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元日本代表DF岩政から刺激を受けた岡山のルーキーDF久保飛翔「“ミスター岡山”と呼ばれるようになりたい」

2016.02.15

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写真=平柳麻衣

 高校1年までDFとFWのポジション転向を繰り返していた久保飛翔。「FWで勝負したい」という意志とは対象的に、センターバックとして才能を開花させると、大学を経てファジアーノ岡山加入を決めた。そして、元日本代表DF岩政大樹と出会い、「安易だった」センターバックへの意識が変わった。「自分はまだまだ成長できる」。伸びしろ豊富な新人が岡山で目指すものとは――。

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中3でセンターバックをやらされた時は、屈辱的な気持ちでした(苦笑)

――サッカーを始めたきっかけは?
久保 小学3年生の時に日韓ワールドカップがあってサッカーに興味を持ち始めたのと、父の友人が当時、愛媛県で一番強いと言われていたサッカークラブ(帝人サッカースクール)のコーチをやっていて、勧められたことが主な理由です。でも、兄の影響で幼稚園の頃から剣道をやっていたので、当時は剣道の方が中心で、剣道の試合がある時はサッカーを休んでいました。

――その頃のポジションやプレースタイルは?
久保 最初はスイーパーでした。当時はそれほど体が大きくなかったのですが、足が速かったので、機動力を活かしてやっていました。

――短距離走も速かったのですか?
久保 短距離も長距離も両方得意でした。特に長距離はチームで一、ニを争うくらい速かったと思います。小学生の時のチームが「走って当たり前」というスタンスだったので、15分間走などで走らされまくっているうちに慣れました。練習後に走らないと、「ラッキー」ではなく、「えっ、走らないの?」という感じで(笑)。あと、剣道をやっていたおかげで、基礎体力が高かったのかもしれないです。

――その後もずっとDFが定位置だったのですか?
久保 小5の時にFWに転向して、中3でセンターバックに戻りました。今では想像つかないと思いますが、FW時代は背番号10を背負っていたんです(笑)。

――FW時代もスピードを活かしたプレースタイルだったのですか?
久保 だんだん周りの身体能力が上がってきて、スピードでは勝てなくなってしまいました。なので、裏に抜ける動きは2トップの相方に任せて、自分はポストプレーで起点になって、タメを作って周りを活かしたり、センタリングに飛びこむプレーが多かったです。

――小学校時代は愛媛FCのスクールにも通っていたそうですね。
久保 小学校のクラブチームの練習が火、木、土、日曜しかなかったので、もっと練習したいなと思って、小学5、6年生の時に愛媛のスクールにも通っていました。その頃からジュニアユースに上がりたいという気持ちが強かったので、日頃から自分のプレーや性格をアピールすることを意識してやっていましたね。

――中学で愛媛のジュニアユースに入って、印象的だったことは?
久保 当時は愛媛がJリーグに加盟したばかりで、「愛媛にプロサッカークラブができた」と地域全体が盛りあがっていたんです。たまに試合も観に行っていて、エンブレムを見て「カッコいいな」と思っていたので、自分もジュニアユースで同じユニフォームを着て試合に出られた時はすごく喜びを感じました。

――中学時代で印象に残っている思い出はありますか?
久保 中3でセンターバックをやらされた時は、屈辱的な気持ちでした(苦笑)。ある試合でセンターバックがいなくなって、急きょ代わりに出たんですけど、すごくうまくいってしまって(笑)、そこから少しずつセンターバックもやるようになったんです。当時は「センターバックなんて余裕でしょ」と甘く見ていましたし、完全に調子に乗っていましたね。

――その後、済美高校に進学しました。
久保 中2までは愛媛ユースに上がりたいと思っていたんですけど、中3の時にユースの監督が代わって、少し迷い始めました。それから高卒でトップに上がれなかった時のことも考えて、大学に進学するならスポーツクラスに入れる済美に行った方がいいと思ったことと、選手権(全国高校サッカー選手権大会)への憧れがあったことと、高校の方が愛媛以外のJクラブに行ける可能性も広がるかもしれないと考えて、済美に決めました。あと、FWで勝負したかったことも理由の一つです。このままユースに上がってもセンターバックしかやらせてもらえないだろうと思い、それなら新天地に行って「僕、FWですから」ってアピールしようと(笑)。そのおかげで、高1の時はFWで試合に出られました。

