2013.01.04

川島永嗣のルーツを探る「エイジが生まれた街」

[サムライサッカーキング1月号掲載]

埼玉県さいたま市中央区。新設合併により消滅した旧与野市に、川島永嗣のルーツがある。サッカーが息づく街で育った川島少年は、どんな歩みを辿り、プロサッカー選手の扉を叩いたのか。その原風景を行く。

Text by Koichi YOSHIZAWA Photo by Masashi ADACHI

main_1川島が通っていたさいたま市立与野西中のグラウンド

同世代のサッカーマン、地元民にとっての誇り

「彼の存在を初めて知ったのは中学校の時です。『西中にいいキーパーがいる』って聞いていて、実際、身体も大きくて上手なキーパーだと思ったのを覚えています」

 そう語るのは床井伸太朗だ。

 現在、さいたま市内にある『グラマード浦和』のサッカースクールのコーチとして働いている。川島永嗣と特別な間柄にあるわけではない。与野西中から浦和東高へ進んだ川島と同じく、「与野出身」(与野南中)で、「浦和」と名の付く高校(市立浦和高)でボールを蹴り、今でもサッカーへの情熱を燃やし続けている青年である。

「同い年ですし、中学、高校と何度も対戦しています。中学校の時の印象よりも、高校時代の印象のほうが強烈です。とにかく存在感がありました。うちの高校から国体選抜の代表に行っていた仲間からも話をよく聞きました」

 大きな身体に、大きな声。そして異常と言われるくらい飛距離の出る驚異的なキック力。だがそれは持って生まれたものというよりも、川島自身の努力によって培われたものだと、同世代のサッカーマンたちは認めていた。

「西中や浦和東のサッカー部のヤツから、彼はとにかく練習するって聞いていました。チーム練習が終わっても、いつも残ってずっと練習してたって」

 床井自身も、青山学院大を卒業後に東北リーグを経てJFLのチームでプレーを続けた。そしてプロ選手になる夢を諦められず、2011年にはタイに渡り、その夢を叶えた。2チームに在籍し、『AngThong FC』が最後の所属先だった。東日本大震災のチャリティーマッチに『TAKE ACTION』の一員として中田英寿とともに出場した経験も持っている。

 そんな床井が、この秋の旅行先に選んだのがベルギーで、その旅のメインイベントに川島の出場する試合を選んだのは、自然の成り行きだった。

 川島の所属するスタンダール・リエージュの対戦相手は宿敵アンデルレヒト。伝統の一戦にスタジアムはヒートアップし続けた。空砲の爆音が鳴り響くと、黒煙が立ち上り、たくさんの発煙筒が焚かれた。それがピッチに投げ込まれ、ゴールネットが燃えて試合は何度も中断した。独特の雰囲気の中で、床井は3階席から試合を見つめた。

 スタンダール・リエージュは先制されたものの、逆転に成功。川島は大車輪の活躍を見せ、何度もチームのピンチを救った。試合途中にDFのファウルでPKを与えたが、川島の殺気がキッカーのミスを誘った。タイムアップの笛が鳴ると、ライバルに勝利したスタジアムは大きく揺れた。

「サポーターも『カワ』、『カワ』って大興奮で、この試合を観られて良かったなと思いました。僕もタイで外国人としてプレーしましたが、外国人選手にかかる期待、プレッシャーは日本では感じたことのないものでした。ましてや日本人がマイノリティーであるヨーロッパで、しかもあんな異様な雰囲気の中でプレーする。そのプレッシャーは、想像を絶するものなんじゃないかと思います。その中で一切臆することなく、勇敢にプレーする川島の姿には感動して、鳥肌が立ちました。僕と彼は同じ“与野出身”という関係でしかないですが、あの舞台まで辿り着いた川島永嗣を僕は誇りに思っています」

文集の中に綴った、明確でまっすぐな夢

「小学校の時は6年生が3人しかいなかったらしいんだよ。だからチーム事情でエイジはセンターバックもやっていたんだよ」

 目尻を下げて、教え子の思い出を語るのは、さいたま市立東浦和中の柏悦郎教諭だ。与野市立(当時)与野西中時代にサッカーを指導した、川島の恩師である。

「いろいろ取材が来て、いつも同じ話をするんだけど、それでもいいかな」と取材者を気遣ってくれる。柏は『公益財団法人・日本中学校体育連盟(中体連)』の理事で、サッカー部長を務める中体連の重鎮でもあるが、多忙の中で時間をやりくりし、取材時間を作ってくれた。

