2016.02.10

京都橘で3年連続選手権出場の東洋大DF倉本光太郎、挫折を経験した古巣への復帰を誓う「サンガでプレーしたい」

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インタビュー=酒井伸 写真=足立雅史(2枚目)、東洋大学サッカー部(3枚目)

 京都サンガF.C.U-18昇格の道が絶たれ、悔しさを胸に京都橘高校へ進んだ倉本光太郎。サイドバックのポジションから繰りだす正確なキックは、カウンターサッカーを用いる京都橘に必要不可欠なものとなった。しかし、3年連続全国高校サッカー選手権出場という功績を持って臨んだ大学サッカーでは、周りとの差を痛感させられ、東洋大学1年目を終えた。「トップチームで試合に出続け、1部昇格に貢献したい」。再び輝きを取り戻すべく、倉本が大学2シーズン目に挑む。

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高校でもやっていける自信があった

――いつからサッカーを始めたのでしょうか?
倉本 幼稚園の年中の頃から、サンガのクリニックに参加して、小学校1年生からは、地元の京都神明JSCという少年団に入り、本格的にサッカーを始めました。

――中学時代は京都U-15に入りました。
倉本 小学校の友達に誘われてセレクションを受けて、京都U-15の川勝(博康/現トップチームコーチ)監督に評価され、合格できました。

――セレクションを受けた際、手応えはありましたか?
倉本 小学校でもサンガのクリニックに通っていましたが、受かるとは思いませんでした。自分のプレーが発揮できず、友達から「何でお前が受かんねん」と言われるくらいでした(苦笑)。

――小学校の時は、選抜チームなどに選ばれていましたか?
倉本 宇治選抜に選ばれていましたが、自分よりずっと上の京都府選抜や関西選抜などに入っていた選手が不合格だったので、「名前を間違えられたんじゃないか」、「何で受かったのだろう」という感じでした。喜びより驚きの方が大きかったです。

――Jクラブの育成組織ですと、多くの選手がセレクションに集まったと思います。
倉本 だいたい200人くらいいましたね。その中の18人に入ったので本当に不思議です。

――サンガに入ってからはどうでしたか?
倉本 入った時はとてもレベルが高いと感じましたが、ビルドアップとキック精度を評価され、中1の時に2年生のチームに上げてもらいました。上級生に混ざってプレーすることで自信がついて、やっていける自信をつかみました。

――現在プロで活躍している奥川雅也(FCリーフェリング)選手や岩元颯オリビエ(ジュビロ磐田)選手とはチームメートでした。
倉本 当時からすごかったです。自分は右サイドバックだったので、2人が動きだしたら、まずボールを預けていました。簡単にゴールを決めてくれたので助かりました(笑)。

――中3の8月には、世界大会(マンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップ・ワールド・ファイナルズ)にも出場されましたが、世界との差は感じましたか?
倉本 チェルシーの10番とマッチアップしましたが、簡単にかわされて決められたのは苦い思い出です。個人のレベルの差はすごく感じました。勝てそうで勝てない試合が多く、20チーム中15位でした。

――その後は京都U-18ではなく、京都橘に進みました。
倉本 中3の夏に監督から「ユースは厳しい」と伝えられました。その時のスタメンのうち8人はユースに上がったので、悔しい想いがありました。

――多くの高校がある中で、京都橘を選んだ理由は?
倉本 2010年度に久御山高校が選手権で準優勝して、「高校サッカーっていいな」、「カッコいいな」と感じていました。でも、監督に相談したら「お前のプレースタイルは久御山じゃない。京都橘にしたらどうだ」と勧められて、その後、京都橘の練習に参加させてもらったら、とても雰囲気が良くて、米澤(一成)監督の下なら成長できそうだなと感じました。

――レベルの差は感じましたか?
倉本 高校でもやっていける自信があったので、そこまで感じませんでした。「高校で見返してやろう」、「高1からスタメンになる」という気持ちでいっぱいでした。

