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セレッソに躍動感をもたらすために 前編/クラブ復帰後に感じた違和感の払拭

2016.07.14

インタビュー・文/前田敏勝
写真/安田健示

セレッソ大阪というクラブの誕生を支えた功労者が帰ってきた。昨年から大阪サッカークラブ株式会社の代表取締役社長に就任した、玉田稔氏。桜という日本を代表する花をモチーフにし、当時珍しかったピンク色をクラブカラーに取り入れたのも玉田社長だ。

そんな玉田社長は2015年にセレッソに復帰した当時、クラブの雰囲気に何か違和感を覚えたという。今季は「SAKURA SPECTACLE」というクラブスローガンを掲げ、J1復帰に邁進するセレッソ大阪。その違和感を払拭し、どのようにして目標達成に向けて取り組むのか。一度クラブを離れた玉田社長だからこそ見えるクラブの状況、そして今シーズンの展望を追った。

「当時は土のグラウンド。何とかしなくてはと」

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——セレッソ大阪に関わられるようになった経緯を教えてください。

玉田 稔 サッカーに関わるのは、3回目になります。最初は1977年にヤンマーディーゼル株式会社(現、ヤンマー株式会社)へ入社したとき、サッカー部の選手とマネージャーの仕事を3年やりました。その後、92年に「サッカープロ化推進部推進グループ」が作られ、私に声がかかったのです。担当したのは、(セレッソ大阪の)会社を作るというところ。出資をしていただけるスポンサー企業を集めてこなければいけないということで、広告代理店の方と一緒になってプレゼン資料を作って、「こういうことでJリーグ入りを目指すチームを作りますが、賛同いただけませんでしょうか」といって、あちこち回ったのが、私の仕事の中身でした。そして、93年に会社ができて、ヤンマーサッカー部をベースに『セレッソ大阪』となったのですが、そのチーム名の決定にも関わらせていただきました。セレッソとして最初に担当していたのは、管理部というお金の面倒をみるところ。その後、企画と広報をみる形になり、事業の仕事みたいなことにも携わりました。セレッソにはプロ化推進室を入れて、5年半くらい在籍したと思います。再びヤンマーでの仕事に戻っていたので、2015年から携わっている今回は、18年ぶりということになります。

——ヤンマーではどのような仕事に取り組まれていましたか?

玉田 稔 ヤンマーでは、エネルギー関連の仕事をずっとやっていました。それが2003年に事業会社として独立をした(ヤンマーエネルギーシステム株式会社)ので、そちらに出向になり、その後、営業部長や社長としてその会社に携わりました。

——15年シーズンから社長としてセレッソに戻ることになりました。

玉田 稔 実は10年くらい前、50歳になるかならないかというときにも、一度そういう話になったことがありました。結局は立ち消えたのですが、そこから今回、社長に決まって、初めて練習場のある舞洲に行ったときには、「なんや、これは!」と驚いたものです。こんなすごい設備のなかで、練習ができたり、いろんな活動ができているのだと思って、びっくりしましたね。

——セレッソ草創期の状況もよくご存じだと思います。

玉田 稔 ヤンマーサッカー部からセレッソ大阪に変わった瞬間の1年間は、尼崎の土のグラウンドで練習していました。当時、土のグラウンドで練習しているJリーグのチームは、セレッソしかなかったのです。「これは何とかしないといけない」ということで、舞洲の今とは違うところに、大阪市さんの支援のもと、芝生1面のグラウンドと木造2階建てのクラブハウス、簡易のシャワー設備を作ることができたのです。その次の練習場となった南津守のグラウンドを作るときも、サッカー場が2面できるところで、大阪市さんと相談をしていました。天然芝1面、人工芝1面で、こういう感じでやりましょうというレイアウトを一緒に取り組んでいたのが最初にセレッソに関わっていたときの最後の仕事です。その当時も完成予想図の絵を見て、「すごいものができるんだな」と思っていたわけです。

——それが、今では立派なトレーニング施設ができあがっています。

玉田 稔 今の舞洲では、天然芝が2面あって、少し外れたところに人工芝1面があって、ナイター照明がついて、クラブハウスの中に入ったら選手のロッカールームもすごいし、トレーニングやマッサージなどもみんな揃っている。「時代は変わったなと思いましたね。また、『ハナサカクラブ』(育成サポートクラブ)だとか、サポーターの方に応援していただくシステムを作って、アカデミーのサポートをしていただいています。それだけでなく、舞洲のグラウンドの周りにいっぱい桜の木が植えてあったり、壁に煉瓦が張ってあってサポーターの皆さんの名前が入っていたりしている。昔、Jリーグが始まってしばらくのとき、『Jリーグ百年構想』というものがあり、そのとき私はJリーグでセレッソの広報をやっていて、そういう言葉を作ったうちのひとりだったので、今の舞洲を見て、まさしく「百年構想が実現に向かって動いているんだな」というのは痛感しました。それとともに、「なんでこんな素晴らしい設備がありながら、J2でやらなあかんねん」という思いもありましたが……。

ベクトルを合わせ、ひとつのことに力を集中させる

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——では、社長に就任されてから、1年目の取り組みを教えてください。

玉田 稔 私が就任したときには、予算だとか、選手や監督の採用など、ほぼ決まった状態だったので、与えられた環境でどうやってJ1に今年復帰させるかというのが、1年目の最大のテーマでした。素晴らしい監督、素晴らしい選手がいたなかで、1年でJ1に復帰できなかったことが大変申し訳ないというのが、1番にあります。それと、元々ヤンマーサッカー部が人件費も全部含めて予算が3億円から5億円くらいだったのが、Jリーグになって10数億円となり、さらに今では30数億円の規模になっているのです。そのことにまずびっくりしましたが、それがはたして経済規模が正しいのかどうか、ものすごくジレンマがありました。上を見たらきりがありませんが、当時J2を戦っているなかで、セレッソがそれだけ多くのお金を使っても上がれなかったことが、非常に申し訳ない思いでした。

——実際に陣頭指揮をとられる社内の、社長就任当初の様子はいかがでしたか?

