームに戻ると下田崇の控え。その壁を乗り越えられない。悩んだ。悩み抜いた。

 当時の林の言葉を、ここで記そう。

「シモさんとは、全ての面で差があった。フィジカルの能力についても、ポジションどりにしても。位置に入るスピードや精度、構えるタイミング。本当に質が高い。シュートを打たせないし、打たせても止める。守備範囲も広い。何より、あれほどの人がどんどん成長しているんです」

「(年代別)代表の試合に出るのは、楽しかった。でも、チームに戻るとシモさんの凄さに気づかされる。だからいつも、一からやりなおそうという気持ちになれた。だからこそ、広島で頑張ろうという気持ちになれたんです」

下田崇

かつて広島の正守護神として君臨し、数々のピンチからチームを救ってきた下田 [写真]=Getty Images

 当時の下田は、林の存在をどう感じていたか。

「ルーキーの頃から、卓人は間違いなく成長すると思っていた。強気な姿勢がいいし、勝負を仕掛けてきていたしね。僕にとって卓人の存在は間違いなくプレッシャーだし努力へのモチベーション。練習で卓人がAチームに入ると、本当にイヤなんです。少しの隙も見せたくないから」

 結局、林は下田からポジションを奪うことなく、2004年に広島を去った。五輪予選では大活躍してアテネ五輪の切符をつかんだとはいえ、一方で実戦経験の乏しさを痛感。本大会でも腰痛という事情はあったとはいえ、バックアップメンバーになった。その現実が、彼の考え方を「移籍」へと傾かせた。

「広島を離れたくはなかったし、本当は期限付き移籍という形をとれれば1番よかった。他のチームで経験を積み、戻ってきてシモさんと勝負したかった」

 だが当時の広島強化部は、下田と競争できる力を持つ林に大きく期待。チームに残留してほしいと熱望した。実際、当時J2だった北海道コンサドーレ札幌からオファーが届いたのだが、完全移籍が前提だった。自分を育ててくれた広島への感謝や愛は、心の中にある。だが、4年目を過ぎたプロとしての判断は違った。

「札幌で結果を出してJ1にあがれば、シモさんと戦える。広島に戻れなくなっても、それはしかたがない」

 悲壮な決意をもって、彼は移籍を決断する。プロとして成長するために広島への、下田への想いを封じたのだ。札幌でも、次の移籍先となったベガルタ仙台でも、林はポジションを獲得した。しかし、気になったのはいつも広島、そして下田崇の存在。どれほど活躍し、どれほど評価されても、日本代表に招集されても、下田を超えられた実感はなかった。「シモさんなら、あのシュートをどう止めただろう。今はどんなトレーニングをしているのだろう」

 だが、思い焦がれた偉大な先輩と対戦することは、なかった。林が仙台の正GKとしてJ1に復帰した頃、下田は負傷との戦いの中でベンチ入りも難しくなっていた。そして2010年11月27日、広島からの移籍後初めてエディオンスタジアム広島に林が立った時も、下田はベンチスタート。そしてこの試合は、下田崇の引退試合だった。

「シモさん、ユニフォームを交換してください」。試合後、恩人にどうしてもこの言葉を言いたくて、広島のロッカールームを訪れた。交換したユニフォームは、林の宝物である。

 2014年、もう戻れないと覚悟を決めていた広島からのオファー。その事実を聞いた時、仙台で知り合い結婚した愛妻が泣いた。嬉し涙。林自身の人生を変えたクラブへの強い想いを、彼女は知っていたからだ。しかも、そのオファーの裏側には、当時の広島GKコーチだった下田崇の推薦が存在。2015年の快挙は下田コーチと林卓人、2人の師弟コンビが創りだしたものだった。

 でも、まだ若き日に見た背番号1に、追いつけてはいない。だからこそ、もっと上手くなりたい。林の気持ちはトレーニングに向かった。今までとは違ったアプローチを試み、あの練習の鬼が「ここまでストイックにやれる自分がいたのか」と感じるほど、若い頃以上に泥にまみれた。だがそれが、パフォーマンスに現れない。それどころか身体にも異変が起き、腰痛が悪化。昨年8月15日、腰椎椎間板ヘルニアの手術(全治8週間)に踏み切らざるをえなかった。 

 この時の34歳という年齢は、下田が引退を決めた時と同じ。腰という人間の運動に関して根幹を成す部位にメスを入れざるをえなかったことで、林は現役引退も覚悟した。だがそこで広島の木本実トレーナーが林を励まし、身体の状況を把握してアドバイスを欠かさず、治療や練習もずっとサポート。木本トレーナーが諦めることなく林へのアプローチを続けたことが、未来を悲観していた林の想いを動かし、復活に向けての強い気持ちを増幅させた。復帰2試合目の第32節・神戸戦、続くFC東京戦でビッグセーブを連発。広島を降格の危機から救ったのは復活した背番号1、かつて下田崇のトレードマークだった1番をつけた勇者だった。

林卓人

鹿島戦ではPKを止めるなど、強力攻撃陣をシャットアウト [写真]=J.LEAGUE

 2018年の2・3月月間MVPに林卓人が選出された。この間の5試合で失点がわずか1。鹿島アントラーズ戦ではPKをとめ、そのこぼれを撃ったFW土居聖真の決定的なシュートも驚異的な反応で弾き飛ばした。結果からすれば当然の受賞であるが、2015年のことを考えると本当に喜ばしい。

 ただ、彼の本当の凄みは、ビッグセーブをビッグセーブに見せないポジションどりや判断の確かさ、そして何よりも鋭く速いボールやスピンがかかったシュートもしっかりと掴むキャッチングの上手さにある。柏戦ではFWクリスティアーノの剛球PKにしっかりと対応し、ボールの勢いに負けず、弾き飛ばした。湘南戦では松田天馬の強烈なシュートに対してしっかりと正対する位置に立ち、全く隙のないキャッチングを見せ付けた。開幕8試合で2失点という実績を裏づける技術、そして戦術的な能力に対しても、林卓人はまぎれもなく超一流。その事実を改めて証明した2018年の開幕だった。

 ただ、最高のスタートを切ったにもかかわらず、紫の守護神は笑わない。

「今はようやく、自分の水準に戻っただけ。そこから上積みしていかないと、厳しい。チームとしても結果はでているが、負けてもおかしくない試合もあったし、幸運もあった。内容に満足している選手はいないし、課題も多い。謙虚な気持ちで、必死になってハードワークしていかないと。次はやられるかもしれないという危機感は、常にある」

 若き日の林卓人が胸に刻んでいたのは、元イタリア代表FWロベルト・バッジォの言葉だった。「昨日の自分に負けたくない」。成長への努力を継続するバックボーンとなったこの言葉は、今も彼の心にある。そしてこの言葉を実践するためのエネルギーは、林卓人の脳裏に焼き付いている下田崇の姿。追いつけるのかどうかもわからない目標に対峙しているからこそ、彼はストイックになれる。

「たとえシュート練習であっても、1本のゴールすら許したくない」。下田崇の言葉である。

「すべてのシュートは止められる。たとえクリスティアーノ・ロナウド(レアル・マドリード)が打ったシュートであったとしても」。林卓人の想いである。

 そしてこれが、GK王国・広島の背番号1の誇りなのである。

文=紫熊倶楽部 中野和也

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