――サンガでやっていたサッカーと、京都橘のサッカーの違いはいかがでしたか?
倉本 自分はポゼッションが好きで、中高ともに自分の理想とするサッカーができるチームでした。でも、京都橘の時は、土のグラウンドで勝つことを考えたり、プレミアWEST(高円宮杯U-18サッカーリーグWEST)で格上のチームに挑むために、リトリートしてカウンターを狙うサッカーになりがちでした。自分は、前線にいた(仙頭)啓矢(現東洋大)君と(小屋松)知哉(現名古屋グランパス)君へ、いかに速くボールを渡せるかを考えていました。

――高校時代に苦労したことはありましたか?
倉本 朝の小テストです。何度も不合格になってしまい、合格できるまで放課後の練習に参加できませんでした。全然勉強ができず、毎日のように米澤監督に謝りに行きましたし、「学校を辞めたいです」と言ったこともあります。インターハイ予選で負けた翌日のミーティングにも間に合わず、キャプテンの啓矢君に「落ちすぎや。坊主にしてこい」と怒られました。結局、最初の1年間で3回坊主になりました。せっかく1年生から試合に出させてもらっていたのにチームに迷惑をかけて、「自分は退いた方がいいのかもしれない」と真剣に考えてましたし、その時、サッカーだけではダメだなと感じました。

――その小テストを乗り越えたきっかけは?
倉本 勉強を必死にやっていたら、高1の3学期に一発で受かったことがありました。そこでコツをつかんでからは落ちませんでした。

――高1の時、選手権で準優勝に輝きました。決勝戦の思い出は?
倉本 「3年生のためにも」という想いで緊張していましたが、楽しくプレーできました。自分たちの方が前評判は高く、強いと思っていましたが、結果的には負けてしまい、サッカーは何が起こるかわからないと実感させられました。

――高2の選手権は星稜高校に0-4で敗れ、ベスト4でした。
倉本 それまでは調子が良かったんですが、準決勝ではPKを与えてしまい、チームに迷惑をかけてしまいました。

――選手権には3年連続で出場しました。高校最後の1年はいかがでしたか?
倉本 インターハイも出場できましたし、プレミアWESTでは最後の最後に残留を決め、3年連続で選手権も経験できて、いい代だったと思います。

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トップチームで試合に出続け、1部昇格に貢献したい

――卒業後は関東2部の東洋大を選びました。
倉本 高校の先輩である啓矢君と、宮吉(悠太)君に憧れていました。また、米澤監督に「東洋大のサッカーに合っているんじゃないか」と言われたのも大きな要因です。

――東洋大のサッカーについて教えてください。
倉本 京都橘とは真逆で、後ろからボールをつないで主導権を握っていくサッカーです。ボールを奪ったら前を狙うクセがついていたので、東洋大に入ってからは苦労しました。周りのクラブユース出身の選手はポゼッションがしっかりでき、ボールを回すのがとても上手なんですけど、自分は高校3年間でやっていなかったので、差が出てしまった1年目でした。でも、自分が元々得意だったことで、好きなサッカースタイルなので、プレーしていて楽しいです。

――大学1年目のシーズンはいかがでしたか?
倉本 去年はトップチームに上がれず、Bチームでプレーしていました。でも、Iリーグ(インディペンデンスリーグ)では1試合目を除いてスタメンで出させてもらいました。そこでボールをつなぐ意識を取り戻しつつ、環境に慣れていった1年でした。

――トップチームで、同じ右サイドバックを務めていた石坂元気選手がカターレ富山に加入しました。
倉本 石坂君はポゼッションがうまく、攻撃力もあります。スピードやクロスの精度など自分にないものが備わっていて、いいお手本でした。

――新チームはもう始動していますか?
倉本 はい。昨年末最後の練習試合にスタメンで出させてもらいました。自分自身、いいスタートは切れていると思います。

――今シーズンの目標を聞かせてください。
倉本 個人としては去年Bチームで悔しい想いをしたので、トップチームで試合に出続け、1部昇格に貢献したいです。

――最後に、将来の夢を聞かせてください。
倉本 4年時にはチームの中心として活躍して、卒業後はサンガでプレーしたいです。