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ハリルホジッチの原点。ハリルホジッチとは何者か。母国記者が語る指揮官の素顔

就任からおよそ3年が過ぎ、集大成となるW杯を控えた今、日本代表の指揮官は何を感じ、何を考えているだろうか。同胞であるボスニア・ヘルツェゴヴィナ人記者の視点から、ヴァイッド・ハリルホジッチという人間に焦点を当てる。
文=サシャ・イブルーリュ
翻訳=加藤富美
写真=アフロ、ゲッティ イメージズ

英雄“ワヒディー”ハリルホジッチ

 ひたすら灰色が広がる巨大な大通りの周囲には、19世紀末に建てられたゴシック風の陰気なホテルが並ぶ。セルビア共和国の首都、ベオグラードの中心部にあるテラジエ広場に立つと、まるで前世紀のまま時間が止まっているような気がする。この広場は1992年に消滅した国家、ユーゴスラヴィアの中心地であり、最も重要な場所だった。

 1989年まで続いた東西冷戦の時代、バルカン半島の中部を占めたユーゴスラヴィアは、西ヨーロッパと東ヨーロッパの間に存在する目に見えない境界線であり続けた。この連邦国家は6つの共和国によって構成され、社会主義体制でありながら、旧ソビエト連邦とは距離を置く独自の路線を歩んでいた。それは国家的英雄ヨシップ・ブロズ・チトー元帥の指導力と求心力によるところが大きく、彼の死後は少しずつ、国家崩壊に向かっていくことになる。

 それは1980年5月のことだった。チトー元帥が死去すると、テラジエ広場にはユーゴスラヴィア終身大統領の死を悼み、128カ国の代表と、数十万人の国民が集まった。当時としては史上最大規模の国葬だった。

 ユーゴスラヴィアを象徴する最大の指導者を見送った葬儀から、ちょうど1年後の1981年5月。テラジエ広場は赤一色に染まっていた。1万人を超えるヴェレジュ・モスタルのファンだ。彼らはクラブ史上初のトロフィーを手に入れたチームを祝うために、この広場に集まっていた。

 モスタルはボスニア・ヘルツェゴヴィナ南部の小さな町だ。ユーゴスラヴィアカップ(当時は“チトー元帥カップ”と呼ばれていた)決勝を見るために、ヴェレジュのファンはベオグラードまではるばる500キロを旅してきた。ヴェレジュが見事に優勝を果たすと、赤いユニフォームを着たファンの群れはテラジエ広場に向かう。人々が選手のチャントを歌い始めると、広場に面したホテルのバルコニーからヴェレジュの選手たちが姿を現し、興奮は一段と高まった。

 その歓声が止んだのは、ある選手がバルコニーに出てきたからだ。人々は視界の先にいる彼の姿を見て息を飲む。海のように深く青い瞳と、風にたなびく長髪。真っ白な歯が日に焼けた素肌に映える。“英雄”は観衆に手を振った。「ワヒディー! ワヒディー!」

 沈黙は破られ、人々はアスファルトにひざまづいてイスラムの祈りを始めた。“ワヒディー”ハリルホジッチ。

 それが、ファンの誰からも愛されたレジェンドの名前だった。

 彼は生粋の、地元のヒーローだった。モスタルにほど近いヤブラニツァに生まれ、10代の頃にモスタルへと移った。それは電気工学を勉強するためだったが(彼はエンジニアを志していた)、すぐにもう一つの道が開かれた。兄のサレムが所属するサッカークラブ、ヴェレジュ・モスタルに誘われたのだ。

 学業を優先していたハリルホジッチが、ヴェレジュと契約してサッカーの道に進んだのは18歳の時だった。やがて彼は、同じくストライカーだった兄からポジションを奪い、ヴェレジュの1970年代を象徴する選手となる。長身でテクニックに優れ、巧みなボールさばきはどこかエレガントな雰囲気を感じさせた。両足を難なく使いこなし、しばしば相手を欺くようなゴールを決めてみせた。