「章代っていうお姉ちゃんがエイジにはいて、私が担任をしたんだよね。その時にお母さんが、2人の弟がサッカーをやっているんだけど、サボリがちだって、相談された。それがエイジだったんだ」

 川島には崇史という1歳上の兄がいる。毎年、3学期になると地元のサッカー少年団(小学生)と中学1年生が対戦するのが慣例になっていて、柏はこの試合で初めて川島のプレーを見た。兄の崇史は中学生で、小学6年生の川島との兄弟対決だった。プレーよりも身体の大きさが印象に残っている。

「兄貴もお姉ちゃんも、両親もみんな大きかったし、エイジも3月生まれだけど大きかった。兄貴は左のサイドバックで、浦和南高に行ったんだよ」

 柏は中学1年生に希望のポジションを聞き、入学から数カ月はそのポジションで自由に試合をさせる。川島が希望したのは、小学校時代にやっていたセンターバックではなく、GKだった。希望者は2人。もう1人は川島と違う小学校出身で、市内の選抜チームのメンバーでもあり、運動神経が良かった。

「エイジは大きかったし、家族を見ているから更に大きくなるって確信できたんだ。でももう1人のほうは筋肉質で、足が速かったから、そこまでは身長が伸びないだろうと。だったら、スピードを生かしてフィールドをやらせたほうが伸びるなって。GKはポジションが1つしかないからね」

 柏の読みは的中した。フィールドへコンバートされた同級生は頭角を現し、チームに欠かせない選手に成長した。川島もまた、身体的にも技術的にも順調に成長し、中学2年の時には地区トレセンから県トレセンへとステップアップしていた。与野西中はサッカー部員が多く、柏がGKに割ける練習は週に1回程度しかなかった。それでもトレセンに行くようになると、川島の潜在能力が少しずつ開花していった。川島はトレセンで教わったトレーニングをチームに戻って反復し、後輩たちへも技術指導を行うようになっていた。

「トレセンは楽しかったみたいだね。いつも暗くなっても最後まで練習していたから。新しいことを教えてもらって、それを一生懸命にね。でも姉や兄と比べるとちょっと幼いって感じたこともあるよ。お姉ちゃんはまさに“姉御肌”の子だったし、兄貴の崇史も正義感が強かったから。エイジは3月生まれっていうのもあるかもしれないけど、幼く感じたかな。それで“長”のつく何かをやれって言ってね、体育委員長とかがいいなと思ったら、学級委員長(笑)。まぁ、らしいとも思ったけど」

 高校進学は、浦和東高の野崎正治監督が声を掛けてくれたこともあり、早々に決めていた。浦和レッズの横山謙三氏(現埼玉県サッカー協会専務理事)からも誘われ、横山氏と柏、両親を交えて食事もしたが、川島は浦和東高を選んだ。

「やっぱり(高校サッカー)選手権に出たかったんだと思うよ。卒業アルバムにも高校で勝ちたいって書いてあったし、『レッズはどうするんだ?』とはあんまり聞かなかったかな。それで最後は本人が決めたから」

 ちなみに、中学校の文集の中で、中学サッカーを綴った川島は最後にこんな言葉で締めくくっていた。

「これからもサッカーを続け、高校サッカーで全国一になって、プロを目指して頑張りたいです」

「M・T・S」で培われた強じんなメンタル

 高校に入学した川島には新しい出会いが待っていた。それはメンタルトレーニングのスペシャリストである『大門接骨院』の院長、鵜沢正典との出会いだった。

 川島のサインが貼られた『大門接骨院』の待合室には、第16回全国中学生選抜大会の賞状のコピーが誇らしげに飾られている。当時の埼玉県選抜には、川島の他に中澤聡太(ガンバ大阪)らがおり、メンバーのうち5人がプロ選手になるほどのチームだった。鵜沢はスペシャル・アドバイザーとして、その大会に参加していた。

「最初に会ったのは、彼が中学2年生の時です。県トレの20~30人のメンバーの1人としてでした。ちょうど中学選抜大会の時ですね。準決勝まで彼が出て活躍して、埼玉県選抜が優勝したんです。じっくりと話をするようになったのは、エイジがウラトン(浦和東高の通称)に入ってからですね」