――高校に入って、ジュニアユースとの違いはどんなところに感じましたか?
久保 まず、土のグラウンドに納得できなくて(苦笑)、しかも野球部が同じグラウンドをメインで使っていて、サッカー部は余ったところしか使えなかったので、80メートルのコートしか作れなかったんです。試合前だけ野球部に頭を下げて、100メートルに広めてもらっていました。あと、入学したばかりの頃はまだヒョロヒョロだったので、フィジカルやスピード感に違いを感じましたし、ジュニアユースにはなかった上下関係もありました。3年生はヒゲも生えていておじさんみたいで、当時はすごく怖かったです(笑)。それと、監督が学校の先生をやっていることにも違和感がありましたね。

――学校に監督がいるのは嫌なものなのですか?
久保 学校でのことも言われるのは、やっぱり嫌ですよね(笑)。僕は言われなかったですけど、チームメートがいろいろと悪さをして、連帯責任で走らされたことがあったので、「ユースだったらバレないのにな」と思いました。

――高校入学後はすぐに試合に出ていたのですか?
久保 すぐではなかったですけど、スピード感に慣れてきた頃に先輩がけがをしてしまって、替わりに使ってもらえるようになり、県リーグやインターハイ予選もスタメンで出ました。でも、済美ではFWだったのに、なぜか国体のメンバーにセンターバックとして選ばれて、国体が終わってチームに戻ってきた時に、FWとして以前のようなプレーができなくなってしまったんです。それでも監督はFWとして考えてくれていて、選手権予選もFWとしてベンチに入れてもらったんですけど、結局試合に出ないまま負けてしまいました。

――その後、本格的にセンターバックに移ったのですか?
久保 いや、それでもまだFWで勝負しようと思っていました。でも、なかなかスタメンで試合に出られなくて、たまたま新人戦の1カ月くらい前の練習試合でセンターバックがけがをして、また僕が替わりにやることになったんです。その時はどこのポジションでもいいから、とにかく試合に出たいと思っていて、新人戦が始まる頃にセンターバックに定着しました。

――センターバックとしては当時、どんなプレーヤーだったのですか?
久保 ガチャンガチャン相手をつぶして、ボールを持ったら前に上がって、とにかく自由にやっていました。あまりセンターバックらしくなかったと思いますし、今とは全く違いましたね。

――高校時代で一番印象に残っている思い出は何ですか?
久保 高3の選手権の県大会で優勝して、初めて選手権に出られたことが一番うれしかったです。あと、その年のインターハイ予選も強く印象に残っています。新人戦で他校を圧倒して優勝したので、インターハイ予選に油断して臨んだら、松下佳貴(2016シーズン、ヴィッセル神戸加入)がキャプテンをやっていた松山工業高校に1-2で負けました。

――それがチームにとって、いい転機となったのですか?
久保 そうですね。負けた後、みんなの意識を変えるために、土屋(誠)監督も含めて全員坊主にしました。負けたのは悔しかったですけど、インターハイも勝っていたら選手権には行けなかったと思いますし、いい教訓になりました。

――監督はどんな方でしたか?
久保 すごくフランクな人で、練習も「今日のメニューどうだった?」と選手の意見を聞いてくれるので、僕が正直に「もっとこうした方がいいと思います」と言うこともありました。学生主体とまではいかないですけど、伸び伸びやらせてもらったので、すごくやりやすかったです。監督とは今でも連絡を取りますし、岡山の練習に参加した時も見に来てくれました。

――高3ではキャプテンを務めていましたが、苦労したことはありましたか?
久保 中学の県選抜メンバーがほとんど済美に来ていたので、みんな個性が強くて、意見をまとめるのにすごく苦労しました。サッカー観や練習への取り組み方で揉めることがよくありましたし、プライドが高い人が多かったので、「もっとちゃんとやれよ」と言っても聞いてもらえなくて(苦笑)。自分自身に妥協してしまった点もありましたけど、結果的に選手権に行けたので、ダメなキャプテンではなかったのかなと思います。

