2011.09.23

第3回 「声の世界」のポジショニング

第3回 「声の世界」のポジショニング

文・写真=岡田仁志

仙台合宿(10/8~10/10)の紅白戦の落合啓士(7番)と加藤健人。

 中国、イラン、韓国、日本。第4回ブラインドサッカーアジア選手権(12月22日~25日・仙台市民球場)の出場国は、この4ヵ国となった。第1回(3ヵ国)から第3回(5ヵ国)まで1つずつ出場国を増やしてきただけに、当初は参加が見込まれていたマレーシアとタイの欠場は残念だ。しかし結果的に、このアジア選手権が、ロンドンパラリンピックの「アジア最終予選」とでも呼びたくなるハイレベルな大会となったのも事実である。仮に1次予選や2次予選があったとしても、最終予選はおそらくこの顔ぶれになっただろう。出場6ヵ国の場合、3チームずつのグループリーグが実施される予定だったので、日本は最大のライバルであるイランと戦わずにパラ出場を決められる可能性もあった。それが、昨年のアジアパラ競技大会で上位を占めた4ヵ国による総当たり戦となったのである。すべての試合が、最後まで息の抜けない死闘になるに違いない。

 そして私は、この顔ぶれを眺めると、どうしても4年前のことを思い出してしまう。日本が北京パラリンピック出場を逃した韓国での第2回アジア選手権も、同じ4ヵ国による戦いだった(中国がすでにパラ出場権を得ていた点も同じだ)。日本は本来の力を発揮することができず、大会を通じて無得点に終わった。そのチームの中でも、とくに苦い思いを抱えて帰国したのは、それが初の国際大会だった加藤健人だろう。

 当時22歳だった加藤は、ストライカーとしての活躍を期待され、あの大会で初めて代表入りを果たした。しかし仁川へ向かう飛行機で同席した私は、「僕、海外どころか、飛行機に乗るのも初めてなんですよ」と彼が言うのを聞いて、いささか不安になったものだ。高校時代に視神経の病気で視力を失い始めた(つまり視覚障害者歴が浅い)加藤にとっては、機内食ひとつ取ってもひどく緊張を強いられる体験だっただろう。米国留学の経験もある佐々木康裕が器用に機内食を平らげる横で、食器やコップの位置を慎重に確認しながら時間をかけて食べていた姿を、今でもよく覚えている。

 大会開幕の前日、ただでさえ緊張していた加藤は、不運なアクシデントに見舞われた。練習中に、キャプテンの三原健朗と衝突。頬骨に陥没骨折を負った三原は、試合に出場することなく帰国を余儀なくされたのである。先輩を故障させてしまったショックを、初代表の22歳が引きずらないわけはない。本人は「大会が終わるまで体がまったく動かなかったし、どの試合にどれだけ出場したのかも覚えていないんですよ」と言う。

 しかし加藤はそれ以降、国際大会の経験を積むたびに、代表チームに欠かせない存在として一歩ずつ成長してきた。2年前のアジア選手権(東京)では、「王子」の異名とは裏腹ないぶし銀の動きを見せ、中盤の守備で準優勝に貢献。昨年の世界選手権では、初戦のコロンビア戦(0-0)の終了間際に惜しいシュートも放っている。

「あれは、練習どおりのサインプレイでした。コーナーキックから、オッチー(落合啓士)さんのパスが逆サイドの僕の足元にぴたりと入ったので、トラップもうまくいったんです。そこからボールを蹴りやすい場所に動かしてインステップで撃ったんですけど、ちょっとだけアウトにかかったので、右に逸れてしまいました。蹴った瞬間は『行った!』と思ったんですけどね」

 ゴールが決まらなかったのは残念だが、世界選手権の初戦、しかも0-0で迎えた終盤にこれだけ落ち着いたプレイができた(そしてその内容をしっかり覚えている)のは、精神的に成長した証だろう。そこにはもう、緊張とプレッシャーで体が動かなかった若者はいない。さらに加藤は、同じ年のアジアパラ競技大会(韓国戦)でフリーキックをゴール左上に叩き込み、代表での初得点も記録した。

「早く代表でゴールを決めたかったので、あれは嬉しすぎましたね(笑)。決めた後のことはあんまり記憶がないんですが、どうやらピッチで飛び跳ねたらしくて、宿舎に帰ってからみんなに『喜びすぎだ』って言われました。僕は目が悪くなるまでふつうのサッカーをやっていましたが、ポジションがサイドハーフだったので、あんまり点を取ったことがないんですよ。それもあって、ゴールの喜びはブラインドサッカーを始めてから知ったような気がします。撃つ前からゴールまでの流れをイメージして、そのイメージどおりに決まると本当に気持ちがいいので、シュートの楽しさはブラインドサッカーのほうが大きいかもしれません」

