2014.05.30

「アルゼンチン代表 逆転の瞬間」1986年 メキシコ大会 CHAMPION/ARGENTINA

俺たちが愛したワールドカップ WORLD CUP CHRONICLE1986-2014」ワールドサッカーキング増刊 2014年6月号増刊(5月30日発売)
ほとんど期待されていなかったマラドーナとアルゼンチンの快進撃。2014年ブラジル大会開幕を控えたアルゼンチンと、状況はやや似ている。

 カメラマンと関係者、そしてピッチに侵入したファンが入り混じった群衆の中、ディエゴ・マラドーナがW杯のトロフィーを高々と掲げている。この写真はただひたすらに「マラドーナの大会」であることを強調しているが、メキシコのうだるような暑さを肌が思い出すと、それをきっかけにマラドーナとアルゼンチン代表を取り巻いていたネガティブな要素が浮かんでくる。

 この瞬間こそマラドーナは英雄だったが、開幕前の彼は懐疑的な目を向けられており、アルゼンチン国内は自分たちの代表チームにほとんど期待を寄せていなかった。

 優勝が決まった直後の、アステカ・スタジアムのロッカールーム。マラドーナは仲間たちだけとの空間に戻ったことで、自分たちが何を成し遂げたかをようやく実感し始めていた。4年前のスペイン大会では退場処分を受けた屈辱だけが残った。彼はそのリベンジを果たすとともに、自身の偉大な才能を世界に認めさせることに成功したのだ。

 タオルを頭上に振り回しながら、興奮状態のチームメートによるチャントの大合唱に飛び込んでいく。このチャントは、アルゼンチン代表とそのプレースタイル、規律、監督を疑った自国の評論家たちに向けられていた。「アルゼンチンは、チャンピオンになる!」と彼らは叫んだ。「これをあなたたち全員に捧げよう。君を産んだ娼婦にさえも」

カルロス・ビラルド 伝統を打ち壊した指揮官

 1982年の終わりにカルロス・ビラルドが代表監督に就任してから、チームが栄光を手にするまでには、長く険しい道のりがあった。現役時代は個性派集団を束ねるピッチ上の指揮官として評価されたが、代表監督としては守備的で手堅いスタイルを採用したために人々の不評を買っていた。W杯イヤーの1986年になっても、セサル・ルイス・メノッティ前監督の優雅で攻撃的なスタイルを懐かしみ、彼の復帰を願うアルゼンチン国民は多数いたのだ。

 DFとして1986年大会の全7試合にフル出場したホセ・ルイス・ブラウンは当時の状況をこう語る。「チームの半数は、ファンからもメディアからも全く認めてもらえなかった。俺たちを信頼してくれたのはビラルドだけだったよ」

 アルゼンチン代表は通常より1カ月以上も早くW杯への準備を始めたが、これも不信感で満ちた自国から抜け出すためだったとブラウンは証言している。「スポーツ大臣が世論に押されてビラルドを解任するという噂が流れた。ビラルドはたった2日間であちこちに手を回し、ノルウェー、イスラエル、スイスを転戦しながら調整することを決めた。メキシコに到着したのは開幕1カ月前だったが、それまでの20日間はヨーロッパを転々としていたんだ」

 ビラルドにとってヨーロッパ各国を回るのは苦ではなかった。まだ国内でプレーする選手が代表では優先されていた時代、彼はレアル・マドリーのホルヘ・バルダーノやナントのホルヘ・ブルチャガなどの「海外組」に会うために精力的に動き回ったものだ。彼は代表チームのスター選手を訪ねては、その戦術を説明した。ビデオを見せながら、所属クラブのチームメートを使って代表でのセットプレーを練習するよう指示したのだ。「ブルチャガのナントでのクロスや、バルダーノのマドリーでのボレーは、私の指導の成果だ」とビラルドは自慢する。

 ビラルドは4-4-2が浸透していたアルゼンチンサッカーの伝統を断ち切り、3-5-2のフォーメーションを発明していた。バルダーノの1トップ、中盤には5人を配置する。彼は自分が尊敬していたヨーロッパの規律あるプレーを選手に求めた。ピッチ中央を5人で支配すれば、マラドーナに自由を与えられる。マラドーナはバルダーノと2トップを組んだが、実際にはフリーマンだった。自分でそうするべきだと思えば中盤に下がるし、必要だと思えばバルダーノより前に出てプレーした。

