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ネラッズーリの歴史を塗り替えた男・長友佑都…名門クラブの“シンボル”へ

2015.04.19

[ワールドサッカーキング5月号掲載]

それは誰も予想だにしなかった異例の“スピード出世”だった。2010年夏、イタリアのチェゼーナに移籍した長友佑都はそのわずか半年後に名門インテルへと引き抜かれた。そこで我々が目にしたのは次々と歴史を塗り替える長友の姿だった。

長友佑都

文=小川光生
写真=ゲッティ イメージズ

ダービーで起こったた見慣れない光景

 それは2013年12月22日、ミラノ・ダービーでの出来事だった。クリスマスの3日前に行われたシーズン最初のダービーマッチ。試合は86分にロドリゴ・パラシオが劇的なゴールを決めてインテルが1-0の勝利を収めた。だが、その得点の4分前に“ある事件”が起こっていた。

 当時インテルを率いていたヴァルテル・マッツァーリは、膠着状態を打破すべく68分にFWのマウロ・イカルディを投入することを決める。代わりにベンチに下がったのはこの日、ハビエル・サネッティに代わってゲームキャプテンを務めていたエステバン・カンビアッソだ。ここまではよくある光景だったのだが、その直後、見慣れない光景が眼前に展開されることになる。ピッチから引き上げるカンビアッソが黄色いキャプテンマークを腕から外し、それを長友佑都へと手渡したのだ。

 日本人選手がインテルのキャプテンマークを巻いてプレーする。1960年代、“グランデ・インテル”の偉大なるリーダー、ジャチント・ファケッティ、18歳でワールドカップ優勝メンバーの一人となり、その後19年にわたってインテルでプレーしたDF、ジュゼッペ・ベルゴミ、そして、インテル通算845試合出場を誇る“鉄人”ハビエル・サネッティ……そうした偉大な選手たちによって受け継がれてきたキャプテンマークが、長友の左腕に巻かれたのである。その事実を受け入れるまで、少なくとも私の脳細胞はかなりの時間を要した。インテルの長い歴史において、アジア人プレーヤーがキャプテンマークをつけたことなどもちろん一度もない。あの日の長友は、日本サッカー界の歴史に新たな1ページを刻んだだけでなく、インテルの歴史をも動かしたと言える。


FC Internazionale Milano v AC Milan - Serie A

渡欧から半年でインテルの一員に

 長友がセリエAへの挑戦を決意してチェゼーナに入団したのは2010年夏。思えば、まだあの頃は日本人DFに対する懐疑論が根強かった。チェゼーナの当時の監督で現在はFC東京を指揮するマッシモ・フィッカデンティが、こう話していたのを思い出す。「開幕前、我々が新たに獲得できるEU外選手の枠は一つだった。その状況で私はフロントに長友の獲得を強く打診したんだ。『マッシモ、目を覚ませ。日本人のサイドバックがここで通用すると思うのか? もし失敗したら君の責任にだぞ。無難に南米の選手を獲得しよう』。そう諭す者もいた。それでも私の決意は変わらなかった。今はもう誰もそんなことは言わない。賭けに勝ったのは、ユウトと私のほうだったのさ」

 半年後、アジアカップを制してイタリアに戻った長友は、またしても「歴史」を動かす。ユヴェントス、ミランと並んで“イタリアの3巨星”と呼ばれるインテルへの移籍が決まったのだ。2011年1月31日、冬のカルチョ・メルカートの閉幕数分前にサインを済ませるというまさに駆け込みでの電撃移籍だった。

 インテルのセリエA優勝回数はユヴェントスの30回に次ぐ歴代2位タイの18回、イタリア国内のティフォージの数もユーヴェには及ばないもののミランとほぼ同数の600万〜700万人を有すると言われる。1908年のクラブ創立以来、一度も2部落ちを経験したことがない唯一のクラブ。09-10シーズンにはイタリア勢初となるトリプレッタ(3冠)も達成したカルチョの名門である。長友はそんなクラブの黒と青のユニフォームに、初めて袖を通したアジア人となった。


FC Internazionale Milano v AC Milan - Serie A

偏見を乗り越え名門の主力に定着

 しかし、当初は例の“偏見”もつきまとっていた。その壁の存在に気づいていた当時の指揮官レオナルドの“名言”が、今も耳に残っている。「ユウトが戦っているのは目の前の敵、ポジションを争うチームメートだけではない。『日本人がインテルでレギュラーになどなれるわけがない』という偏見の目、“見えない敵”とも戦っているんだ」

 もっとも、長友は加入直後からそうした見えない壁をピッチ上での結果で打ち破っていく。左右両サイドをこなすユーティリティー性、ゲーム終盤になっても落ちない運動量、自ら「ストロングポイントの一つ」と語る類まれなオフェンス力、そしていかなる時でもチームの勝利を最優先する犠牲的精神……。むしろこれらを兼備した長友を重用しない監督を探すほうが難しかった。

 レオナルド、ジャンピエロ・ガスペリーニ、クラウディオ・ラニエリ、アンドレア・ストラマッチョーニ、ヴァルテル・マッツァーリ、そしてロベルト・マンチーニ。インテルで長友を指導したすべての監督が、彼を「チームにとって貴重な選手」と称え、主力として起用してきた。

 確かに、三浦知良、中田英寿、中村俊輔らがイタリアでプレーしていた90年代や2000年代の初頭と、この数年とではセリエA全体のレベルに相当な違いがある。財政難と連動して多くのビッグネームが国外へ去り、ファンのカルチョ離れも進んでいる。インテルも3冠の後は一向に成績が上がらず過渡期にある。それでも、長友がインテルでキャプテンマークを巻き、今シーズンも副主将の地位にあるという事実の重要性が弱まるわけではない。時代による浮き沈みはあるにせよ、インテルがイタリアサッカー界の“巨星”の一つであることは、今も昔も、そしてこれからも変わらない。

 ただし、今シーズンの長友は度重なるケガに苦しみ、ここまでリーグ戦出場はわずか10試合。半月板を損傷した一昨シーズン以来の苦境に立たされている。復帰予定の4月初旬からシーズン終了までのパフォーマンスが、今後を決める重要なカギになるだろう。

 長友にはここに来て移籍の噂も出始めている。恐らく本人は“復権”のために「最後の10試合」に懸けているはずだが、皮肉にも良いパフォーマンスを見せれば見せるほど移籍の可能性は増す。具体的な移籍先の名前はまだ出ていないが、ドイツ、イングランドの複数クラブが彼の獲得に興味を示しているという。長友の復活を見届けた上で、新たに「買いたい」と名乗りを上げるクラブが出てくる可能性も十分にある。

 長友とインテルとの契約は2016年6月まで。この夏、それを延長するかしないかで、長友の未来は大きく変わってくる。今のところ、移籍の可能性は20パーセントといったところだろうか。

 日本サッカーの、そしてインテルの歴史をも塗り替えた男、長友佑都。尊敬するサネッティのようにインテリスタとしてのキャリアを全うするのも一つの選択肢だろう。このままインテルで活躍を続け、チームのシンボルと呼ばれるような選手になったなら……。その時彼は、真の意味で“歴史の創造者”となるはずだ。

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