2012.10.12

SAMURAI BLUE はじまりは、「J」だった『進化の原点』17歳の香川は、試合後の寮の自室で、一人ビデオを観ていた。

文●伊東武彦 写真●兼子 愼一郎
香川真司

 今でも夢想に遊ぶことがある。

 あの時、香川真司がピッチにいたなら、試合はどうなっていただろうか。せん無い夢想ではある。

 2年前。南アフリカ・ワールドカップで、岡田武史監督率いる日本代表はベスト16に進出した。当時のメンバーを振り返ると、川島、駒野、闘莉王、長友、中澤、MF阿部、遠藤、松井、長谷部、本田、大久保。このうち、ブラジル・ワールドカップ最終予選を戦っているチームでレギュラーとして生き残っているのはGK川島、DF駒野、長友、MF遠藤、長谷部、本田といったところだ。

 2年でおよそ半分が入れ替わったことになる。この数を世界的な標準に照らして、どうみればいいのかはわからない。ただ、ワールドカップまでの4年ではなく2年で半数が入れ替わるというのは、新陳代謝としてきわめて健全なのではないか。慎重居士のザッケローニ監督下だけになおさらだ。ただ、いや、だからこそ2年前のワールドカップでの香川を観たかったという思いが消えない。

 その前年から、ワールドカップイヤーにかけての香川のプレーにはすごみがあった。所属のセレッソ大阪は、2009年当時はJ2。2008年限りでクラブのシンボルだった森島寛晃が引退し、その背番号8を受け継いだ香川はJ2のピッチで暴れまくった。08年の35試合16得点も立派だが、09年は44試合出場で27得点を決めている。堂々の得点王で、J1昇格を決めた。「J1とはレベルが違う」という見方は、正しくない。試合数、試合間隔、ピッチ環境などを考えれば、むしろ驚異といっていい。しかも香川はMFである。プロ4年目のことだった。

 06年の入団時は無名の存在だった。高校2年でプロになった当時の様子が、Jリーグ20周年記念本『JリーグNEO!』に綴られている。

<おとなしく無口。売り物は「町クラブ出身」で初の高校生Jリーガーというだけ。同期だった186センチの「デカモリシ」森島康仁と並ぶと、柿谷曜一朗とともに、いかにも華奢だった>

 プロ入りする前、通っていたのは宮城県の高校だった。セレッソ入りするにあたって、大阪市内の通信制高校に転校した。インターネットを通じて、寮の一室で授業を受けるのが日課だった。課題を要領よく終わらせて、先に出てくるのは柿谷。香川はこつこつと目の前の課題に取り組んでいた。負けた試合の後、チームメートが「気晴らしに」とボウリングなどに出かけていくのを横目に、いつまでもその日の試合のビデオを見返していたという。

 生来のまじめ、吸収力もある。2年目以降は若手育成に定評のあるレビー・クルピ監督の思いきった起用に応えていった。09年から10年、香川はキャリアの第1のピークにいた。

 そんな選手をワールドカップを翌年に控えた代表監督が指をくわえて見ているわけもない。岡田監督は予選中の08年4月には早くも合宿メンバーに招集している。その前月に行われた五輪代表の親善試合で初めて観て驚いたと、当時あかした。「世界を見たら17歳や18歳で代表の試合に出ている選手はいくらでもいる。そういう刺激も含めて自覚を持ってやってもらいたい」と話した。

 岡田監督は慧眼の人である。また発見を形に落とし込む決断力もある。日本代表コーチだった1997年、フランス・ワールドカップ予選でチームがアジアの壁に当たると、当時20歳の中田英寿の登用を加茂周監督に強く推挙したのは有名な話。オシムの後を襲って代表監督に就任すると、19歳の内田篤人を抜擢した。その直後に見いだした香川が、南アの切り札になっても不思議ではなかった。

 残念なのが、本大会を前にした世論の紛糾の中で、守備的なやり方に舵をきらなければなかったことである。これは推測に過ぎないが、チーム作りが順調だったら、指揮官には大会直前に「刺激」として香川というカードを切る腹があったのではないか。岡田監督が本大会前に「推進力」を求めたのは本田のトップ起用であり、松井、大久保のウイング的な起用だった。あるいはGK川島の抜擢だった。天賦の才を持つMFをピッチに送り込む余裕はなかった。

 香川は本大会登録メンバーには入らなかった。ドイツ移籍が決まった香川がセレッソでのラストゲームを終えたのは、本大会直前の5月半ば。日本からの経由地点として南アに入り、サポートメンバーとしてチームに帯同した後にドイツに渡った。その後の進化はご存じの通りである。

 香川がいたら、パラグアイとのリアリズムに満ちた肉弾戦を日本が制していたかは、わからない。が、ブラジルで破らなければならないベスト8への厚い壁に思いをいたす時、つまり戦術や準備を超えた「勝負」というものを選手たち自身がつかみ取らなければならない試練を考えた時、21歳香川のプレーヤーとしての勢いがあったなら、パラグアイ戦の結果は違っていたのではないかと思ってしまうのである。

「たら、れば」ではある。ただ、これはかつての日本サッカーを支配していた不幸な種類の「たら、れば」ではない。その後にさらなる雄飛を遂げた香川自身は、まだ23歳。2年後の次の舞台が残されているからである。