父に追いつき、追い越せ!
英雄と同じ道を歩き始めた
ジャスティン・クライファート

多くの若いスタープレーヤーにとって、“父親越え”は壮大な目標とは言えないのかもしれない。
しかし、欧州主要リーグの戴冠4度、数々の国際カップ戦優勝、
そしてチャンピオンズリーグ制覇を経験した父を持つ彼の場合は別だ。
(本記事は英誌『FourFourTwo 2018年4月号』からの転載)

文=アーサー・レナード
翻訳=加藤富美
写真=ゲッティ イメージズ

父とは違う才能を見せつけたデビュー戦

 ポルトガルのアルガルヴェからアムステルダムへと飛行中だったプライベートジェット機の中で、とある若いフットボーラーのキャリアが大きく花開こうとしていた。

 2017年1月、アヤックスのメンバーがポルトガルで行ったミッドシーズンのキャンプから帰国する際に、リザーブチームから昇格したその選手は、ピーター・ボス監督の隣に座るよう招かれた。トップチームの練習へ本格的に参加するのが初めてだった彼が、ファーストチームへの加入を認められた重要な瞬間だった。この若者の名前はジャスティン・クライファート。18歳の誕生日は、まだ4カ月も先だった。

 それから1年以上が過ぎ、機内で「君がチャンスをつかんだのには理由がある」と伝えられた彼は、英国のフットボール専門誌『FourFourTwo』のインタビューに笑顔で答えた。

「監督は僕のことをエキサイティングなプレーヤーだと言ってくれた。その1週間後には、アウェイのズヴォレ戦で初出場を果たすことができた。その試合で勝利に貢献することができて、みんなが僕のプレーを褒めてくれたよ。でも、デビュー戦でうまくいっても、それは最初の一歩に過ぎないからね」

 クライファートは観客をあっという間に魅了したが、ユニフォームにプリントされたその名前によって、以前から人々の関心を集めていた。シニアデビューを果たす前から、彼が偉大な父親に匹敵する存在となり得るか否かについて、さまざまな議論が展開されていたからだ。父親の名はパトリック・クライファート。エールディヴィジを3度制した後、バルセロナでリーガ・エスパニョーラの優勝に貢献。アヤックス時代にはチャンピオンズリーグ優勝を決めるゴールを奪った伝説的英雄である。

 しかしながら、“ヤング”クライファートがデビュー戦で見せたパフォーマンスは、すべてを父親と比べようと躍起になる人々の声を払拭した。父親の自慢だった果敢なドリブルはクレバーなロングフィードに姿を変え、息子は中央に構えるセンターフォワードではなく、虎視眈々とゴールを狙う運動量豊富なウインガーとしてピッチに立っていた。

 試合後にオランダの放送局『NOS』のインタビューを受けたジャスティンは、スマートフォンを取り出すと自慢の父からのメッセージを読み上げた。

「いい試合だった。感想はどう? 最高の気分じゃないか? でも、まだ始まったばかりだよ」。デビュー戦でたくましいプレーを見せた息子に対する父親のメッセージは、愛に満ちていた。

 デビューを飾った日のジャスティンはまだ17歳と255日。父親がトップチームでデビューした年齢より167日若い。彼がこのように若くしてデビューする姿を予想した者は多くなかった。本人も含めて。

 デビュー戦からわずか5カ月前の2016年夏、まだアヤックスU-19のメンバーだった彼はささやかな3つの目標を立てていた。「当時の僕の目標は、U-19オランダ代表に入ること、アヤックスのU-23に昇格すること、そして時にトップチームの練習に参加することだった」。本人は当時をそう振り返る。「2016-17シーズンの終わりにはトップチームの先発を任されるようになった。ヨーロッパリーグの決勝戦ではベンチ入りも果たすことができたよ」。得意そうに微笑んだ彼は、「何もかもがいい方向に進んでいったね」と続けた。その表情は、想像以上の活躍を謙遜しているようにも見える。