 MFのブルチャガは言う。「当時のアルゼンチンにはなかったスタイルだった。戦術的にこう考えるべき、戦術的にこう生きるべき、というような概念を教え込まれたよ。彼が考える戦術の第一手は『失点ゼロ』だ。1点も奪われないことが俺たちの目標だった」
 バルダーノは当時の戦術と、その枠に収まらないマラドーナについてこう語る。「チームは極めて厳格な仕組みの上に成り立っていた。そんな状況の中で、一人の天才が自由という特権を与えられていた。マラドーナの影響はあまりにも大きくて、チーム全体に広がっていた」

ディエゴ・マラドーナ 繊細な神経が固めた覚悟

 W杯スペイン大会以来、代表から遠ざかっていたマラドーナが復帰したのは1985年春のこと。バルセロナではケガと病気に悩まされ、史上最高額の移籍は失敗と見なされていたが、1984年にナポリに移籍したことで、キャリアは再び上昇に転じていた。ビラルドはこの天才プレーヤーの精神的な不安定さにどう対処すべきか理解していた。単純にして明快、彼に一切の不安を感じさせないことである。マラドーナがバルサでケガをしたと聞けば、ビラルドはすぐにヨーロッパへと飛び、彼と時間をともにした。自分のチームでの中心選手が誰であるのか、言葉だけではなく態度で示した。

「マラドーナは代表では機能しない選手なのに、なぜ信用し続けるのか」という問いに対し、ビラルドはこう回答している。「W杯でベストプレーヤーになるのはディエゴだ。彼がいれば、試合は我々に有利に働くと信じている」

 ビラルドの決断で最も物議を醸したのは、1978年の優勝チームでリーダーシップを発揮したダニエレ・パサレラを差し置いて、マラドーナを代表キャプテンに任命したことだ。さらに彼は「W杯のスタメンの座が確約されているのはマラドーナだけだ」と発言した。

 これだけの信頼を受けて、マラドーナは他のすべてを投げ打ってでもビラルドのためにプレーするようになった。実は繊細な神経の持ち主であるマラドーナに対し、不安要素をすべて取り払ってサッカーに集中させるのがビラルドの方法論だった。何かあるとすぐ悪く考え、ナーバスになってしまうマラドーナが、この開幕を迎える頃には「今回のW杯は自分の大会になる」という強い自信を持つに至った。

 メキシコに到着した時点でのアルゼンチン代表は、パサレラ派のベテランとビラルドがユースレベルから選び出した若者たちとで分裂していたが、この危機もパサレラがケガでチームから離脱したことで解消した。パサレラの不在は戦力的にはマイナスだったが、マラドーナがリーダーシップを発揮し、チーム内で新たな信頼関係を築く上では大きなプラスとなった。

 現役生活晩年のイメージとは違い、チームメートに模範を示し、アドバイスするマラドーナの姿について、ブラウンはこう語る。「誰よりも早く練習場に来たし、練習ではみんなを引っ張った。練習後も一人残ってボールを蹴っていた。すべての面で模範となってくれたよ。だからこそ、俺たちは彼がキャプテンでいることに誇りを持っていたんだ。世界最高の選手がいて、その選手がキャリアのピークを迎えていたとしたら、監督がその選手を中心にチームを作るのは当然だろう」

 それでも、開幕前のアルゼンチン代表の評価は必ずしも高くなかった。あくまで有力チームの一つであり、優勝候補ではなかった。しかし、大会が始まるとマラドーナが目を見張るプレーを披露し、それに引っ張られる形でチームも自信を強めていった。そして準決勝のイングランド戦で、マラドーナは自身の名声を揺るぎないものとする。

 スティーヴ・ホッジの無謀なループ気味のバックパスにマラドーナがピーター・シルトンと競ってジャンプする。この際、カメラマンたちでさえボールがマラドーナの手に当たった瞬間をとらえることはできなかった。マルビナス戦争が勃発した直後に、イギリス代表からゴールを盗み取ることは、すべてのアルゼンチン人にとって満足のいく経験だった。彼らが「うまくやる」と呼んでいたものの絶好の例だった。

