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【インタビュー連載】フットサル日本代表『タシュケントの夜に』~FP仁部屋和弘「世界一早く、次のW杯への準備を始める」~

2016.03.28

背番号10をつけて大会に臨んだ仁部屋和弘 [写真]=河合 拓

 フットサル日本代表は、4大会連続のフットサルW杯出場と大会3連覇を目指し、ウズベキスタンの首都タシュケントで開催されたAFCフットサル選手権に臨んだ。W杯の出場権が与えられるのは上位5チーム。日本は過去14大会すべてで4強入りを果たしていた上に、今大会に出場したチームは、「史上最強」とも評され、W杯出場は確実視されていた。しかし、準々決勝でPK戦の末に敗れると、順位決定プレーオフ1回戦でもキルギスタンに2-6で惨敗。大会3連覇どころか、W杯の連続出場を途切れるという最悪の結末に終わってしまった。

 プレーオフ1回戦終了後、フットサル日本代表の選手たちはウズベキスタンの地に残っていた。現地で、選手たちは現実を受け入れられずに、それぞれに苦悩、後悔を抱えながら、それでも懸命に前を向こうとしていた。そのときにインタビューに応じてくれた選手たちの言葉を『タシュケントの夜に』という連載として記す。

 第4回目は、今回の日本代表の象徴ともいえるFP仁部屋和弘(バサジィ大分)。左右両足を同じように扱うことができ、相手を無力にするドリブルはチームにとって大きな武器だった。4年前のW杯では、FP三浦知良(横浜FC)に押し出される形でメンバーを外れた男は、それだけに今大会に懸ける思いは誰よりも強いものがあった。

 以下、仁部屋和弘インタビュー

――キルギス戦から2日が経ちました。今はどのような気持ちでしょうか。
「まだまだ全然、悲しさとか、ショックとか、悔しさとかがこみ上げて、急に涙が出そうになってきます。みんなそうなんですよ。なぜか急に涙がこみ上げてきて…。食事のときなんか『おまえ、泣きそうになった?』『ああ、今ちょっとヤバかった』とか、そういう会話があるくらいですからね。みんなこの大会のために準備してきていましたし、いろんな人たちに支えられてきましたからね。そういう人たちのためにというか、唯一の恩返しが勝ってワールドカップに行くことでしたから。それができなかったことが悔しいですし、そういう人たちの顔が浮かんでくるとすごく悲しいです」

――周りの人に申し訳ないのが一番なのですね。
「いろんなことが頭をよぎりますけどね…。僕の場合は母もウズベキスタンまで見に来てくれていたので、親にも申し訳ないです。ただ、これを絶対に良い経験にしないといけないとは思っています。こんな経験は、そんなにできるものではありません。間違いなくこれまでもなかったですし、今後もないと思うんです。これだけ責任を背負って、不安になるような状況で試合をするようなことは、もうないと思うんです。その中で過ごせたこの期間は、間違いなく大切な経験になると思います。とにかく苦しかったですね」

――もっとも苦しかったのは、いつですか?
「ベトナム戦に負けたあとですね」

――2ゴールを決めながらも、最後のPKのキッカーとなりました。
「ここ最近、チームでも外していなかったので。久しぶりに外して悔しいですけど。でも、自分で責任を持ってやりたかったので…。それだけです。前を向くしかありません」

――次の試合に切り替えるのが難しかったのでしょうか?
「いえ、切り替えることはうまくできたと思うんです。終わった瞬間に、ミゲル監督がミーティングをして『いま、この瞬間から切り替えよう』と言われて、その瞬間に僕は、すぐにでももう1試合やりたいという気持ちになりました。ミゲルにも直接『僕が勝たせるから』って言いに行こうかなと思うくらい。それくらいW杯に行かないといけないという責任感もあったし、気持ちは切り替えていました。でも、早くW杯行きを決めたいという不安はありました。平常心でいたかったのですが、ベトナム戦で(W杯行きを)決めたかったですし、その期間、僕は滝田(学)と同部屋だったのですが、すごく強い言葉を交わしていましたね」

――どんな言葉だったのですか?
「俺たちはここで勝って、這い上がって、男になろうと。この大会でW杯の出場権を獲得して男になって、この苦しさをはねのけて、誇れるような男になりたいなと話していました」