 アムステルダム・アレナ(現ヨハン・クライフ・アレナ)での衝撃的なデビューは、彼の父親を彷彿とさせるものでもあった。パトリックもまた、アヤックスでデビューを飾ったシーズンの最後に、欧州カップ戦の決勝戦でベンチ入りを果たしている。息子は父よりも若くしてその快挙を達成したが、チームへの貢献度という意味では父親に軍配が上がると言わざるを得ない。パトリックは1994-95シーズンのチャンピオンズリーグ決勝に途中出場を果たすと、その試合で唯一となるゴールを決めてミラン撃破の原動力となった。一方のジャスティンは、マンチェスター・Uとのヨーロッパリーグ決勝戦で出番がなく、チームも0-2で敗れた。

「父がどんなプレーヤーだったかは、ほぼYouTubeで知った」

 ジャスティンは父親と同じく、欧州の舞台で活躍することを目指している。フットボールで高みを目指すのはクライファート家の伝統と言ってもいいだろう。兄のクインシー(20歳)はフィテッセのU-23に所属し、弟のルベンは2018-19シーズンからAZへの加入が決まっている。異母弟のシェーンはまだ10歳ながらバルセロナのアカデミーですでに注目を浴びている。

 バルセロナはジャスティンが幼少期を過ごした場所でもある。父親がカンプ・ノウでチームの主力を務めていた頃だ。「試合後、兄のクインシーと僕はいつもドレッシングルームを訪れて飲み物をもらった。楽しかったなあ。兄はジャグジーに潜入したこともあるんだよ!」

 パトリックが2004年にニューカッスルに移籍してからは、父親のプレーを頻繁に見ることはできなくなった。両親が離婚し、ジャスティンは兄弟とともにオランダで母親と暮らすことになったからだ。それでも、彼らの祖父が時間を見つけては3人の孫をニューカッスルまで連れていき、少年たちはフェリーで北海を超える旅に毎回胸を躍らせた。だが、まだ幼かったジャスティンは現地での観戦についてはあまり覚えていないらしく、父親の雄姿はもっぱらインターネットの検索結果からたどり着いたものだった。「父がどんなプレーヤーだったかは、ほぼYouTubeで知った」と認めている。

 しかし、偉大な父のキャリア晩年の姿が全く記憶にないわけではない。現役最後のビッグタイトルと言える2006-07シーズンのエールディヴィジ優勝の場面は、今もジャスティンの記憶に深く刻まれている。当時パトリックは、エールディヴィジ史上最も白熱した優勝争いとして今も語り継がれるシーズンをPSVの一員として過ごした。

 PSVはリーグ3位でシーズン最終節を迎えた。1位のAZ(ルイ・ファン・ハールが監督を務めていた)、そして2位のアヤックスとは勝ち点で並んでいたが、アヤックスとの得失点差は「1」、AZとの得失点差は「7」という厳しい状況だった。しかし、PSVは最終節でフィテッセ相手に5-1の大勝を収め、AZは下位のエクセルシオールに2-3と予想外の敗北を喫した。残るアヤックスはヴィレムIIに勝利を収めたが、スコアは2-0。そのニュースにスタジアムは沸き上がった。パトリックにとっては自身3度目となるエールディヴィジの制覇だ。

「あの試合は本当に盛り上った」とジャスティンはつぶやく。「試合後、一緒にお祝いをするようピッチに招かれたんだ。最高の時間だったよ」

 その頃からジャスティン自身もフットボールに深く関わるようになっていた。最初の所属先はアムステルダムにあるアマチュア・クラブのASVデ・ダイク。20数年前に父親のパトリックがキャリアをスタートさせた、まさにそのクラブだ(当時はASVスヘリングワウデと呼ばれていた)。そして父親と同様ジャスティンはすぐに頭角を現し、2007年にアヤックスのアカデミーにスカウトされている。