 そのキャリアにおけるハイライトの一つが、先に述べた1981年のユーゴスラヴィアカップ決勝だ。ヴェレジュがジェリェズニチャル・サラエヴォを3-2で破ったこの試合で、ハリルホジッチは1点目と2点目を決めた。決勝点となった3点目も、彼のシュートから生まれたものだった。ちなみに、対戦相手のジェリェズニチャルを指揮していたのがイヴィチャ・オシムだったことも、日本の読者のために書き加えておこう。

 しかし、モスタルの人々がハリルホジッチを今でも心から愛し、自分たちの英雄と見なしているのは、選手時代の華々しい実績だけが理由ではない。それを正確に説明するためには、ユーゴスラヴィアという国とその歴史について、少し知ってもらわなければならない。

ハリルホジッチが「特別」な理由

 ハリルホジッチがヴェレジュでプレーしていた当時、ユーゴスラヴィアでは、サッカー選手は28歳を迎えるまで国外でプレーすることを許されなかった。その結果として、優れた人材は弱小クラブから、政治的な影響力の強い“ビッグ4”へと流出していた。首都ベオグラードに本拠地を置くレッドスターとパルチザン、そしてクロアチアの2大クラブであるディナモ・ザグレブとハイドゥク・スプリト。国内のあらゆるタイトルが、この4チームの間で争われていた。歴代の優勝クラブのリストを見れば、まるでこの国には4つしかクラブがなかったのかと誤解されても不思議はない。

 ハリルホジッチはヴェレジュで毎週のようにゴールを決めていたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア代表としてはわずか15試合しかプレーしたことがない。1982年のスペイン・ワールドカップでも、彼は2試合に途中出場したのみだった。

「ベオグラードのスタジアムのスコアボードに表示するには、きっと私の名前は長すぎたんだろう」

 ハリルホジッチの言葉は半分は冗談だが、半分は真実だ。ボスニア(ヘルツェゴヴィナ)人らしい名前を持ち、地元のヴェレジュ・モスタルでプレーし続けてきた彼は、ビッグ4(つまりセルビアとクロアチアのクラブ)が強い影響力を持っていた当時のサッカー界で、政治的に不利な立場にあった。

 しかし、ハリルホジッチの信念は揺るがなかった。国内のビッグ4には移籍せず、国外移籍が許される28歳までヴェレジュのためにプレーしたのだ。だからこそ、地元のファンにとって彼は特別な選手であり続けた。

 ヴェレジュで残した成績は、公式戦通算376試合に出場して253ゴール。どれほど驚異的なストライカーだったか、分かってもらえるだろうか。

 1981年、ヴェレジュに初のタイトルを残して、29歳のハリルホジッチはフランスに渡る。彼は当時の強豪チームだったナントに加わり、すぐにレギュラーとして活躍した。加入2年目の1982-83シーズンには27ゴールを挙げてリーグ得点王に輝き、チームを優勝に導いた。さらに84-85シーズンにも28ゴールでリーグ得点王となっている。

 その後、ハリルホジッチは1986年にナントからパリ・サンジェルマンに移籍。しかし、パリでプレーしたのはわずか半年だった。シーズン中に母親が亡くなり、病気を患っていた父親のためにモスタルへ帰ることを決意したのだ。突然の現役引退は、驚きをもって伝えられた。何しろ、わずか2シーズン前に得点王を獲得した選手が、サッカーを辞めるというのだから。

 モスタルの英雄の帰還──。しかし、それは困難な時代の始まりでもあった。東西冷戦が終結し、ヨーロッパは各地で地域紛争、民族紛争が表面化する激動の時代を迎えていた。ハリルホジッチの平穏な生活は長く続かなかった。

 1991年に内戦が勃発すると、ユーゴスラヴィアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを含む6つの国家に分断され、各地で激しい戦闘が始まった。民族間の対立は人々の生活を地獄に変えた。

 そんな中、ハリルホジッチは家族をフランスに逃がし、自分は単身モスタルに留まった。自らの資産を投じて、町の人々を避難させるために活動していたのだ。有名人だった彼は、戦争を止めるように人々に訴え続けていた。次第に、ハリルホジッチはかつての名選手というだけでなく、“国を守る英雄”と見なされるようになっていった。