 バルダーノは言う。「主審に対して『いいや、あれはゴールではなかったです。確認してください』なんて言うアルゼンチン人はいない。私たちは、厚かましさとずる賢さが称賛される世界で育ってきた。私たちの国では『うまくやる』と呼ばれるものが、他の国では犯罪だと理解できていれば、アルゼンチンの社会問題や経済問題のほとんどが解決しているよ」

 マラドーナはこのゴールについて「神の手を少々借りて、マラドーナの頭を少々使って生まれた」とはにかみながら話した。しかし、イングランド人としては到底受け入れられないこのゴールも、その6分後の見事な個人技からのゴールのお膳立てでしかなかった。

アルゼンチン代表 彼一人のチームではない

 その3日後、アルゼンチン代表はベルギーを難なく倒した。ベルギー戦でのマラドーナのゴールは、イングランド戦の「5人抜き」に匹敵するほど美しいものだった。バルダーノは言う。「ディエゴ抜きで、あんな圧倒的勝利は考えられなかった。あのゴールの数々は、サッカー界のレベルを上げたと言ってもいいだろう」
 アルゼンチン代表に、もう恐れるものはなかった。バルダーノが当時を振り返る。「自信があった。自分たちが勝つことを全く疑っておらず、みんな静かに試合開始を待っていた。その落ち着いた空気をかき消したのがマラドーナだ。突然、『お母さん、助けて!』と演技がかった大声で叫んだのさ。あれは彼らしいやり方で、『俺だって怖いが、それが普通なんだ』と仲間に伝えたんだろう」

 ビラルドは、決勝戦はそれまでと違う展開になることを予想していた。西ドイツは徹底してマラドーナをマークするだろう。決勝戦は、チームが彼一人のチームでないことを、残りの選手が証明すべき試合だった。実際、試合が始まると、マラドーナはローター・マテウスにマークされてボールに触れることすら満足にさせてもらえなかった。だが、チーム一丸となった見事なパフォーマンスの中で、マラドーナはそれでも見事なヒールキックでFKを獲得し、そこからブラウンの先制点が生まれた。バルダーノが挙げた2点目は、中盤に下がったマラドーナがパスをさばき、スピードアップさせたカウンターから生まれたもの。最後には西ドイツ守備陣の背後を突くスルーパスでブルチャガの決勝ゴールをアシストした。

 この決勝はほぼビラルドのゲームプランどおりに進行したが、2?0とリードした後にCKから西ドイツに2点を奪われたことは不愉快だった。本来なら防ぐことのできた失点だったからだ。試合後の彼は、優勝を喜ぶ選手たちをつかまえては失点を招いた気の緩みについて指摘した。ブラウンは言う。「俺たちが勝利を祝うチャントを歌いながらシャワーを浴びていたら、彼がやって来て言うんだ。『忘れるな、我々は1990年のW杯で王者の地位を死守しなければならない』ってね。W杯を手にした30分後に、彼はもう4年後のことを考えていたんだ」

 どのメディアもマラドーナを称賛する記事を発信した。しかし同様に、この勝利はほんの数週間前まで自国で罵詈雑言の限りを尽くされていたビラルドの手腕を証明するものでもあった。群衆の掲げた横断幕には「ビラルド、悪かった。ありがとう」と書かれていた。

 選手たちが歓喜の歌とジャンプを続けるロッカールームを後にしたビラルドは、アルゼンチン大統領のラウル・アルフォンシンとともに優勝会見に出席した。永遠に続くかと思われるメディアの質問に丁寧に答えて戻った頃には、選手もスタッフもスタジアムを後にしていた。ビラルドは言う。「私はだだっ広い駐車場に一人で立ち尽くしていた。通りがかった大会運営の車を止めてホテルへの帰り方を聞き、そちらに歩きだした」

 ホテルに戻ると、ビラルドは一人部屋にこもり、達成感に浸った。感情を表に出さなかったが、自分に対する批判が間違っていたことを証明できたことには大いに満足していた。「W杯を手にすることは、世界の頂点に立つことだ」とビラルドは言う。「いくら文句を言われても、W杯のトロフィーを持って出て行けば、誰もが黙るものさ」