 昔からそうだったように、彼は今も友人とボールを蹴る機会が多いと語る。幼少時にアムステルダムのストリートで日に何時間も遊んだ経験が、スキルを高める上で役立ったと考えているようだ。「運動場の隣に住んでいたけれど、そこで兄弟や友達といつもボールを蹴っていたよ」と、彼は懐かしそうに口にした。「最近の子どもたちはあまり外でプレーしないね。でも、基本的なスキルはストリートサッカーで学ぶことが多い。実は大切なことなんだよ」

 だが、欧州でも有数のアヤックスのアカデミーで、少年時代のジャスティンは際立った存在とは言えなかったようだ。「チームで一番の選手だったことは一度もないよ。例えばU-15の時はチームメイトが何人もU-17に飛び級したのに、僕はU-16にしか上がれなかった」と彼は話している。

「毎シーズンの終わりに、クラブに残れるかどうかの判定があるんだ。その頃になると首を切られるんじゃないかと思って気が気じゃなかったね。実際に上がれなかった友達もいたし。幸い、僕の場合はU-17に上がってからうまくいき始めた。大人のプレーを見せられるようになって、他の選手にはない強みをもっていることも実感できたんだ。プロとしてやっていける、と認識したのもその頃かな」

“クライファート”という歴史と看板

 クライファートが自信をつけるとともに、昇格するペースも早くなった。U-17からU-19に昇格すると、それから1年もしない16-17シーズンにはU-23チームの仲間入り。2016年12月になると、成長したジャスティンは前出の3つの目標を掲げるようになった。オランダU-19代表に選出され、アヤックスのトップチームの練習に初めて招かれた頃だ。

 ポルトガルでのキャンプの後にトップチームデビューを果たしてからは、飛ぶ鳥を落とす勢いはとどまるところを知らなかった。最初は右ウイングで先発のポジションをつかみ、のちに得意の左サイドにコンバート。2017年に入るとそのドリブル技術はさらに磨かれ、球際の厳しさやミドルシュートでも群を抜く才能を発揮した。今までで最高のパフォーマンスが、エールディヴィジ第13節のローダ戦であることに異論を唱える者はいないだろう。彼がハットトリックを決め、5-1の勝利に貢献した試合だ。3本のゴールは似通っていて、いずれも左サイドから鋭く切れ込み、右足を振り抜いて決めたゴールだった。

 ただし、本人はこの試合をキャリアのハイライトとは考えていない。「確かにあの試合では活躍することができた。でも僕にとって一番の試合は、出場機会こそなかったけどヨーロッパリーグの決勝だよ」。2017年5月にストックホルムで行われたマンチェスター・U戦だ。

「今まで味わったことのないような経験をした。めったにない機会だからね。オランダ全体に対する影響も大きかった。通りに設置された巨大スクリーンを見つめる大勢の人たちの姿を、友人が写メで送ってくれたよ。国中の人々の、少なくともアムステルダムに住むすべての人々のサポートを得た気分だった」

 ジャスティンは試合前に大舞台で力を発揮するためのヒントを父親から得たことを明かした。「父はチャンピオンズリーグのファイナルに出たことがあるからね。もちろん話を聞いたよ。もしピッチに立つことができたら、落ち着いて、ただ自分のプレーをするようにと言ってくれた」

 残念ながら出番はなかったものの、相手チームのベンチには彼の姿を懐かしそうに見つめる人物がいた。マンチェスター・Uの指揮官、ジョゼ・モウリーニョだ。彼がバルセロナでアシスタントコーチを務めていたのは、まさしくパトリック・クライファートが中心選手として活躍していた時期だった。モウリーニョは試合終了の笛を聞くとジャスティンのところに駆けつけたという。「まだ小さな子どもだった僕と再会できてうれしい、って言ってくれたよ。元気に活躍している姿を目にするのは素晴らしいってね」