「あんなことが起こるとは、夢にも思わなかった。本当にひどいものだった」

 悲惨な紛争から20年あまりが過ぎたモスタルのカフェで、ハリルホジッチは私にそう話してくれた。「誰もが変わってしまった。みんな民族や宗教のことを口にするようになって、それを理由に殺し合うようになったんだ」

 最終的にはボスニアだけでも10万人以上が命を失い、数百万人の人々が住む家を追われた。ハリルホジッチもその一人だ。自宅は襲われ、破壊された。引退後に経営していた飲食店やブティックなどもすべて失った。残っているのは命だけだったが、それすら失われていてもおかしくなかった。戦争反対を訴え続けていた“国の英雄”は、幾度となく命を狙われていた。

「死ぬかもしれないと何度も思った。私はすべてを失ってフランスに移ったんだ。私には何もなかった。指導者になろうと思っても、フランスのライセンスがなかったから、最初から始める必要があった。一番下のクラスからだよ」

 エスプレッソをすすり、「困難な時代だった。でも」と彼は言った。「私にはまだ命があった。あの経験が自分を強くしたと思っている」

 ハリルホジッチはフランスで指導者として再出発を図り、1997年にモロッコの名門クラブ、ラジャ・カサブランカの監督に就任する。ここで2度のリーグ優勝とアフリカ・チャンピオンズリーグ優勝を達成すると、フランス2部リーグのリールに招かれることになった。

 リールでは99-00シーズンに1部昇格を達成し、翌シーズンは昇格1年目にしてリーグ3位と快進撃を演出する。手堅く現実的な守備組織を築いた彼の手腕は高く評価され、その後はレンヌ、パリSG、トラブゾンスポル(トルコ)、アル・イテハド(サウジアラビア)と、各国のクラブで監督を歴任した。

 2008年からはコートジボワール代表を指揮し、ディナモ・ザグレブを経て2011年、アルジェリア代表監督に就任。2014年のブラジルW杯では、アルジェリア史上初のW杯ベスト16入りを達成した。彼の力量には賛否両論があるが、指導したどのチームでも一定の成果を挙げてきたことは間違いない。

 ハリルホジッチは、ユーゴスラヴィアのサッカーから2つの重要な哲学を引き継いでいる。第一に、同胞であるオシムが好んだような、短いパスを多用する軽快な攻撃と組織的な守備の融合だ。彼のチームは魅力的だが慎重なアプローチを取ることで、格上の対戦相手を何度も苦しめてきた。

 そして第二は、規律と確実性、そして一貫性を重視すること。ハリルホジッチが新たな挑戦の場として日本代表を選んだのは、そこに理由があると私は思う。

 ハリルホジッチはフランスでも、アフリカでも、タレントがそろいながら規律に欠けるチームを指揮した。さらに、政治的な介入によって物事が決まる状況も経験してきた。共産党支配下のユーゴスラヴィア。W杯出場を決めたのに解任されたコートジボワール。そしてアルジェリアでも、サッカー協会との関係は決して良好なものではなかった。だからこそ、能力と規律が両立するチーム、そして人々にリスペクトされるチームを指揮したいと望んでいたのではないだろうか。そう考えると、日本代表は理想的な選択肢だったと言えるだろう。

 ハリルホジッチは今年のW杯を最後に、日本代表を去ることを決めている。この状況は37年前、モスタルの人々にタイトルを捧げてクラブを去った、ベオグラードの決勝戦を思い起こさせる。

 勝利への鉄の意志と、細部にわたる綿密な計画。それを最高の形で表現するための準備。ハリルホジッチの要求は簡単なものではないかもしれないが、日本代表ならそれに応えられるだけの選手と、完璧にサポートできる組織の両方を持っているはずだ。

 ハリルホジッチは愛するクラブのために、そして故郷のために、困難な状況を戦い抜いてきた。だから、我々にとっては今でも英雄なのだ。その彼が率いる日本代表なら、W杯できっと勇敢な戦いを見せてくれると信じている。