玉田 稔 大阪サッカークラブ株式会社という会社にまず来たとき、何か違和感を感じたのです。みんな一生懸命働いているし、試合が元々土日にあることもあって、休日も含めて、遅くまで仕事をしたりしているにもかかわらずそう感じたのです。なぜなのかなとよく考えたら、同じ方向を向いていないのではないかなと。たとえば、営業はお客様を集めるのにどうしたらいいのかなと苦心したり、広報は今も素晴らしい数のTwitterやFacebookなどのフォロワーがいるように発信力もあって海外にも発信するなど、それぞれはすごくいい方向に向かっている。しかし、どこかリンクしていないというか、会社として1つにまとまっていないのではないかなと思いました。そのため、昨年の話しですが、「今年はなんとしてでもJ1に復帰するとともに、ベクトル合わせをみんなでやっていきましょう」というのをやったんです。セレッソ大阪のフロントは30名弱の会社ですから、金額的に言ってもいわゆる中小企業の部類になると思います。その中でいろいろな会社としての仕組みを、昨年1年間はやり直さなければならない状況でした。様々な規定も含めて、きっちりとステップを踏むような仕事の順序立てをやれる会社にしておかなければいけない。「とにかく、小さい会社なんだから、みんながすべてのことを認識して、ひとつの力にして、全部力をそこに集中させるべきだ」というのを、昨年1年間徹底してやりました。しかし、結果的にJ1に上がれなかったということで、最大の悔いは残っています。

——J1に1年で復帰できなかった要因とは?

玉田 稔 もちろん、勝てなかったということもありますが、コミュニケーション面が一番まずかったというのがありました。パウロ・アウトゥオリ監督は、素晴らしい監督であり、人格者でしたが、それゆえに難しい表現を使った言葉が多かったのかなと。そのためか、コミュニケーションが取れていないので、一つの方向になかなかまとまれていない、いきいき感がないのではと思ったのです。そこでJ2リーグ戦残り1試合、J1昇格プレーオフを含めれば残り3試合というところで、監督を替えるということになりました。大熊(清)監督になってもらってから、今年のJ2第9節で札幌に負けるまで、負けはありませんでしたが、勝ち切れていないというのが、昨年J1に上がれなかった最大の要因であり、今年の前半戦でも少し苦戦している要因かなと思います。でも、今年も大熊さんに監督をお願いしたのは、昨年のあの悔しさを彼は強化部長としてよく知っているし、選手ともコミュニケーションを取りながら悔しさを共有できていると考えたからです。そのため、今年も1年お願いしたという経緯があります。

——改めて、今季の目標をお聞かせください。

玉田 稔 今年の目標は2つしかありません。J2優勝、J1復帰というのが、一番目。二番目は会社の単年度黒字化を目指そうとしています。目標はこの2つだけですが、2つとも非常に難しいもので、どちらもハードルは高いです。ただ、両方を実現させることに邁進するのが、今年の私の一番の仕事だと思っています。そして、いつも言うことですが、我々を支えてくださるセレッソのサポーターは、本当に日本一のサポーターだと思っています。彼らと一緒にJ1昇格の喜びを味わえると一番いいなと思います。

セレッソに躍動感をもたらすために 後編/選手、スタジアム、すべてを育成しセレッソを文化へ

大阪サッカークラブ株式会社
代表取締役社長
玉田 稔(たまだ みのる)

■生年月日
1953年7月10日
■出身地
兵庫県
■経歴
1977年 3月 関西学院大学 経済学部卒業
1977年 4月 ヤンマーディーゼル株式会社(現 ヤンマー株式会社)入社
1992年11月 同社 サッカープロ化推進部推進グループ 課長
1994年 1月 大阪サッカークラブ株式会社 事業部長
1997年 4月 同社 取締役 企画・広報部長            
1998年 6月 ヤンマーディーゼル株式会社 GHP営業部 課長
2000年 6月 同社 エネルギーシステム事業本部 空調システム営業部長
2003年 3月 ヤンマーエネルギーシステム株式会社 名古屋支店 支店長
2004年10月 同社 大阪支店 支社長
2005年 3月 同社 取締役 営業部長
2007年 6月 同社 常務取締役 営業部長
2008年 3月 同社 代表取締役社長(ヤンマー株式会社 執行役員エネルギーシステム事業本部長 兼務)
2013年 4月 (ヤンマー株式会社 常務執行役員エネルギーシステム事業本部長 兼務)
2015年2月1日 大阪サッカークラブ株式会社 代表取締役社長就任

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By サッカーキング編集部

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