――高校時代を振り返って、プレー面で手応えを感じた部分や、逆に足りないと感じた部分はありますか?
久保 2年の時にU-17四国選抜に入って、地域対抗戦に出たんですけど、関西選抜や関東選抜と対戦した時に、自分より体が大きいDFや、体は小さくてもインターセプトがうまい選手がいて、すべての能力が足りないなと考えさせられました。それまでは四国レベルで考えてしまっていたので、甘かったなと。

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オフ・ザ・ピッチでやることが多いのが慶應の特徴

――卒業後、慶應義塾大学に入った経緯は?
久保 最初はスポーツ推薦や指定校推薦で関西の大学に行こうと考えていたんですけど、高3の6月頃に慶應から、AO入試を受けてみないかと誘われて、「自分でも慶應に行ける可能性があるんだ」と思いました。とにかくレベルが高くて、日本一を狙えそうなところでやりたかったんです。あと、卒業後のことを考えた時に、もし慶應で4年間サッカーをやってプロになれなかったとしても、いい就職先が見つかりそうだなと思いましたし、「文武両道」を掲げる慶應の校風もいいなと思いました。そういういろいろな理由が重なって、慶應に決めました。

――入学後、イメージと違った部分はありましたか?
久保 サッカー面はすごく良くて、ここなら成長できると思ったんですけど、サッカー以外で驚くことばかりでした。例えば、入学当初は「試合に出ても出なくても、自分の立場でできることを考えて、チームに貢献しろ」とよく言われたんですけど、高校時代は自分のメリットばかり考えてやってきたので、最初はうまくなじめませんでした。

――ピッチ外での意識が高いのですね。
久保 オフ・ザ・ピッチでやることが多いのが慶應の特徴です。僕が1年生の頃は、同学年の選手がミスをしたら、慶應では粗相と言うんですけど、その日のうちにミーティングが開かれていました。なぜそのミスが起こったのか、どうすれば改善されるのか、といったことを1時間くらい話し合い、ミスをした人を責めるんです。今はもうそんなことはやってないんですけど、そのしきたりを先輩から教えられた時は、「何だ、ここは」と思いました(苦笑)。

――そんな伝統があったのですね。
久保 ミーティングもすごく長いですし、特に主務や学連、学生コーチを決める時は1日で3部ミーティングをやります。最初は意味がわからなかったですけど、今ではそのミーティングをやって良かったと思いますし、後輩たちにも「今は面倒くさいと思うけど、ちゃんとやって良かったと思える日が絶対に来るから」と伝えています。

――慶應でレギュラーになったのはいつ頃でしたか?
久保 初スタメンは2年生の前期2節の早慶戦でした。開幕戦でスタメンだった宮地(元貴)が退場して出場停止になって、チャンスが回ってきたんです。どんなプレーをしたのか全然憶えてないほど緊張しすぎて、あまりにもひどくてハーフタイムで交代させられてしまい、その試合を機にBチームに落ちて、半年間くらい戻れませんでした。

――再びAチームに戻ることができた要因は?
久保 最初は悔しくて受け入れられなかったんですけど、もう割りきって、バカになってやろうと思ったんです。コンディション調整も必要ないので、とにかく練習しまくりました。あと、今まで以上に考えながら練習に取り組むようになりました。監督やコーチ、同期、後輩にも「今日のプレー、どうだった?」と聞いたり、ご飯の量を増やしてみたり。そして、夏の早慶定期戦の前にAチームに戻れました。

――Aチームに戻ってからはレギュラーに定着できたのですか?
久保 後期リーグ開幕戦から4試合くらいはスタメンで出ましたけど、その後はスタメンを外されたり、また戻ったりという感じでした。3年の時も開幕直前の鹿児島遠征で扁桃炎にかかってしまっている間に先輩にポジションを奪われて、7節くらいまで出てないですし、今年も前期はけがで半分以上出られませんでした。そう考えると、大学では全然試合に出てなくて、災難ばかりです(苦笑)。

