2014.11.12

日出ずる国の救世主…様々な障害を乗り越え、中田英寿はローマの英雄へ

[ワールドサッカーキング12月号掲載]

2001年6月、18年ぶりのスクデットに沸くオリンピコのピッチには日本人ジョカトーレの姿があった。様々な障害に翻弄されながらも、つかみ取った千載一遇のチャンス。そして彼はローマの英雄になった。
Hidetoshi Nakata
文=小川光生
写真=ゲッティ イメージズ、アフロ

ナカタを苦しめ続けたEU外選手枠の障害

 ローマを訪れた際、私が日本人だと分かると、地元の人々はかなりの確率でこう尋ねてくる。「ナカタは今、どうしている?」

 質問者がロマニスタだった場合は大変だ。すぐに“例のゲーム“の話になる。2001年5月6日、トリノのデッレ・アルピで行われたユヴェントス対ローマの一戦。中田英寿がローマをスクデットへと前進させる“大仕事”をやってのけたあのゲームだ。あれから13年以上が経過したが、中田の名は今もロマニスタの心に深く刻まれている。そう、憎きユヴェントスに引導を渡した英雄としてだ。

 ペルージャで鮮烈なセリエAデビューを飾った中田がローマに入団したのは2000年1月の冬のメルカートでのこと。この頃のローマは地元出身の実業家、フランコ・センシ会長の下、資金力を武器に毎年のように大型補強を繰り返していた。目標は1982-83シーズン以来となるスクデット。そのためならある程度の出費もいとわない。そんな中、中田は推定300億リラ(当時のレートで約21億円)+人的補償としてドミトリー・アレニチェフを差し出すという条件でローマへの移籍を果たした。この中田獲得劇には当時の指揮官、ファビオ・カペッロの意向が強く反映されていたとも言われている。

 ところがローマ移籍後、中田の出場機会は激減する。途中加入の99-00シーズンこそ、15試合で3ゴールとまずまずの成績を残したが、2年目の00-01シーズンは目に見えて出場機会が減少。その主な理由は二つあった。

 一つはローマの偉大なバンディエラ、フランチェスコ・トッティとポジションが重なっていたこと。トッティは生粋のローマっ子でありロマニスタ。当時からチームの偉大な求心力だった。あの頃は細めのヘアバンドがトッティのトレードマークだったが、ローマの町には彼のファッションをまねた子供たちで溢れていた。当時、カペッロが好んで採用したのは、トッティをトップ下に置いた3-4-1-2システム。同じくトップ下を主戦場とする中田は、どうしても「トッティのバックアッパー」という位置づけになってしまった。

 もう一つの原因はEU外選手枠の存在だ。現在は全く違う規定となっているが、当時のセリエAには「EU外選手の登録は5人まで、ベンチ入りは3人まで」というルールがあった。

 00-01シーズン、EU外選手としてローマに在籍していたのはガブリエル・バティストゥータ、ワルテル・サムエル、マルコス・アスンソン、そして中田の4人。バティストゥータとサムエルはチームの攻守の要であり、中田はベンチ入りさえままならない状況が続いた。事実、5月6日の“例のゲーム”までの中田のリーグ戦出場はわずか10試合、先発出場は4試合で、得点も4月22日のウディネーゼ戦で記録した1ゴールのみだった。

「登録は5人まで、ベンチ入りは3人まで」というEU外選手枠に苦しめられた中田。ベンチ入りさえままならない状況が続いたが、“運命のユヴェントス戦”を前に転機が訪れる……。続きは、発売中のワールドサッカーキング12月号でチェック!

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