 クライファートは “スペシャル・ワン”からの引き抜きはなかったと明かすが、彼の獲得を望むクラブの中に「マンチェスター・Uが含まれていた」というのはもっぱらの噂だ。また、パトリック・クライファートの入団から20年が経過した今、その息子をチームに迎えてほしいとリオネル・メッシがバルセロナの理事会に要請したとも報じられた。「その話は聞いたよ」とジャスティンは言う。「でも本当のところはわからないね。メッシとコンタクトもないから。本当のことは彼しか知らないけど、噂だけでもうれしいね」。父はバルセロナに在籍した6シーズンで122ゴールをマーク。当時アカデミーにいたメッシが彼の崇拝者として知られていることから、そんな話が出たのだろう。

“クライファート”という名字ゆえに人々の関心が集まることについて、ジャスティンは重荷には感じていないようだ。「そのあたりは、落ち着いて受け止めているよ。このファミリーネームを背負ってプレーするのは名誉なことでもある。父が作ったネームバリューをさらに高めることができればうれしいね」

 父親はパリ・サンジェルマンのテクニカルディレクターを1年間務めた後、バルセロナに戻って末っ子であるシェーンの成長を見守っている。彼は世界でその名を知られるバルセロナの育成組織、「ラ・マシア」に入ったばかりだが、10歳にしてその技術の高さはすでにインターネット上の動画で話題となっている。ジャスティンは腹違いの弟と定期的に連絡を取っていると言う。

「ビデオ通話で話す時もあるよ。彼にアドバイスもしている。僕を慕ってくれているから手本にならないとね。スパイクも僕と同じものを履きたがるし、シュートや仕掛けも真似したがるんだけど、実際にできているんだ! 僕を超える存在になるかどうかはまだわからないけど、そうなってほしいな」

 シェーンが彼に憧れるように、ジャスティンにとってのヒーローもまた存在する。「ロナウジーニョは最高だった。でも、ピッチの外では真のプロフェッショナルとは言えなかったね。その意味では、クリスティアーノ・ロナウドを尊敬している。彼はまさに、“フットボールに生きている”。僕もそうなりたい。自分がどれだけのものを犠牲にするかで、ピッチでのパフォーマンスは決まると思っている」

 クライファートはC・ロナウドが2015年にリリースした「Ronaldo」というドキュメンタリー・ビデオの大ファンでもある。「僕もいつかあんなビデオを作りたいね」。彼はそう言って微笑んだ。

“パトリック”から“ジャスティン”へ

 今夏のローマへの移籍が決まる前、クライファートは新たな目標を口にしていた。「大きな目標が2つある。1つはアヤックスでエールディヴィジを制覇すること。もう1つはオランダ代表としてデビューすることだ。それから、常に成長を続けたいね。すべての面で成長したいんだ。まだ若いからね。全力で練習をしているし、今うまくいっている部分もさらに改善していきたいと思っている」

 究極の目的は国外のビッグクラブでプレーすることだ、と以前から口にしていたが、「自分の成長を考えて、意味のある移籍をしないといけない」とも話している。進路について何かを決める時はいつも、母親、父親、そして代理人であるミーノ・ライオラに相談するという。「意見は求めるけど、最終的に決めるのは僕自身だよ」

 今後彼が欧州の有力クラブで活躍を続ける中で、イングランドが視野に入ってくることもあるだろう。彼はロンドンは魅力的だと言うが、プレミアリーグで特に心惹かれるクラブはないようだ。「とても面白そうな町だよね。トッテナムは選手が連動する素晴らしいフットボールをしている。アーセナルもいいクラブだよね。でも、特定のチームをフォローしているわけではないよ」

 ポルトガルからオランダへ向かう機内で聞かされたトップチーム昇格から1年半が過ぎ、新たな挑戦が始まる彼は今どんな心境なのだろうか?

「本当にここまであっという間だった。自分でも驚いているくらいだよ」。ミドルシュートの練習を前に、彼はそう答えて微笑んだ。

 ここまま来れば、彼は“クライファートと言えばジャスティン”、と人々の認識を変えるチャンスを数多く得ていくことだろう。そして、それを目指しているのは、彼の肉親のクインシー、ルベン、そしてシェーンも同じなのかもしれない。