――大学時代で特に印象に残っている対戦相手はいますか?
久保 専修大学の長澤和輝(現ジェフユナイテッド千葉)君が一番印象に残っています。うまいのはわかっていたんですけど、フィジカルが売りの僕の体を手で抑えられて、化け物かと思いました。あと、国士舘大学の平松(宗/現アルビレックス新潟)君も、対戦した時に1回もヘディングで勝てなくて、僕にとっては脅威でした。

――大学4年間で一番成長した部分は?
久保 ヘディングは確実に強くなりました。高校の時はヘディングが自分の武器だとは思っていなかったのですが、須田(芳正)監督から「ヘディングだけは負けるな」と言われて、意識して取り組むようになったんです。あとはメンタル面です。センターバックでキャプテンをやっている僕が下を向いたり、落ちこんだらおしまいなので、何があっても自分だけは動じないようにしようと、気丈に振る舞うようにしていました。

――4年間をとおして、センターバックのどんなところに魅力を感じましたか?
久保 チーム全体を見渡せるポジションなので、自分が声をかけることで守りやすくしたり、組織としてどうしたらいいかを考えることができるところ。あとは、個人の駆け引きですね。

――今までのサッカー人生において、一番影響を受けた人は誰ですか?
久保 それぞれのカテゴリーでいろいろな人から影響を受けたので、一概には言えないんですけど、最近で言うと岡山の練習に参加した時に話した(岩政)大樹さんです。僕は身体能力が高い方なので、大学レベルでは、何も考えずにヘディングをしても、落下点に突っこめば勝てるし、思いっきりぶつかれば相手がよろけると安易に思っていたんです。でも、ヘディング一つ取っても、当てる場所や飛ぶタイミングを考えたり、例えば最初のプレーで思いきり行って相手に強いと思わせることで、次から楽に勝てるようになったりとか、論理的に考えていけば、もっと勝てる可能性が広がるという話を大樹さんから聞きました。そういう会話をとおして、何で大樹さんがJリーグで長く生き残ってこれたのかわかりましたし、自分にもまだまだ成長の可能性あるんだなと思えたので、すごく刺激を受けました。

――岡山への加入を決めた理由を教えてください。
久保 カテゴリーはあまり意識してなくて、最初にオファーを出してくれたクラブがいいという希望があったんです。岡山なら自分が成長できると思いましたし、アットホームな雰囲気がいい意味でプロらしくなく、観客もたくさん入りますし、すごく地域に愛されているイメージがあったので、加入を決めました。

――後からオファーを受けた藤本佳希選手(明治大学/2016シーズン、岡山加入)に、岡山の魅力を語ったそうですね。
久保 佳希が悩んでいると言っていたので、岡山のいいところを語って、「一緒にやろうよ」と誘いました。やっぱり高校までずっと一緒にやってきた仲なので、僕はまた一緒にやりたいという想いがありました。だから、佳希の内定が発表された時はうれしかったし、ポジションは違いますけど、佳希が活躍することは刺激になるので、いいライバルだと思っています。

――岡山ではどんな選手になりたいですか?
久保 チームに貢献して、岡山でJ1に上がって、そのまま岡山でリーグ優勝したい。ずっと岡山にいたいですし、“ミスター岡山”と呼ばれるくらいになりたいです。

――海外移籍に挑戦したい気持ちはないのですか?
久保 海外に行きたい気持ちもあります。ヨーロッパでも、アジアでも、オセアニアでも、とにかく言語や文化が違うところでサッカーをしたいです。卒論でタイのサッカーについて研究して、海外でプレーすることのメリットをすごく感じましたし、大樹さんからタイでの経験談を聞いて、僕もそういう経験をしたいなと思いました。海外に行くことで語学力も身につくと思いますし、即戦力として結果を求められる中で、果たして自分は結果を残せるのか、挑戦してみたいと思っています。

――“ミスター岡山”になる目標からは少し離れてしまうかもしれません。
久保 目標が矛盾してしまっているんですよね(苦笑)。海外に行くのは、岡山でやりきってからだと思います。今は岡山が一番好きなので、岡山でJ1に上がって優勝すること。その目標に向かって一生懸命やりたいです。

By 平柳麻衣

静岡を拠点に活動するフリーライター。清水エスパルスを中心に、高校・大学サッカーまで幅広く取材。

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