2016.02.06

“カルチョポリ”から10年を経た今/前田拓

 2011年にスタートし、年に一度サッカー&映画ファンが集う一大イベントに成長、今年も2月11日(木・祝)~14日(日)の4日間で11作品を上映する「ヨコハマ・フットボール映画祭2016」。さらに全国12都市で映画を上映するジャパンツアーも開催されます。

 そこでサッカーキングでは映画祭の開催を記念し、豪華執筆陣による各作品の映画評を順次ご紹介。

 今回はサッカー界が誇る酔いどれエディター前田拓さんに、イタリアサッカー界の不正腐敗を悪意とユーモアを交えて痛烈に皮肉った意欲作『イタリア式サッカー狂騒曲』についての映画評を寄稿いただきました。

“カルチョポリ”から10年を経た今/前田拓

 映画を観る時は、誰しも2つの視線をスクリーンに投げかけているのではないか。

 一つは、作品そのものに向けた視線。世界観やストーリーに没入し、展開を味わい、登場人物に感情移入する意識だ。

 もう一つは、作品の外側に向けた視線とでも言おうか。なぜこんな映画が生まれたのか、作り手はどんなメッセージを込めたのか、観客はどう受け止めたのかを探ろうとする意識。

 鑑賞中、そんなことに改めて思いを致すほど、自分の視線が後者に向いていることを自覚した。

 没入するようなストーリーはない。だが、カルチョが今のイタリアにとって、イタリア人にとってどんな存在なのか、実感を以って伝えてくれる貴重な作品だと思う。

 物語はアルベール・カミュの言葉で幕を開ける。

「私はサッカーから人生を学んだ」という字幕が最初に提示されるのはとても示唆的だ。私も含め、高名な小説家であり哲学者である彼の作品を精読したことはなくても、このフランス人の代名詞が“不条理”だと知るだけで、ある種のヒントを受け取ることができる。 
 ご存知のとおり、かつて栄華を極めたイタリアサッカーは、未曾有のスキャンダル“カルチョポリ”から10年を経た今も失地回復を果たせていない。

 そもそも、近年のイタリアサッカーは常に“疑惑”を内包していたとも言える。親指と人差指をこすって“カネ”を示すジェスチャーをレフェリーに当てつけていたのは、ファンだけでなく選手たちもだ。ユヴェントスに敗れたインテルやミランの首脳陣が決まって愚痴るのは、レフェリーの偏重ぶり。それらはカルチョポリが発覚する10年も前から、日本のファンにもお馴染みの光景だった。

 権謀術数の国イタリアにおいて、“疑惑”は真偽を取りざたすべき問題というより、抗議や弁解のレトリックとして陰謀論的に用いられていたことは確かだ。だが、06年のスキャンダル発覚によって、カルチョに対する不信は現実のものとなった。それから7 年、いくつかの裁判では無罪判決が下っているにも関わらず、このような作品が生み出されたことが傷の深さを物語っている。

 90分にわたって描かれるのは、現代サッカーを象徴するかのような問題の数々。

 UEFA首脳を思わせる男たちは大会での人気チームの勝利を画策し、敬虔な“信徒”のようなレフェリーが誘惑に負けて八百長に手を染める。金持ちオーナーのクラブは庶民のクラブを経済的にも虐げ、その立場が脅かされると、やはりレフェリーに八百長を持ちかける始末。ピッチ内ではファウルの笛のたびに両チームの選手がレフェリーを責め立て、味方同士が暴力を振るう。その外では観衆が武器を片手に相手チームを罵倒し、挙句ピッチに雪崩れ込んでレフェリーを吊るし首にしようとするのだ。

 あらゆる問題が噴出したピッチは、クライマックスで混沌と化す。スポーツをスポーツたらしめているルールやモラルが何一つ機能しなくなった光景が皮肉たっぷりに描き出された時、こう思わずにはいられない。

 この荒廃とニヒルが、現在のイタリア人のサッカー観なのだろうか。だとすれば、まさにカミュが説いたという不条理そのものである。

 ここまで書くと、なんと陰鬱な内容かと思われるかもしれない。しかし、この作品は紛うことなきコメディだ。

 あらゆる語彙を駆使して敵を罵る悪辣ぶり。相手を侮辱するためならバスの中からでも尻の穴を見せる下品さ。エースの機嫌を直すために娘をダシに使う親(監督)の身勝手。葬儀の悲しみも結婚式の喜びも、すぐにサッカーにすり替わってしまう無節操。延々描かれるサッカー馬鹿の愚行は、いずれも無垢ゆえに滑稽、チャーミングですらあり笑いを誘う。

 ボール一つにここまで人生を翻弄される人々とは一体何なのか――いや、劇中においては突き詰めればボールは“空気”だと喝破されている。実態のない対象にここまで心を乱し、取り憑かれ、痛い目に遭いながら、喜怒哀楽を爆発させているのだ。

 当のイタリア人は、この作品をどのように見たのだろう。彼らを失望させ続けるカルチョにうんざりしつつも、どこかで決別できない自分たちを自嘲気味に受け入れたのではないか。そう思わせるほどに、不思議な肯定感が漂っている。

 監督が、本当はこの作品で何を訴えたかったのか、それも分からない。ただ、最初のヒントを手がかりとすると、これもカミュの言葉を借りたメッセージのように思えてくる。
 サッカーから人生を学んだというカミュは、こんな言葉も残していた。

「人生それ自体に意味などない」。奇しくもそれは、この作品におけるカルチョと同じではないか。

「しかし、意味がないからこそ生きるに値する」。そう彼は続けている。
 カルチョは不条理で無意味。でも、だからこそ価値がある。そう言って肩をすくめるイタリア人の姿が見えた気がした。

前田拓(まえだ・たく)
1973年、宮崎県生まれ。2000年に株式会社フロムワン入社。『CALCIO2002』、『World Soccer King』、『Samurai Soccer King』などサッカー専門誌の編集を経て14年より独立。編集組織Cowboy Song代表。好きな映画は『Saturday Night Fever』。

【映画詳細】
『イタリア式サッカー狂騒曲』
2013年 イタリア/コメディ/96分
監督:パオロ・ズッカ

【ヨコハマ・フットボール映画祭について】
世界の優れたサッカー映画を集めて、2016年も横浜のブリリア ショートショート シアター(みなとみらい線・みなとみらい駅から徒歩6分)にて2月11日(木・祝)、12日(金)、13日(土)、14日(日)の4日間開催!全国ツアーの日程も含め、詳細は公式サイト(http://2016.yfff.org/)にて。