――それでも苦しかった?
「苦しかったですね。不安がその裏にありましたから。W杯に行けなかったらというのもありましたし、ベトナム戦で負けてしまったことは悪い流れでしたし、負けてしまった試合を思い出したので。でも、この大会を終えて、少し人間的に変わらないといけないなと感じました」

――どういうことですか?
「僕はミゲル監督を尊敬していますし、大好きな監督です。いつも僕たちに自信と希望を与えてくれる監督でした。僕もそういう人間になりたい、そういうリーダーになりたいと思っていて、そういう良い所は自分のものにしたいなと。常に周囲に自信を持たせてくれる、明るい未来、希望を持たせてくれる存在になりたいなと思うんです。どんなに難しい状況であっても、自分も、周りも前向きにさせてくれるエネルギーが出てくるから。そういう人に自分もなりたいと思っています」

――当然、ミゲル監督のためにもという気持ちもあったんですよね。
「ありました。僕は一番、お世話になったというか。ミゲルに一番面倒を見てもらったと思います。今の僕がここにいられるのは、ミゲルに成長させてもらったからだと思います」

――なかなかW杯に連れて行ってもらえなかった監督に対して、そういう気持ちは持てないものですが。
「外れた理由も、自分にありますからね。僕は代表で一番大事なのは、タフさだと思っているんです。長い間、普段はあまり一緒に過ごさない選手たちと、一緒に生活をすることになる。その中で、激しい競争もあるんです。その日常で、間違いなくストレスがあるんです。そこで生き残るためには、海外で生活することもそうだし、常に自分は良い環境でいられないので、一番大事なのはタフさだと思うんです。それは僕が一番持っていなかったものだと思うんです。4年前に関しては、W杯前の合宿での競争で、自分自身が疲弊していました。この状態でW杯に行っていたら、どうなっていたかわからなかったという状態だったので、そこは落ちて当然というか。プラスアルファ、ミゲルが前回のW杯予選を兼ねたアジア選手権のときに、僕をチームの中心にしたいという話が伝わっていたんです。それを聞いたときに、僕はそれを受け入れられるメンタルがありませんでした。競争だから、良いこともあれば、悪いこともある。年上の選手は良く思わなかったりするし…。僕はこの集団ではやっていけないなと思って、まず人間性を高め、タフさをつけて、今回はここまで成長させてもらったので」

――人間性はどう高めたのですか?
「普段を改善することですね。代表を考えることもそうですし、厳しい環境に身を置くというか。当たり前のことを、当たり前にする。でも、それが一番難しいんです。それを私生活からどれだけやれるか。まだまだですが、8年前と比べると、僕は変わりましたし、行動も変えてきたつもりです。そういうところをまず変えて、っていうところがありました」

――今は自分から勝たせるっていうようになっている。
「それくらいのメンタリティを持たないと、代表は勝てないと思いますし、全員がそういう強い気持ちを持って、初めて代表は勝てるものだと思います。そう思うようになったら、プレーも変わったと思いますね。やるか、やられるか。それくらいの気持ちで、『ここでやられたら死ぬ』くらいの気持ちでやっていました」

――2年前のベトナム大会とは何が違いましたか?
「余裕が持てていますね。いろんなことを経験させてもらっているので。4年前だったら、この前のキルギス戦のときに、チームのことを考えてこうしようとか。あそこまで周りが見えたかというと、自信はないですね。僕も一生懸命やっていたけど、周りも一生懸命やって、たまたまみんながすごい集団だったから、ベトナムは力を合わせて優勝できた。みんなが共鳴し合っていた。リーダーシップがいらないような感じですよね」

――やりやすいようにやっていたのが、うまくはまっていた?
「よくわからないのですが、2年前はみんな感覚が似ていたというか、共鳴していたというか。考えることが同じで、パッとお互いが何をしようとしているかわかったんです。ただ、自分個人の話をすれば、あのときよりも、今の方が見えている部分は大きくなっていたと思います」

――そうなると更なる成長のためにも、今回のW杯は行っておきたかったですね…。
「僕、一つだけ後悔したコメントがあるんです。いろいろな記者の人に、『W杯に懸ける思いはどうですか?』って聞かれて、『フットサルはW杯がすべてではありません』って、答えていたんです。実際、W杯以外にもフットサルはすごくたくさんありますし、すべてに対して一生懸命やっていたので、『W杯だけを特別視していませんよ』と言っていたのですが、こうやって失ってみると本当にデカかったんだなって思います」