 鵜沢は「いかにモチベーションを上げるのか?」、「いかにやる気を引き出すのか?」といった新しいメンタルトレーニングを研究し、仲間と共に「M・T・S」(メンタル・トレーニング・スタディミーティング)という研究会を主宰している。最初は指導者向けの勉強会だったが、いつの間にかトップアスリートを目指す選手たちが集う場所に変わり、多くの高校生たちも参加するようになった。

 川島も「M・T・S」のメンバーだった。浦和東高に入学後、腰痛の治療で『大門接骨院』に通うようになり、川島は鵜沢との再会を果たした。

「腰の治療の時も、僕の話を真剣に聞く選手だったので、『M・T・S』に来てみないか? と、誘ったんですね」

 当時は毎月第4火曜日の夜9時30分、鵜沢の診療が終わった後から行われていた。会が終了する時間は深夜12時を回ってしまう。保護者が迎えに来る場合がほとんどだったが、川島は「ここに泊まらせてほしい」と頭を下げたのだった。

「彼が泊めてくださいって言うんです。だから寝袋を3つ買いました。1つはエイジが入れるように、大きなものです。そのうち『寝袋じゃ窮屈だから、布団を持ってきていいですか』ってね(笑)」

 月に一度は接骨院から高校に向かった。翌日の昼休みには必ず電話が入り、川島は鵜沢に礼を告げた。今では川島自身が「M・T・S」のために、いろいろなものを提供してくれている。

「僕が思うに、彼のターニングポイントは、プロに入ってからイタリアに短期留学した時だと思います。本人もずいぶんと刺激になったというか、自信がついたみたいでしたから。もちろんプロ入りする時も、大学に進学するという選択肢がありました。大学でプレーして、最後は教員として指導者になることもできますよね。でも、『自分はつぶしのきかないほうを選ぶ』って。それを聞いてエイジらしいなと思ったことも確かですね。あと、身体は大きいですけれど、特別な筋肉というわけではないんです。努力を続けて作り上げていった肉体なんですよ」

兄貴分と交わしたメール、目指す場所はまだ先

 鵜沢の横で大きくうなづいているのは、上尾サッカークラブの高橋恭介代表だ。高橋は川島が中学生だった頃、県トレセンのスタッフだった。

「エイジは南部トレセンにいて、途中から加わってきたんです。コーチと選手としての関わりは半年だけです」

 高橋も「M・T・S」にオブザーバーとして参加していた。オブザーバーとは、自らの経験を伝え、メンタルトレーニングの重要性を説くという接着剤的な役割を担っていた。高橋以外では、鵜沢のメンタルトレーニングを受けたことのある選手として、坂本將貴(ジェフユナイテッド千葉)らも参加することがあった。

「関係ですか? コーチと教え子って感じじゃないです。実際、サッカーを教えたって思っていないですから。強いて言うなら兄貴分って感じですかね」

 高橋は、川島はもちろんだが、中澤らとも、彼らがプロ入りしてからもずっと連絡を取り合っている。南アフリカ・ワールドカップの前後には、川島とメールで何度かやりとりをしたという。

「メールには『頑張って』とは書かないで、『エイジらしく表現してください』って送りました。そしたら、『自分の役割をします』とありました。一番印象に残っているのは大会の後にしたメールです」

 W杯後、高橋のサッカークラブに所属する小学生たちは、選手になりきって遊んでいた。耳を凝らすと、GKの子は「GK川島!」と気取っていた。子供たちは高橋と川島の関係を知らない。高橋は思わず感極まった。そしてメールにその様子を書いて川島に送った。少し経って、返信があった。

「エイジからは、『結果云々よりも、子供たちにそんなふうに言われるのが一番うれしい』というような返事がありました。今はすごく遠い存在になっているけど、実際に会ったら変わらない気がします。それがエイジなのかなって」



 母親が、サッカーをサボリがちと嘆いていた少年は、子供たちのヒーローになった。もし中学校でGKを志していなかったら? 真っ暗になったグラウンドで1人で練習を続けていなかったら? 傑出したメンタルトレーニングのスペシャリストと出会っていなかったら?

 川島の生まれ育った街に、支えてくれた人々の言葉に、彼の原点があった。取材した4人が異口同音に語った言葉がある。

「エイジはまだまだ上を目指していると思う」

 川島がこの街に帰ってくるのは、まだまだ先になりそうだ。