 だが本人は今、「ストライカー」とは別の役割に手応えを感じているようだ。足元のボール扱いに長けたテクニシャンであり、国内の試合では点取り屋のイメージも強いので、やや意外な気もする。しかし代表では「ボールのないところでの動き」を強く意識していると言う。

「僕は体が小さいし、筋肉もなかなかつかないので、国際試合では大柄な相手を背負った状態でプレイするのが難しいんです。でも2年前に中盤で使われるようになって以来、全体の状況を判断しながら、チームのバランスを取るようなポジショニングができるようになりました。ボールを持った味方の後ろでフォローしたり、守備への切り替えを早くして自陣に戻ったり、攻め上がった味方のポジションに入ったり。そういう動きが、この4年間でいちばん成長したと自分では思ってます。今の代表には巧いドリブラーが何人もいるので、僕は全体のバランスを考えながらポジショニングで勝負する。それが認められているから、試合でも使ってもらえるんだと思います。われながら、『どうして見えてないのにこんなに動けるんだろう』と思うぐらい動けるようになったんですよ」

 私自身もそうだが、ブラインドサッカーを観戦する者は、ふつうのサッカー以上に、ボールを持った選手のドリブルやシュートに目を奪われがちだ。練習も、止める(トラップ)、蹴る(キック)、運ぶ(ドリブル)といった基本技術が中心になる。しかしそれが上達しただけでは、サッカーはできない。自分がピッチのどこにいるのか、味方の選手はどこにいるのか、ボールを保持しているのは敵か味方か……といった状況判断ができなければ、ボールを扱う以前に、一歩も動くことができないのである。いくらかボールを扱えるようになった初級者も、試合でドリブルをミスしてボールを失った途端に、ピタリと足が止まってしまう。

 このインタビューから約1週間後の10月8日~10日に、代表チームは仙台で合宿を行った。紅白戦の際、私は加藤の動きを中心に目で追ったのだが、その言葉に偽りはなかった。ボールを持った味方がフェンス際で敵と一対一になれば、その後ろに回ってバックパスに備える。味方がボールを失えば、敵に体を寄せて攻撃を遅らせる。味方のDFがドリブルで攻め上がれば、後ろに下がってそのポジションを埋める。「ボールのないところ」で、加藤は実に献身的に走り回っていた。その動きがあまりにもスムーズで、「ふつうのサッカーの動き」にしか見えないので、私は今までそれに気づかなかったのだろう。あらためて、そのポジショニングの的確さと判断の早さに驚かされたのだった。

「ただし僕の場合、『声』を聞かないと状況判断ができません。よく『どうしてまっすぐ走れるの?』と訊かれるんですけど、たとえばウォーミングアップのランニングでまっすぐ走れるのも、四隅に立つサポーターが声を出してくれるおかげ。聞き取りにくいときはコースを外れて、対角線に走っちゃったりもするんです(笑)。試合中も、子供の頃から見えてない選手の中には感覚で状況がわかる人もいますけど、僕は『声の世界』でサッカーをしているので、見えている人(監督、コーラー、GK)やボールを持った味方からの情報提供がないとダメ。このサッカーでの『声』の大切さを、誰よりも強く感じてるかもしれません」

 もちろん、「声」が大事なのは加藤だけではない。いかに「声」をかけ合い、状況判断を早くしていくかは、現在の代表チーム全体のテーマだ。紅白戦を見ていても、チームは以前よりも良い意味で騒がしくなった。声を出すことで活気が生まれ、ますます声がよく出るようになる――という好循環が生じつつあるようにも感じる。B1日本代表が世界でいちばん「お喋り」なサッカーチームになったとき、ロンドン行きのチケットはその手に近づくのかもしれない。

「この4年間、ほとんど同じメンバーで戦ってきましたけど、平均年齢も高いですし(笑)、このチームでパラを狙うのは12月のアジア選手権が最後じゃないかと思うんですよ。僕はチームでいちばん若いですけど、その次のことはまだ何も考えていません。このメンバーでパラに行くことしか考えてないんです。それが実現すれば、日本のブラインドサッカーの歴史も大きく変わるでしょう。だから、とにかく仙台では勝たないと意味がない。相手のオウンゴールでも何でもいいから、とにかく1点取って勝つ。うまくファウルをもらったり、時間稼ぎをしたり、そういう面でもチームに貢献したいですね」

 4年前、韓国でほろ苦い代表デビューを味わった大学生は、その後、社会に出てヘルスキーパーとして企業で働き、転職も経験して、実に逞しい男になった。加藤の成長は、そのまま代表チーム自体の成長なのだと私は思う。

【岡田仁志(おかだ・ひとし)】1964年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。深川峻太郎の筆名でもエッセイやコラムを執筆し、著書に 『キャプテン翼勝利学』(集英社インターナショナル)がある。2006年からブラインドサッカーを取材し、2009年6月、『闇の中の翼たち ブラインドサッカー日 本代表の苦闘』(幻冬舎)を上梓。