――自分でも気づかないうちに、懸ける気持ちが強くなっていた?
「何がデカいかというと、僕は世界でトップクラスの選手になりたいという目標があって、そのために、今、日々レベルアップをしようと思っています。その物差しの一つと考えると、W杯はめちゃくちゃ大きいんです。その舞台に立つか、自分でスペイン、ブラジルとかに飛び出していくか。日本でめっちゃ頑張って、世界に名をとどろかせるくらいになるか。それしか方法がないんです。手っ取り早いのは、W杯優勝です。僕は本気で今回のW杯に優勝しないと、日本のフットサルが盛り上がらないと思っていましたし、そのための準備をしないといけなかった。アジア選手権を制して、W杯に向けて、もう2、3段階、自分を高めていくプランを立てていました。自分の中では順調に仕上がっているつもりでしたし、アジア選手権ではこれくらい、W杯までにはさらにこれくらいっていうところまでイメージできていたんです。それは僕だけじゃなく、他のみんなもそうだったので、すごく頼もしく感じていたんですけどね…」

――みんなW杯まで計算していたんですね。
「していましたね。だから毎回合宿のたびに、一人ひとりがどこまで成長しているかが楽しみでしたし、それが自分自身にすごく刺激になっていました。それがあったから、大きなモチベーションを持ち帰って、チームでの苦しい練習に取り組めていたんです。そうやっていたのがあったから、W杯っていうのは大きかったなと」

――選手としてこうなると描いていたプランが、だいぶ狂ってしまったんですね。
「だいぶどころじゃないですよ。そして、この悔しさが最終的にどこにつながるか、どこで晴らせるかというと、次のW杯しかありえないんです。まだ頭の整理がまったくできていないのですが、今、見えているのはそこしかありません。あとは、W杯に連れて行くという約束を妻と娘にしているので、その言葉にも責任を持って、もう一回戦わないといけません」

――整理はできていないけど、明確な目標は見えている、と。
「今大会に日本が出られなくても、次の大会で優勝することもあり得るわけですから。今から4年間、その準備期間と考えたら、どこよりも早いスタートを切れるわけです。他の国は、コロンビアW杯に照準を合わせているし、そこまでの調整期間もあるわけです。でも、僕らにはコロンビア大会はなくなりました。もう、どう考えるかは自分たち次第ですからね。もうコロンビア大会に照準を合わせなくていいから、今から4年後の2020年W杯に向けて推進力を上げて、どこよりも早くスタートを切る。僕は常に前を向いて行きたいから、切り替えて、世界で一番早いスタートを切る。W杯に優勝することを考えたら、この結果にグダグダしている暇なんかありません」

――今、ウズベキスタンにいるうちから4年後にスタートを切る。
「僕は世界最速のスタートを切って、W杯で優勝するためにという軸を立てる。実際、W杯優勝を目標に立てるのであれば、そんなに休んでいる暇はありません。その軸から考えると、突き進むしかない。調整をしている暇なんかない。僕は、よく冗談交じりで若手に『リーグ戦に向けて調整をしているようだったら、代表なんか入れないよ』って言うんですよね。もちろん、調整することも必要なのですが、本心として、それでは『W杯にも行けないし、W杯にも勝てないよ』って。日本と世界には、それくらいの差があるわけですから。実際は、それが正解かもわかりませんが、僕はそういう考え方でやっています。国内では、調整しなくても圧倒しなければいけない。僕はW杯で優勝したいから、そういう調整はしていないんです。とにかく、これからの4年間はそこだけを見据えて、毎試合、得点を量産します。毎試合3点くらいは取る。それができなければ、W杯に行くことができないままになってしまいますから」

インタビュー・文・写真=河合拓

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仁部屋和弘(にぶや・かずひろ)
1987年12月13日生まれ。大分県出身。柳ヶ浦高サッカー部では、同校を始めての高校サッカー選手権出場に導く。06年にバサジィ大分に加入し、08年にフットサル日本代表に初招集され、12年、14年のアジア選手権連覇に貢献した。Fリーグでは3度のリーグベスト5に選出され、その高い技術は日本国内だけでなく、海外からも高く評価をされている。

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